可塑世界の監視者(六)
(六)
僕は、きょとんとして栄重を見た。
それから、ああ、と納得する。
そうか、そうなるのか。
先日した相談と、今日の僕の行動が。栄重の中では、そんなふうにつながったのか。
ふっ、と。吐いた息と一緒に、余分な力が抜けるのを感じる。
「それで? 心配してくれたの」
「そんなんじゃねーよ」
眉をひそめて逃がした視線が、ベッド脇のテーブルで止まった。そこに載っているのは僕の上着と、鞄。
鞄の中には、儀式用のナイフが入ったままになったはずだ。
興味がない訳ではないらしい。栄重の様子に、そう確信した。
だとしたら、僕は言い訳をしなくてはならない。栄重は、ナイフを盗み出す現場を目撃しただけでなく、助けさえしたのだから。
親や教師が求める模範的な解答ではなく、恐らく彼は真実と思えるものでしか納得はしないだろう。
でも……。
「助けてもらっといて悪いけど、話せないんだ」
「オレが信じないからか?」
栄重は僕の言葉を繰り返す。
「……そうだよ」
わずかに眇められた眼が、こちらに向く。気に入らない。と、言われてるみたいだ。
「話せ」
ギッ、と椅子の軋む音がする。腕組みしたまま栄重が踏ん反り返ったのだ。
「テメーに選択肢なんかねーんだよ。教師の前でこの鞄の中身ぶちまけたっていいんだぜ、オレは」
本当に人の話を聞いてたのかと疑うくらい、偉そうに言った。
僕は妙に納得する。
秘密を握られた僕の立場は、最初から栄重に負けているんだと。
そして何より、僕が栄重を説得するのはどうやら無理そうだと思った。
*
僕の眼の事。
僕の眼が視た事。
そのためにナイフを盗んだ事。
全てを栄重に打ち明けた。
――あれほど、恐れていたのに?
僕の中の真実を話して、それを否定されるのが恐かったのに。
しつこく知りたがったのは栄重だし、僕は真実を他に持ってなかった。脅されたみたいなものだ。話すしかない。
そうやって自分に言い訳しながら、いざ話してしまうと何だかどうでもよくなってしまった。
信じるも信じないも、後は向こうの勝手だ。これが僕に取って唯一の現実なのだから、仕方ない。
それに、と。頭の隅で考える。本当は、ずっと誰かに聞いてもらいたかったのかも知れない。
「僕は、榊末さんが殺されるのを止めたいんだ」
「で、使われるのがそのナイフだって?」
栄重は自分の薄っぺらな鞄で、僕の手にある鞄を叩く。からかう様なその仕草に、慌てて鞄を抱えて距離を取った。
僕の手元にある限り、安心だと思ったのだ。どこかに隠してしまえば、少なくともこのナイフが凶器になる事はあり得ない。
でも、僕は緊張でどうにかなりそうだ。自分の抱える鞄の中に盗品があるのを知っていて、落ち着ける訳がない。
栄重は鞄をさげた手を肩に担いで、けだるげに頭を傾ける。そうやってこちらを観察している。
何を考えているのか解らない。
けど、僕を否定もしなかった。
だからだろうか。命令口調でついて来いと言われた時に、拒絶する気にならなかったのは。
陽射しに焼かれたアスファルトを歩きながら、僕は問う。
「どこまで行くの?」
「もうすぐだ」
栄重の背中はスタスタと先に行く。それを早足に追っていると、一瞬、自分が何をしているのか解らなくなった。
保健室で休んだおかげで体調はかなり回復していたが、結局教室にも行かず早退してしまった。引きずる勢いで栄重に連れ出されたからだ。
理由も目的も聞かされてない。それでもついて行く自分に、少し呆れた。
ずいぶん歩いて、前の足がぴたりと止まる。
周囲を見渡しても、何もない。埃っぽい土の上に、石やゴミがごろごろと転がっているだけだ。ただ、地面からは太いコンクリートの柱が一定間隔で伸びていた。高架下と言う奴か。上には線路が敷かれているらしく、電車の走る割れる様な音がした。
「けど、変な話だよな」
「え?」
栄重は無頓着に鞄を地面に投げ出すと、傍のフェンスにもたれかかる。いつの間にか、手にはタバコ。うつむき加減で火を点けて、煙を吐きながら言葉を続ける。
「そのナイフ、ウチの学校のヤツじゃなきゃ知らないだろ。しかも、自由に持ち出せるのは教師だけ。それって、犯人が教師の中にいるって事じゃないのか」
「まさか」
反論の声を上げながら、無意識に鞄を掴む手に力が入る。
本当にそれを疑っていないなら、どうして僕はこのナイフを盗んだんだろう。先生にお願いして、もっと厳重な保管場所に移してもらえば済む話かも知れなかった。
「でも、うちの学校に知り合いがいるなんて榊末さん一言も……」
「知り合いの必要はねーし、これから知り合う可能性だってあるだろ」
なあ、と。煙と一緒に吐き出す言葉。
眉をひそめた栄重の顔から、僕は視線を逸らせない。
「なァ。そのナイフと榊末って人の接点は、今の時点でテメーだけだろ。なァ、硯深。どうする? 自分が関わったせいで、その人が死ぬんだとしたら」
……だとしたら、どちらが先だろう。
殺されると決まったのが先?
