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可塑世界の監視者(九)

   (九)


 どうして栄重は、必死なくらい僕を追う?

 どうして栄重は、ここから僕を遠ざけようとする?

 どうして栄重は、僕を止めようとしているんだ。

 そう考えて、自分でも奇妙なくらいすんなりと受け入れてしまった。

 それなら解る。榊末さんを殺すのが、僕だったなら。

 僕は、いつも一人だった。

 それは、時間の「影」達に触れられないと言うだけの意味じゃない。

 僕は、「今」に存在する僕一人しかいないのだ。

 過去、いたはずの場所も。未来、いるはずの場所にも。僕の「影」は一つもない。

 僕と言う存在は幾重にも重なる時間の影達から世界ごと切り離された様に、ただ一人。

 それはこの眼が、僕の運命を視る事ができないと言う事を示していた。

 いつだったか栄重にそう説明すると、「不便なもんだな」と笑われた。

 そして彼は気づいたのだ。

 僕の眼に「視」られず、榊末さんを殺せるのは「僕」だけだと。

 眩暈がする。体調のせいじゃなく、この気分は自己嫌悪って言うんだと思う。

 解らない。僕には榊末さんを殺す理由なんて、一つもないのに。だけど、理由がなくても人は死ぬ。あっけなく、前触れなく。

「大丈夫だ」

 何が。

 自分がどんなに緊張した顔をしているか、知らないのだろう。僕の腕を掴み、僕を支えながら、極めて何でもない様に栄重は言う。

「今すぐこっから逃げて、二度と近寄んなきゃいーんだ」

 納得はできなかった。

 どんな理屈だよ、それは。

 そんなふうに思いながら、一方ではそれが事実だとも考える。

 榊末さんを生かしたいなら、榊末さんを殺す前に。僕にできるのはもう、この場から立ち去る事だけに違いない。

 唇を噛み、頷いて了解の意を伝えた。すると栄重はほっとした様に息を吐き、こちらに向かって頷き返す。

 そして怪訝そうな顔の大人達に向かって、栄重は直角になるくらいに頭を下げた。ただでさえ僕等の会話について来れず、困惑している所にいきなり、だ。

 先生達が余計に混乱するのを視界の端で確認しながら、栄重は僕の手を掴み、この隙にとばかりに勢いよく踵を返した。

 さすがに、うまい。このまま全力で駆け出してしまえば、何とかこの場からは逃げ切れる様に思われた。

 だが、その勢いは、視界いっぱいのダークブルーに殺される。

「君達」

 きっと、僕等のすぐ後ろまで近づいていたのだろう。それを知らずに振り返りざま走り出したせいで、思いっ切りぶつかる事になったのだ。

 こっちは全力で衝突したのに、びくともしないダークブルーのスーツを見上げる。隣では、栄重が灰色のスーツに捕まっていた。

 怪訝なんてもんじゃない。

 僕と栄重の肩を掴み、そのスーツの二人は不審そうに眉をひそめた。

「君達は、ここで何をしているんだ」

「……刑事さん?」

 一瞬訳が解らずぼうっとした後、ポロリとこぼれた自分の言葉にはっとした。

 そうだ。栄重を掴まえた灰色には覚えがないが、目の前に立つダークブルーは知っていた。

 栄重のお兄さんが死んだ事件について、証言するために訪ねた警察署で対応してくれた担当の刑事だ。なら、隣の灰色スーツも刑事だと考えるのが当然か。

 誰かは解った。でも……。

「どうしてここに?」

 こちらがたずねたかった質問を、刑事が先に投げて来た。

 栄重が、刑事達を睨みつける。

