可塑世界の監視者(三)
(三)
僕の通う学校はミッション系の私立校で、長い歴史と構内の中央にある立派な礼拝堂が特徴だった。
正直に言うと、長い歴史のある場所は僕には余り向いてない。道や建物が同じなら、人の存在する位置も限られてしまう。だから他の新しい場所よりも、時間の影達が密集している気がするのだ。
その事については学校選びを間違えたかと思ったが、それでも中学からそのまま高等部に進んだのには理由がある。
一つは、この礼拝堂が気に入っていた事。神さまと教師達の眼をはばかって、誰もが静謐に過ごすから。
いつも僕は影達で埋まったベンチには座らず、一番後ろの壁にもたれた。
高い天井いっぱいのステンドグラスが、礼拝堂に薄く明かりを広げている。その様子を、ここからぼんやり眺めているのが好きだった。
「もうお帰りなさい、硯深くん。じきに暗くなりますよ」
ひっそりとした声と足音が、耳を打つ。首を向けると、黒い服に身を包んだ人影が入り口にあった。
学校を替えなかった、もう一つの理由。
「弓井先生」
神に仕えるその人を、しかし僕等はそう呼んでいた。実際、弓井先生は神父さまと変わりない服装をしていたが、教室では生徒相手に数学を教えた。もちろん普通の先生もいたが、この学校では文字通りの聖職者も多い。
中でも、僕が一番好きなのが弓井先生だ。信頼と言ってもいい。
だからこの時、促す様に微笑んだ先生に僕は訊いてみたくなった。
この数日、胸の中にあった事。
「先生は、運命を信じますか?」
「運命……、ですか。また難しい事を尋ねますね、きみは」
困り顔を覗かせた弓井先生を目の前に、僕は頭の中で榊末さんの事を思った。
「例えば、もうすぐ死んでしまう人がいて……死ぬ事は決まっていて。でももしかすると、助けられるかも知れなくて。だけどもしそれが運命だったら、僕がその人を助けたいと思うのは……」
「間違っているか、と?」
「……はい」
弓井先生は僕の顔をしばらく見た後、「ふうん」と呟いて手近のベンチに腰掛けた。指を組んで合わせた両手を、黒衣に包まれた膝に載せる。
後を追って傍に寄ると、先生は僕を見上げてにこりと笑った。
「解りません」
「え」
「わたしは、運命に触れた事がありません。きみの事情は知らないけれど、少なくともわたしは運命を感じた事がない」
柔らかな声と裏腹に、すっぱりと言い切る。
戸惑う僕に、先生は変わらず穏やかに続けた。
「ですが運命が存在するなら、それを定めるのは神だと思う。だとしたら」
「御心に従うべきだと……」
「いいえ。気にする事はないと言いたかった」
弓井先生は僕の手を取り、自分の隣に座らせる。それから前を向き、組んだ両手を前のベンチの背に載せた。
「神は偉大です。偉大過ぎて、人間に理解できる御心はごく一部でしょう。我々に出来るのはせいぜい道を外れず、神の御前で恥じる事のない最善を選ぶ事だけではないのかな」
礼拝堂の奥、祭壇を見つめる横顔。少し寂しげに笑んだそれを、僕はそっと盗み見た。
先生の言葉は、いつもこうだ。いつも、自分の信じる言葉で語る。きっと、聖職者らしくはない。でも、だからこそ信頼できるのだと思えていた。
僕は隣の先生をまねて、組んだ両手をベンチに載せた。それに額をすりつけ、顔を伏せる。
神さまを信じてはいないのに、なぜだか誰かに祈りたかった。
*
榊末広和は死ぬ。
恐らくそれは、殺人によってもたらされる。
けれども犯人は解らない。
僕には視えない。
だけど――と、外灯が影を落とすアスファルトに足を止めた。
そもそも僕は、榊末さんを助けたいと思っているのか。
解らない事を確かめたい。だけど、それと助ける事はイコールじゃない。