それとも、僕が榊末さんを知ったのが先?
僕が、あの人と殺人犯を結び付けると言う事なのか?
光の中を歩いたつもりで、いつの間にか深い穴に落ちていた。全身の血が逆流するみたいな、怒っているのか悲しいのか恐いのか解らない。それとも全部の感情がないまぜに、僕の胸を裂いたのか。
ガクリと、地面の上に膝を突く。両足から力が抜けて、立ってさえいられない。
「僕が……?」
「今のは、ナシ」
――なし?
思わず見上げた顔は、きっとこの上なく情けない表情をしていたのだろう。眼が合うと、栄重は居心地悪そうに顔を背けた。
「悪い。忘れてくれ」
「無理だよ」
「卑怯だった。今のは、……オレの事だ」
捨てたタバコを踏みながら、ボソリと言った。それから、規則正しく並ぶ柱の傍を指す。
「見えるんだろ? 全部。過去も、未来も」
「……人なら、大体ね」
栄重は少し意外そうに、眉を上げた。
「大体?」
「視えないものもあるよ」
例えば無機物。服やアクセサリーなど、身に着けているものは問題なく視える。だが人の手を離れると、移った体温が冷めて行く様に段々と存在が希薄になる事があった。
そんなふうにいつの間にか見失うか、最初から認知できないものもある。
「探しもの?」
「違う。……いや、そうもな。探してるのは、人間だけど」
「誰を?」
答えない。
そして、そのまま黙ってしまう。
僕は不審を覚えながらも立ち上がり、栄重の指した場所を視た。
そして、自分の表情が歪むのを感じる。
「栄重」
呼ぶと、また倒れるとでも思ったのか、栄重は背後から僕の腕を掴んだ。
「栄重、これは……誰?」
息を飲む気配を、背中で感じた。僕に触れた手が、少し震えている気もする。
これは、誰なのだろう。
僕の眼が視たのは、凄惨な光景だった。
たった一人の少年を、何人もがぐるりと囲んでいる。その時、その場にいた全員、年頃は僕等と変わりないだろう。
そしてめちゃくちゃに蹴られ、殴られて、人垣の中心に倒れた少年はボロボロだった。 解らない。どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか。倒れた人影は黒髪で、公立高校の制服を正しく着ていた。こんなトラブルとは無縁そうな印象を受ける。
「なにが見える?」
震えてないのが不思議なくらい、か細い声で栄重が問う。
「……一人相手に、何人もがいっぺんに殴ったり、蹴ったりしてる」
僕の腕を掴む力が、痛いくらいに強くなる。
「やられてるほうも最初はやり返してたけど、誰かがバット持って来て……それで駄目になったみたいだ」
「ダメ……?」
「死んだよ」
こんな時、僕は自分に言い聞かす。
これは過去だと。
これはもう終わった事だと。
僕にできる事なんか、ありはしないと。僕に取っては、今、目の前で起こっているのと何も変わりはないのだけれども。
「栄重、これは誰?」
もう一度問う。
倒れ、動かなくなった少年を見下ろして。その頚に、ペンダントが光っていた。
「アニキだよ」
ポツリと。
答えて栄重は、僕の背後から歩み出て膝を突く。知ってか知らずか、彼の兄が倒れた場所に。
現在と過去が重なり視える僕の眼に、俯く栄重はまるで兄の死体を見つめる様だ。
そして今の栄重がそうする様に、中学生の彼もまたこの場所で膝を突く。違っているのは制服と、過去の影はボロボロになるくらい泣いてる事。
栄重の肩に僕は手をおく。そんな事しかできなかった。すると彼は、吐き出す様に呟いた。
「オレが殺した」
ああ、そう言う事か。