可塑世界の監視者(五)
(五)
雨に打たれてはいないのに、最近眼を「開く」事が多いせいか。その夜には熱が出て、翌朝になっても下がらなかった。
母親には学校も休めばいいと言われたが、どうしても確かめずにいられなかった。
校門をくぐったのは教室で午後の授業に入った頃だ。僕は鞄を持ったまま、校舎ではなく礼拝堂へ足を向けた。
厚い扉を押し開けると、みっしりと濃密で重たい空気が頬をなでる。きっとそんな気がするだけだろうが、礼拝堂の空気に触れるといつも自然と背筋が伸びた。
普段通り壁にもたれる事はせず、今日は真っ直ぐ祭壇に向かう。今は僕の他には誰もいない。そのせいか、高い天井に妙に大きく足音が響いた。
ベンチに挟まれた通路を抜けて、最前列に据えられたテーブルの前で足を止める。これは神父さまが全校生徒の前で説教したり、祭礼の儀式で使用するものだ。
胸の中で、心臓がどくどくと騒いでいた。落ち着こうとして、深い息を吸って吐く。それさえ少し震えていた。
まばたきを一つ。
僕の眼は「開かれ」て、今ではないものを視始める。
式服に身を包んだ神父さまが、手順に従って儀式を進める。僕も生徒として、何度も見た事のある光景だ。
だから、覚えがあった。
神父さまの周りには信仰を心得た先生方が控えていて、儀式の進行を手伝っている。その中の一人が、小さなクッションの様なものを両手で差し出す。神父さまはその上に載ったナイフを手に取り、神に祈る。
神父さまの手にあるナイフは、儀式用のものなのだろう。銀色の刀身には細かく優美な図案が彫られ、持ち手は美しい色の石で飾られている。
僕は胸が苦しい様な、胃が縮む様な恐れで満たされるのを感じた。
それは僕が視た、榊末さんの死体に刺さったナイフそのものに見えたからだ。
眼の奥から頭の中心に、じくじくと痛みが走る。それを目蓋の上から手の平で押え、ナイフの行方をもう一方の眼で追った。
それは儀式を終えた後、神父さまが消えるのと同じドアをくぐって行った。ベンチや壁に手を突きながら、後を追う。
このドアの先は神父さまの部屋だったが、今の時間なら校舎の学長室にいるはずだ。それに結局、神父さまの部屋に入る必要はなかった。ナイフは他の祭具と共に、細い通路の一番奥の部屋に納められたからだ。
ここは物置になっていて、儀式の道具などをしまってある。だから、かえって厄介とも言えた。
ナイフを手にした教師の影は、それを室内に置いて再び出て来る。そして鍵を使い、ドアを閉ざした。
普段は使わない、しかし貴重な祭具があるために、この物置はいつも施錠されているのだ。
僕は息を吐き、通路の壁にもたれた。これでは、現在のナイフの所在を確かめられない。
がっかりしながら眼を「閉じ」た。時間の影が見えなくなって、僕一人が残される。鈍い痛みの残る眼で、真正面のドアを見つめた。
物置の鍵は教師しか使えない。例え弓井先生に頼んでも、僕が持つ事は許されないだろう。それだけでなく、理由を問われるのは間違いない。
説明できるなら、苦労はないんだ。
どうにも恨めしくなって、僕はドアの取っ手に手をかけた。開けばいいのに。チラリとそんな事を思いはしたが、本当に開くとは思わなかった。
「……あれ」
だから本当にドアが開くと、逆にちょっときょとんとした。
どうして鍵がかかってないのか。
当然それを考えるべきだった。が、まず頭を占めたのは別の事。ナイフの所在だ。
物置はそう広くない。六畳ほどの一室だけで、壁際にたくさんの棚が並ぶ。だが人を隠すほどの物陰はない。室内に誰もいないとひと目で解ると、僕は迷わず中に入った。
眼を「開く」と、急いでナイフが納められるか、取り出される場面を探す。そして視た通りの引き出しを確かめる。と、そこには間違いなくナイフがあった。
ほっと、肩から力が抜ける。
眼を「閉じ」ても、状態は変わりない。
僕はほんのわずか考えた後、それを手に取って鞄の底に押し込んだ。