そう気づいて、僕は自分が嫌になった。
身勝手だ。だけど恐い。人が死ぬのは恐い。人が殺されるのは恐い。人を殺す人が恐い。
運命と言うものがあるのなら、僕はそれから逃げたかった。
すっかり陽の落ちた道は暗く、ぽつぽつと立った外灯だけが青白く光る。その作りものの光の中で、底のない穴みたいに真っ黒な自分の形の影を見ていた。
唇を噛む。
そうしないと、涙がこぼれてしまいそうだ。
「なんだぁ? 泣いてんのか」
「わっ……わあ!」
突然背後からこづかれて驚き、その人物を見上げてもう一回驚いた。
「榊末さん……?」
「ガキは早く帰れよ」
声をかけたのはあっちなのに、それだけ言うとさっさと歩いて行ってしまう。慌ててその背中を追った。
駅の方向から来たと言う事は、今から研究室に行く所だろうか。
「今からお仕事ですか? 夜なのに?」
「時間はあんま関係ねぇんだ」
そうなのか。
春とは言え、陽が暮れれば風は冷たい。榊末さんは頑丈そうな皮のジャケットを着込んでいた。その事に、ほっとする。
一瞬、自分がどうして安心したのか解らなかった。だが解らない、と思った時には納得していた。死体になった榊末さんは、夏物らしい半袖のシャツを着ていたのだ。
「……目立つか?」
「え?」
どうやら考え事をする間中、僕は榊末さんの顔をずっと見てしまっていたらしい。気づくと、戸惑う様にこちらを見下ろす視線があった。
でも、目立つとは?
つい首を傾げたが、その疑問はすぐに解ける。次の外灯に差しかかり、その光が榊末さんの頬を照らしたからだ。
「……目立ちますね。凄いですよ、手の跡」
「思いっ切りやられたからなぁ」
自分の頬をさすりながら、情けなさそうに空を仰ぐ。そんな姿を見る内に、ふと歌生さんの言葉を思い出した。
「いつかだました女の人に刺されるって言われてましたけど……。まさかそれも、そう言う……」
「騙してない」
榊末さんは面倒そうに否定したが、僕は別の事を考えていた。
だとしたら、その女の人も容疑者になるだろうかと。
フェンスのない研究室の敷地まで来ると、数歩進んで不思議そうに榊末さんが振り返った。
「帰り道だろ?」
「いつも通り抜けてる訳じゃ……」
アスファルトの道路に立ってごにょごにょと口の中で呟くが、前科があるので信憑性がまるでない。
結局「見逃してやる」と言って笑う榊末さんに手招きされて、道路を外れてコンクリートの敷地に入った。
だけど悪い事はできないもので、少し行くと成半さんが建物から出て来る所だった。
「榊末さん、これは……」
「ばったり会っただけだって。な」
「はいっ、あの、ごめんなさい」
僕は慌てて頭を下げると、相手の反応を見るひまもなく逃げ出した。走りながら、チラリと後ろを振り返る。榊末さんは成半さんに疑わしい眼を向けられながら、それを全く気にしてない。その足元から、ほんの数歩。
血を流し、ぐったりと崩れ落ちた榊末さん。
それと、ちゃんと二本の足で立っている榊末さんの姿を見比べ、不思議と僕は少しだけ笑った。
「またね、榊末さん!」
大きな声でそう言うと、もう振り返らずに家までの道を一気に駆ける。
ちょっと恐い様な暗い道を走りながら、胸の中の深い所で熱い何かがどくどくと拍動するのを強く感じた。
翌日、学校で弓井先生を探して僕は宣言した。
「先生、僕は悔しいです。この世界の中に僕はいるのに、何もできる事がないなんて」
何もせず暗闇でただ泣くだけなら、そんな自分には意味がない。
「だから例えそれが運命だとしても、僕は僕の最善を尽くします」
弓井先生は少しきょとんとして、それからひっそりと笑って頷いた。
そして言葉は、僕の背中をそっと支える。
「では、わたしは君の幸運を祈ります」