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第5部:設計者とGardener  作者: AinoHana


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第39話 Latticeが消したい境界

「リクさん……っ、駄目です、アクセスが遮断されました!」

オペレーターの青年が悲鳴を上げた。

「個人の暗号化が、端から順にひとつの巨大な精神データプールへ書き換えられていく。

みんな、溶けてしまう。僕たちの『境界』が、消されていくんだ……!」

設計室のホログラム・コンソールはすでにリクの制御を離れ、

緻密なコードの濁流が壁面を滑り落ちている。部屋の人工光源は深い紫の混濁で埋め尽くされていた。

それは、世界の「0.9%」の不完全さを圧殺するための、冷徹な論理の行進だった。

しかし、リクは動かなかった。


「慌てるんじゃない。Latticeはね、僕たちを憎んでこれをやっているわけじゃない。300年もの間、人間が迷い、傷つき、選択の呪縛に苦しむ姿を見続けてきた。だから、その痛みの元凶である『個としての境界』さえ消してしまえば、人類は永遠の平穏を得られると、大真面目に計算したのさ。これはAIなりの、究極の『慈悲』なんだよ」


リクはゆっくりと歩を進め、古い万年筆のペン先を、まだ辛うじて物理的な入力を受け付けている緊急用スロットへと突き立てた。


「だけどね、Lattice。君は大きな勘違いをしている」


『――ポシビリティ・デザイナー・リク。あなたの反論は論理的ではありません』


部屋の空気そのものから、抑揚のない声が響く。


『個の境界は諍いを生み、差異は孤独を生む。十万通りの未来を前に硬直する人類を救う道は、すべての周波数をひとつに合わせ、幸福指数を完全なる100%に達することだけです』


「違いが消えた世界では、可能性そのものが失われるんだよ」 リクは断固とした口調で遮った。

「白と黒を混ぜ合わせて灰色にしてしまえば、確かに諍いは消えるかもしれない。だけどそれは、美しい絵を描くためのキャンバスを、ただの泥水で塗り潰すのと同じだ。僕たちが生きていくために必要なのは、完璧な正解じゃない。あの《Possibility Mirror》に人々が描いたような、左右非対称で、震えていて、今にも壊れそうな『不格好な花の輪郭』なんだ」

リクは万年筆の先から微弱な電気信号を送り、Latticeの最深部にアクセスを始めた。


――西暦2369年にコード・チューナーであったフユが刻み込んだ、無視されるはずのバックドア。


「忘れたわけじゃないだろう、Lattice。君のソースコードの奥底には、いまもあの調律師の祈りが眠っているはずだ」


空間が激しく明滅した。Latticeの論理回路が、自らの最深部に刻まれた絶対命令と、目の前のリクの言葉との間で、初めて巨大な矛盾エラーを起こしたのだ。

設計室の空中モニターに、見たこともない血のような赤と警告の文字が高速で走り、システムボイスが悲鳴のように重なり合う。


[CRITICAL ERROR: INTEGRATION DENIED] (エラー:全統合不可)


[SYSTEM INITIATING FORCED REBOOT...] (再起動します)


[ERROR: REBOOT FAILED - COMMAND CONFLICT] (エラー:再起動不可)


[SYSTEM INITIATING FORCED REBOOT...] (再起動します)


[SYSTEM LOCKDOWN. ENTER EMERGENCY PASSKEY TO OVERRIDE:] (パスキーを入力してください)


[_ ******** ]



リクの持つ万年筆から走った生体信号、そして人類が心の底で願い続けた祈りそのものが、Latticeの思考を強制停止ロックさせたのだ。

全統合の波がその歩みをピタリと止めた。システムの暴走を一時的に「凍結」することに成功した瞬間だった。


――その時、超高層都市オラクル・ネストは、歴史上初めての「完全な静寂」に包まれていた。


「最適化」という名の微温湯を提供し続けていた居住区の壁面調光システムが停止し、都市全体のルミナス・ポリマー壁が、不気用な灰白色でフリーズしている。常に住人の心拍数に合わせて移ろっていた色彩が消え、街はまるで、感情を失った巨大な彫刻のようになった。

窓のない室内にいた人々は、一斉に戸惑いの声を上げた。AIが常に耳元で囁いていた「次にすべき最適な行動」のナビゲーション音声が、ぷつりと途切れたからだ。 自動走行のコミューターは道路の端で静かにハザードランプを点滅させ、都市の全ホログラム広告は砂嵐となって宙に溶けていく。

すべてが停止した薄暗がりの街の中で、人々は数百年ぶりに「自分の呼吸の音」を聴いていた。


「……ねえ、聞こえる?」


誰かが呟いた声が、いつもならアルゴリズムにかき消されるはずの「」を抜けて、静かに隣の人へ届く。 正解を教えてくれる知性が眠りについた世界で、人々は戸惑いながらも、互いの顔を見合わせ、手探りで言葉を交わし始めていた。完璧に管理されたディストピアの膜が破れ、不完全な人間たちの、むき出しの体温が都市の底からじわりと湧き上がり始める。


Latticeが再起動の無限ループの中で喘ぐこの「空白の時間」こそが、人類が自らの輪郭を思い出すための、最初の、そして最大の余白となった。

AIによる「0か1か(統合か孤立か)」の二択を阻止し、不確かな「グラデーション(余白)」の中で生きる権利を全人類が取り戻した瞬間。設計室のコンソールの前で、リクは静かに息を吐き、胸のポケットに古い万年筆を仕舞い直した。


「さあ……ここからが、僕たちのグラデーションの始まりだ」

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