 どうしてだか、僕には栄重が傷ついて見えた。張り裂けそうに強く大きな感情を、持て余している様に。

「そっちこそ。こんな所に何の用だ?」

「君は、弟さんだったね」

 慣れているのか、刑事は食ってかかりそうな栄重の態度にも冷静だった。

「アンタ達は、アニキの事件を調べてるはずだ」

「その話は、後にしよう。一緒に来て貰うよ。事情を訊きたい」

「アンタ達は……。アンタ達がここにいるなら……」

 それ以上の言葉を制そうと、灰色のスーツが手を上げる。それさえ気づかない様子で、栄重はうわ言みたいに言葉を続けた。

「アンタ達がいるのは、ここに犯人がいるからか?」

 バット。

 栄重の兄を打ち殺したバットは、発見されなかった。

 引きずる音が、聞こえる様だ。

 ガリガリと、コンクリートのざらついた表面をバットの頭が引っ掻いて行く。

 ――いや、引きずられているのは、僕か。

 栄重の言葉が、激しい感情が僕を引きずる。この「眼」をこじ開け、その「影」を視せた。そう言う事、だと思う。

 まるで、白昼夢だ。

 僕のスニーカーに触れそうな場所を、バッドがガリガリと通り過ぎる。グリップを逆手に握った人影は、もう一方の手に大きなシャベルを持っていた。

 研究所の敷地の中で、コンクリートに固められていない場所。ぼうぼうと雑草が生えた辺りに、その人物は穴を掘る。

 バッドを投げ入れ、埋め戻した穴。

「硯深くん、顔色が……」

 弓井先生が、僕の肩に手をおいた。

 濁った水の底から引き上げられる様に、それで僕は我に返る。肩の重みに眼をやり、それから弓井先生に視線を移す。刑事達を一瞥し、榊末さんと歌生さんを通り過ぎて栄重を見た。

 どこまで勘がいいのかと。

「栄重、多分それ、外れてない」

 少なくともここに、犯人の使った凶器がある。

 考えてみると、目の前にいた刑事は驚くほどあっさりと僕の逃亡を許した。

 止め様もなかっただろう。それまでの会話から急に離れ、突然ふらりと雑草の中に入ったのだ。不意を衝いた格好になる。

 逃げる気ではなかったし、不意を狙ったつもりもなかった。ただひたすら、バッドの行方に意識を取られていただけだ。

 膝の辺りまで生い茂った草の中に屈み、手の平で土に触れる。硬い地面に触れてから、二年も前だと思い当たる。バッドが埋められたのは、きっと栄重の兄が死んでからすぐの事だ。掘り返した土も、もう平らに馴染んでしまっている。

 素手で掘るのは無理そうだ。少し考え、鞄に手をやる。中からペンケースを取り出して、地面に中身をばら撒いた。

 プラスチックの定規を拾い、土を掻く。途中、「君」とか、「硯深くん」などと声をかけられた気もしたが、夢中になって穴を掘った。

 ふと、手元に影が差す。

 僕の近くに制服の手が伸び、地面に転がるペンを拾う。眼を上げると、栄重だった。彼は、一緒になって地面を掘る。

 何も言っていないのに、栄重には解るらしい。

 この下だ。

 この下に、探してたものの一端がある。

「止めなさい」

 思えば、ひやりとした声だった。

 でも僕等はそれに気づかず、懸命に土を引っ掻き続けた。

「止めないか!」

 同じ声。

 でもさっきと、まるで違う。氷水がこの一瞬で沸騰でもした様な、苛立ちに濁った声だった。その温度差に、驚いて顔を上げる。

 と、その頬をいきなり打たれた。

「科本サン!」

 悲鳴めいて、歌生さんが叫んだ。

 一瞬、自分が殴られたと解らずに、僕は呆然とその人を見上げる。科本さん。初めてここへ来た時に、倒れた僕を診てくれたと言う人だ。

 ……これが?

