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可塑世界の監視者(四)

   (四)


 教室の席に座って、ノートを見ながら首をひねる。それから、腕組みした自分の手が半分もシャツから出ている事に眉をひそめた。

 榊末さんと出会って、すでに二週間が過ぎている。五月が終わり、六月になってしまった。これからは半袖の季節だ。

 なのに、まだ何もしていない。

 これについて一番の問題は、僕が榊末さんの事を何も知らないと言う点に尽きる。


 榊末広和、二十七歳。某民間会社の研究員で、毎日の行動はほぼ職場と家の往復のみ。なぜか女の人に人気があるが、本人が恋愛の機微を理解しないので最終的に関係は必ず破綻する。


 ――と言うのは、歌生さんに教えてもらった。

 こっそり榊末さんの事をたずねるなんて、怪しい事この上ない。理由を訊かれたらどうしようかと思っていたが、歌生さんは「アタシの事は訊いてくれないの?」と少し不満げにしただけたった。

 この情報によると、榊末さんは女の人から恨まれているのかも知れない。ドラマならこのセンが最も怪しい事になるが、どうだろう。

 僕の知ってる女の子は彼氏に振られたと大泣きして、それでも数日したらケロリと元気になっていた。女の人って、そんなに弱いとは思えない。

 それとも、酷い事をしたのだろうか。榊末さんが? 殺されるほど?

 口も理屈も少し乱暴な所はあるけど、そんなに悪い人なのだろうか。

 ノートに書きとめた榊末さんに関するメモへ、眼を落とす。と、知らない内にため息がこぼれた。

 殺人が起こるのは夏。これは間違いないと思う。

 それが今年か、それとも来年か。もっと先の事なのか、今はまだ解らないけど。

 もしも今年の夏なら、時間がない。

 何が最善だ。

 自己嫌悪で、吐き気さえする。あんな偉そうな事を言ったくせに、指一本も動かせずにいるじゃないか。

 どうすればいいのか、何ができるのか。ずっと考えている。それだけだ。きっと考えても無駄だろうと、心のどこかで思っているのに。

 だって解らない。想像もできない。

 人を殺す理由なんか、僕は知らない。

栄重(さかえ)

「んあ?」

 呼ぶと、眠たそうな返事があった。

 実際、机にもたれて寝ていたのだろう。座ったまま後ろの席を振り返ると、彼は昼寝を終えた猫みたいに椅子の上で伸びをしていた。

 僕は問う。

「誰かを殺したいって、どんな気持ち?」

 メッシュの入った頭を掻く手が、ぴたりと止まる。

 栄重は酷く驚いた顔を一瞬見せて、それから疑うみたいに眉を寄せた。机に突いた肘で支え、上半身を前のめりに傾けて囁く。

「なんでオレに聞く?」

「詳しいかと思って。違うの?」

 問い返すと、栄重は少し体を後ろに退いた。机に肘を突いたまま、祈る様に絡めた指を口元に押し当てる。

 そして真意を探ろうとでも言うふうに、細めた両目ですぐ傍の僕をじっと見た。

 栄重はクラスメートで、席は僕の真後ろ。だが、どんな奴かはよく知らない。

 あちらは高等部からの編入組で、おまけに友達を作るつもりがないのだろう。いつも席で眠っているか、どこにもいないかのどちらかだった。

 まともに話した事もない奴にこんな事をたずねるなんて、どうかしてる。でも、訊いてみたかった。

 中学の時、栄重は人を殺しているから。

 そう聞いた。全くの嘘とは思わない。本人も否定しないのがその根拠だ。

 だから教えて。

 ねえ、死を願うってどう言う事?