「バカ」
「さ……」
栄重だった。
どうしてここにいるのか、いつから見ていたのか。何にも解らないまま、考える間もなく。栄重は僕の腕を掴み、口をふさいだ。急いで物置を出たかと思うと、そのまま隣の神父さまの部屋に飛び込む。
数秒もなかった。
すぐに礼拝堂に続くドアが開かれて、通路に誰かの足音が響く。足音は迷わず物置の前に進んで、立ち止まる様子もなく中に入った。鍵が開いている事を知っていたのだ。
隣のドアが閉じる音を確かめると、栄重は素早く部屋を出て通路を抜ける。気がついた時には礼拝堂の外にいた。
僕は腕を引かれながら、今の事をぼんやりと考える。
栄重が隠してくれなかったら、確実に足音の主に見つかっていた。恐らく教師の誰かだろうが、すぐに戻るつもりで物置の鍵を開けたまま離れたのだろう。そうとも知らず、僕はそのわずかな間に入り込んでしまったのだ。
見つかったらどうなっていたか、今さらながらに血の気が引いた。
「栄重」
僕の手を引いたまま、どんどん先を行く背中に言う。
「栄重、ごめん。ちょっと早い」
息を切らした僕の訴えがようやく届いて、栄重は足を止めて振り返った。すっかり息の上がった僕の様子に栄重はちょっと驚いて、それから気づいた様につないだ手に眼をやった。
「熱い」
「うん、ごめん。でも風邪じゃないから。うつらないよ」
誰もいない校舎裏。面する校舎に窓がなく、敷地を囲む塀が近い。引っ張って来られたのは、その隙間みたいな空間だった。
こんな所には用もないから、来た事がない。だけど栄重はよく来るみたいだ。制服姿の栄重が視える。何人も。それに、弓井先生。
息も上がる訳だ。眼がうまく「閉じ」られてないのだと、それで気づいた。
「栄重、止めたほうがいいよ。タバコ」
「あ?」
「吸いガラ、弓井先生がこっそり隠してくれてる」
そう言う場面が視えていた。栄重の捨てた吸いガラを、後で弓井先生が拾っている。
「なんでそんな事……、おい!」
「どうして隠すんだろ、弓井先生……」
うわ言みたいに呟きながら、ずるずるとその場に膝から崩れた。慌てた栄重が僕を呼ぶ。それが段々遠くなり、やがて真っ暗な中に意識が落ちた。
*
栄重はどうして、礼拝堂にいたんだろう。
目が覚める直前に、そんな疑問がわき起こった。
「テメーがそれを聞くのかよ」
訊きたいのはこっちのほうだと、パイプ椅子の上で腕も足も組んで言う。
保健室だ。白いシーツとカーテンに囲まれて、目覚めた時にはここにいた。栄重が運んでくれたらしい。それだけでも意外だったが、僕が起きたのを察し、カーテンを開いたのも栄重だった。
ずっとついててくれたんだろうか。
僕等二人だけらしい。その保健室を一通り見回して、視線を再び栄重に戻した所でたずねる。
「何でいるの?」
「いちゃ悪いかよ」
「悪くないけど。訊きたかったし」
「あ?」
「どうしてあんな所にいたの?」
「テメーがそれを聞くのかよ」
そんな流れで、この一言に到る。
億劫そうな説明によると、栄重が喫煙室代わりにしている校舎裏はけっこう人の行き来が見えるらしい。
いつも通り授業をサボって一服してると、遅れて登校した僕を見かけた。だが僕は校舎ではなく、全然別の方向へ行く。それが気になって、後を追ったのだそうだ。
「なんであんな事した?」
栄重はほんのわずか体を寄せて、囁くみたいにして問うた。秘密めいた声。
「……信じないよ」
栄重の囁きは、僕の耳に酷く甘く流れ込んだ。
一人で悩んで、一人で判断し、一人で行動する事に。自分が疲れていたのだと、それで気づいた。
全て打ち明けて、そしてそれを受け止めてもらえたら、どんなにいいか。
でも、できない。
僕と彼では、世界の捉え方からして違うのだ。説明した所で、理解してもらえるとは思えない。まして、信じるとは。
黙り込んだ僕の顔を、しばらく見つめて栄重が言う。
「誰を殺すつもりでいるんだ、硯深」