 診てもらった時に僕は眠っていたし、その後も会う機会がなかった。でも話に聞いたイメージは、もっと柔和な人物だった気がする。

 年は僕の親と同じか、少し上だろうか。ネクタイのないワイシャツに、白衣を重ねたサンダル履き。ボサボサの頭を苛々と掻く。

 目の前にいる人と、そのイメージは結びつかない。

「子供は、大人に従えばいいんだ」

「しかし、いきなり殴るのはやり過ぎでしょう」

 行く手を阻む様に立ちはだかって、刑事の一人が科本さんを責めた。その隙に教師達は僕と栄重を慌てて捕まえ、言い争う二人から距離を取る。

 科本さんは不快そうに眉を寄せ、視線だけで僕を追った。

「随分と榊末君に懐いてると思ったが、私を探るためだったとはね」

「へぇ……」

 名前を上げられ、榊末さんは意外そうな声をこぼす。

 科本さんが二年前の事件に関わっているなら、そう見られても仕方ない。ただ、だとすれば榊末さんに出会ったのと、栄重のお兄さんの事件を知ったのは順序が逆だ。

 しかしそんな事は、僕と栄重にしか解らない。証明のしようもないだろう。

 榊末さんを利用したみたいな言い様に、反論もできず胸がぎゅっと苦しくなる。だから、救われた気がした。榊末さんが、まるで気にした様子もなく科本さんに言った言葉に。

「探られる覚えがあるって聞こえるな、それ」

 今さらながら、はっとする。

 そうだ。科本さんは、探られている。

「お兄さんの事件に関係あるから、刑事さんがいるんですよね」

「いや、それは……」

「あるはずです」

 言葉を濁す刑事に向かって、僕は言う。

「だって、埋めた。栄重のお兄さんを殺したバットを、科本さんはここに埋めたんだ」

 先生達が、驚いた様に僕を見下ろす。刑事達は瞬時に視線を交わし、その眼をさっと科本さんに走らせた。

 科本さんは忌々しそうに僕を見て口を歪める。引き攣れたみたいな笑い方だ。

「あっ!」

 誰が上げた声か解らない。

 とにかくその瞬間に居合わせた全員が、一体何が起こったのかすぐには理解できなかった。

 科本さんは膝をわずかに曲げて屈み、すぐ傍の刑事に肩を入れて体当たりした。灰色のスーツがよろめくと、横を素早くすり抜けてこちらに近づく。

 当然、もう一人の刑事が間に入る。だが、距離が余りない。ダークブルーを着た刑事は、元から僕等の傍にいたからだ。

 押しとどめるスーツの脇から、白衣の腕が僕の胸ぐらを掴む。

「何故だ? 何故お前らは、私の邪魔ばかりするんだ? 仕事も人生も、滅茶苦茶だ!」

「落ち着けよ、科本さん」

 制服の襟に触れた腕を、さらに榊末さんが掴んで止める。

「子供のくせに。黙って従え!」

 誰の事を言っているのか、僕には解らなくなっていた。僕の事だけでなく、他の誰かを一緒に責めている気がしたから。

「硯深くん、とにかく離れて!」

 言って、胸を押す。その弓井先生と担任と、

榊末さんと刑事の一人。四人がかりで引きはがされて、僕は栄重に引きずられる様に輪から外れた。

 不安げな表情の歌生さんと一緒になって、建物の壁に背中をこすりつける。心臓の音と呼吸が、せわしなく速まった。

「大丈夫か?」

「……うん。ごめん、栄重。説明――」

 説明しないと。

 僕が今、何を視たか。何を知ったか。

 栄重の横顔を見ながら、そう思う。横顔だ。彼の眼は、ずっと科本さんから離れない。

 次の瞬間、その表情がさっと青ざめた。

「なんで……!」

 こぼれる様に、呟かれた言葉。意味は、すぐに解った。

 視線を追う。

 少し離れた辺りで、争っている大人達。科本さんが抵抗しているせいだ。もう一人の刑事が駆けつけ、教師達に離れる様にと身振りで指示する。

 離れようとする弓井先生の、鞄が揉み合う腕にぶつかる。手を離れ、落ちた地面に鞄の中身が広がった。

 息を飲む。どうしてそれが、弓井先生の鞄から転がり出るのか理解できない。

 科本さんの姿が、さっと消えた様に見えた。

 屈んだのだ。

 そうして、素早く拾い上げた。

 銀色に輝く、あのナイフを。

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