「……人を殺すってどんな気分?」

 これは僕の質問じゃない。

 細めた眼をどこかに逸らして、栄重がボソリとこぼした声だ。

「そう言ったヤツならいたけど、殺す前の気持ちを聞かれたのは初めてだ」

「そう。……ごめん」

「謝る事なんかねーだろ」

「えっ……と、ごめん」

 傷ついた様に見えたから。

 そうは言えずに、もう一度同じ言葉を繰り返した。

 栄重は元々ゆるく結んだネクタイをさらにゆるめ、億劫そうに椅子の背もたれへ体重を預けた。開いたシャツの襟の中で、ペンダントが揺れる。

「誰か、むかつく人間がいてさ」

 本人も、声にしてからびっくりしている様に見えた。

 僕はもう答えてくれるとは思わなかったし、何でこんな話をするのか解らない。と、栄重の顔にはそんな戸惑いが見えた。

 それでも倒れたグラスから水が残らずこぼれる様に、声は続く。

「死んで欲しいとか、消えて欲しいって思った事くらいあるだろ?」

 殺したいと思うのは、結局その延長線上の事じゃないか。光を見る事を諦めた様に、どこか翳りのある眼で栄重は言った。

 けれども残念ながら、僕にはこの例えさえよくは解らない。

 死んで欲しい。消えて欲しい。

 そのどちらも願った事がなかったからだ。

「マジかよ」

「うん。まじ」

 僕等は互いの顔を奇妙に見つめて、そしてそれぞれ首を傾げた。

 変なヤツ。と栄重は呟く。

 そうなのだろうか。変なのかな。

 同じ制服で、同じ教室。前と後ろの席にいる。なのに僕等は、こんなにも違う人間だ。それが不思議で面白く、少し恐い。

 だとしたら名前も顔も知らない誰かを、その心を、理解するなんてできそうもない。まして、殺意を。

 それとも僕が、人と違い過ぎるのだろうか。

 だって、消えてと願う必要がない。

 どんな人間もいつか死ぬと、嫌になるくらい知っているんだ。

 どんなに大事でも、どんなに愛しても。いつか朽ち果てて死んで行く。

 僕にはそれが視えてしまう。

 同時に、僕とは致命的に合わない人が他の誰かに優しい顔を見せるのも知ってる。どんな救い様のない人間にも、幼く純粋な頃があったと言う事も。

 きっと誰もが、出会う人の分だけ顔を持つ。全てを知る事は難しい。酷く、難しい。

 だから僕には解らない。

 自分の都合だけで死を願う。その自らの身勝手を許す気持ちが解らない。

 結局の所、考え抜いて解ったのはただ一つ。僕がいかに無力かって事だけだ。

 その日の帰り道は薄暗かった。雨に濡れたアスファルトの上を、交互に出て来る自分の靴を見ながら隣に問う

「恨まれる覚えってある? 榊末さん」

 また以前の様に、榊末さんの出勤と僕の帰宅時間が重なっていた。何となく並んで歩きながら、つい思いつめて言ってしまったのがこのセリフだ。

 榊末さんは半袖のTシャツ一枚で、傘を持つのと逆の手に薄手の上着をかけていた。

 その事が、無意識に僕を焦らせる。もう、本当に時間はないのかも知れない。

「覚えはある」

 余りに何でもないふうに言うので、僕は一瞬あっけに取られた。傘の下から見上げても、榊末さんに特に変わった様子はない。

 ポカンと開いてしまった口を閉じ、一呼吸おいてから確かめる。

「あるの?」

「だから、あるって」

「誰に?」

 どれくらい?

 殺されるくらい?

「誰にって言われてもな。知らずに恨みを買う事だってあるしな、結構」

「そうだけど……」

「俺、いい顔してるだろ?」

 傘を傾け、僕に向けてにやりと笑う。

「おまけに若くて、仕事もできる。やっかむ奴は多いんだ。勝手に寄って来て、勝手に被害者みたいな事言う女もいるしなぁ。解らん」

 心当たりが多過ぎて、と言う事らしい。

 榊末さんの隣を歩きながら、何だがぐったりと肩を落とした。

 この人を見ていると、恨まれるって大した事じゃないみたいに錯覚する。

 普通なのか?

 冗談じゃない。

 もしも誰かが殺したいくらい僕の事を憎んでいたら、もうそれだけで心臓が冷たくなるほど恐ろしいのに。

「刺されるよ、その内」

 口を尖らせて忠告すると、榊末さんはおかしそうに吹き出して笑った。

「心配してるのか?」

「してる」

「それで歌生に探り入れたり?」

 実に何気ない調子で言われた。

 でも僕は、ギクリとした。

 思わず弾かれる様に榊末さんの顔を見たが、何の言い訳もできなかった。全く言葉が出ないのだ。

 知られていた。一体いつから?

 ぱくぱくと口を開けたり閉めたりしていると、小さく笑って榊末さんは傘を持ち替え片手を空けた。そして僕の頭をポンポンと叩く。

「俺は構わないけどな。うちは色々研究してて、機密も多い。ほどほどにしとけ」

「……ごめんなさい」

 自分の身辺を探られたのに、腹を立ててはいないみたいだ。むしろやり過ぎない様にと注意するため、この話をしたのかも知れない。

 それがかえって、僕には痛い。

 研究所の建物に消える榊末さんを、雨の落ちる傘から見送る。ぶつかる雨がうるさくて、いつもよりどこか冷たい気がした。

 足元の黒く濡れたコンクリート。そこに転がる榊末さんの死体を視る。

 僕は、本当にこの人を助ける事ができるだろうか。

 榊末さんを助けるつもりで、気にかけられたのはこちらのほうだ。それだけでなく、必死のつもりだった僕の行動は榊末さんには笑って済ませられる程度の事なんだろう。

 そんな事で。

「どうやって!」

 自分に腹が立った。自分の無力さを罵って、唇を噛む。

 足が竦んで動けなかった。悔しさで。恐怖で。

 ただ見つめた。そして気づいた。

 今、僕を濡らす雨は榊末さんの死体には影響しない。だから血が洗われた訳でもないだろうに、今までそれに気づかなかった。

 僕は絶望とでも言うべきもので、死体に刺さるナイフを見下ろした。

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