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可塑世界の監視者(二)

   (二)


 僕を捉えたのは、一体何だったのか。

 後になって何度もそれを考えたが、自分にもはっきりとは解らなかった。

 人が死ぬのを放っておけなかったのか、それとも榊末さんだから助けたかったのか。これは、動機が前後するけど。

 でも一つだけ、確かな事がある。

 僕は酷く強い興味を覚えた。

 その、不可解さに。

 血を流し倒れる、榊末さんの死体に。

 もう一度、確かめなくちゃ。あの場所へ行って、ちゃんと視なくちゃ。

 僕は熱に浮かされる様に、まだはっきりと目覚めない内からふらふらと起き上がろうとした。

「おいおい。待て、急に起きるとまた倒れるぞ」

 ぶっきらぼうな、それでも気遣うふうな声。同時に感じた、コーヒーの香り。

 僕は内心で首を傾げた。

 うちでは、誰もコーヒーを飲まないのに。

「あ……」

「寝ぼけたか?」

 慣れないコーヒーの香りがしても、不思議な事は何もなかった。だって僕の目が覚めたのは、自宅ではなかったからだ。

 からかう様に眼を細め、榊末さんが僕を見ていた。さっきと同じ黒っぽいシャツに、今は白衣を重ねている。その片手に、コーヒーを注いだカップがあった。

「あの、僕は……」

「倒れたんだ」

 端的に、問うより先に答えが示された。

 そうか、倒れたのか。体調の悪さに動揺と「眼」の負担が重なって、体が勝手にスイッチを切ったのだろうか。僕が壊れてしまう前に。

「すいませんでした。僕、あの……」

「いいのよ、ごめんなさいね。アノヒトが驚かせたんじゃない?」

 慌てて顔を上げると、すぐ傍に女の人がいた。榊末さんと同じ様に白衣を着て、赤い唇でにっこりと笑う。

 彼女は一つにくくった髪と大きなイヤリングをしゃらりと揺らし、歌生(うたき)と名乗った。

 あの人、とは榊末さんを言ったらしい。僕が理解するより先に、本人が顔をしかめて歌生さんを睨んだ。

「ほら、こわい」

 少しも気にした様子なく、こちらに向けた顔は笑う。その笑顔にほっとして、僕も少し笑い返した。

 視界の隅で、榊末さんの横顔が呆れた様にため息をつく。その視線に気がついたのか、歌生さんも僕と同じほうを見ながら口を開いた。

「アノヒトはね、榊末って言うの。顔がこわくて性格も悪いけど、仕事は凄くできるのよ。ね、アナタの名前を訊いてもいい?」

「あ、すいません。僕は、硯深(けんみ)と言います。硯深(おさむ)です」

 僕は寝かされていたソファの上に座り直し、頭を下げる。

「ご迷惑をおかけしました」

「はい、どういたしまして」

 歌生さんは面白そうに笑い、どうやら僕をまねたらしく膝に手を揃えて頭を下げた。そこへ、不機嫌なのか呆れているのか判断できない声がする。

「何で歌生が返事するんだ。迷惑したのは俺だろう」

「運んだだけでしょ。容態を診たのは科本(しなもと)サンだし、看病したのはアタシだもの」

「か……看病? すいません、本当に」

 ソファの上にちゃんと寝かされていたのは解っていたが、看病までされていたとは思わなかった。慌ててもう一回頭を下げる。下げようとした。

 だが榊末さんが椅子に座ったまま床を蹴り、ほとんどぶつかるみたいに大きな手で僕の頭を掴んで止めた。椅子にはキャスターがついていたらしい。

「嘘だ。こいつはただ、お前の寝顔を眺めてただけだぞ」

「やだ。人聞き悪ーい」

「事実だろう」

「だって、可愛いんだもの」

 言い争いが始まってしまった。驚いた事に、歌生さんは一歩も退いてない。

 どうしたらいいか解らずに、僕は困り果てた。きっと顔にもそれが出ていただろうに、少しも気づいた様子なく榊末さんはさらに続ける。

「いい歳してガキに欲情してんじゃねぇぞ。警察沙汰はごめんだからな」

「愛に理解のない男って、これだからダメね。そのうち、騙した女に刺されるわよねえ。これじゃ」

 と、歌生さんは優しい笑顔で同意を求めた。僕に向かって。

 その表情が、ふと曇る。

 僕の顔を見たせいだ。

 きっと冗談だったのだろう。初めて見たから驚いたけど、二人にはこんな口喧嘩はいつもの事に違いない。

 でも僕は、全身から血の気が引くのを感じていた。耐え切れなくて、ぎゅっと堅く目蓋を閉じる。

 暗く沈んだ視界の中に、榊末さんの姿が浮かんだ。倒れた体。伸びかけた髪。グレーがかった夏物のシャツ。

 その脇腹に、銀色に光る何かが刺さってはいなかっただろうか。

「困りますね」

 唐突な声。男の人の声だけど、でも榊末さんじゃなさそうだ。

 迷惑そうな、億劫そうな。

 恐る恐る眼を開けると、そこにスーツ姿の男の人が現れた。

 その人は少しの間だけ僕を見下ろし、それから歌生さんに視線を移した。

「部外者の立ち入りは……」

「どうしてアタシって決め付けるのよ!」

「普段の行いだな」

 無関係を装って、部屋を出ようとする榊末さんを歌生さんの手が掴む。

「部外者を連れ込んだのはコノヒトよ。でも、責めるなら榊末クンだけにしてね。脩クンは、コノヒトが恐くて倒れちゃっただけなんだから」

「……珍しいですね。榊末さんが研究以外に労力を割くなんて」

「お前の中の俺はどんな人でなしだ? 目の前で倒れたものを、捨てても置けんだろーが」

「榊末さんの人間性には興味がありませんが、規則違反です」

「ラウンジだもの。いいじゃない。研究室に入れた訳じゃないわ」

「しかし……」

「あのっ」

 無限ループで口論が続きそうな中に、勇気を出して口を挟む。と、そのとたん一斉に口を閉ざして三人は僕を見下ろした。

「すいません……。僕が、勝手に倒れただけなんです。それを榊末さんが運んでくれたみたいで……あの……。もう帰りますから」

 言葉がうまく出て来なくて、最後には頭を下げる事しかできなかった。

 短いため息が、僕の下げっぱなしの頭に落ちる。

「もう結構です。ただし、二度とこう言う事はない様に」

 そう言って、眉間にシワを寄せたままラウンジと呼ばれた部屋を出る。この人は事務員の成半(なりなか)さんだと、後で歌生さんが教えてくれた。

「若いのにねえ、成半クン。あんなしかめっつらじゃ早く老けるわよねえ」

「だとしたらお前のせいだと思うけどな」

 本人がいなくなった所で、好き勝手な事を言う。どうやら、止めるのは無理そうだ。

 成半さんが一番若くて、榊末さんは年が近くて、歌生さんがちょっと年上。そんな事まで話し出した二人の会話は聞き流して、僕はのろのろと立ち上がる。緩められたネクタイを直し、ソファの背から上着を取って腕を通す。

 すると、歌生さんが驚いた様な声を上げた。

「あら、エテルナ学園の制服ね。中学生かしら?」

 言われて、僕は自分の姿を見下ろした。それから多分、情けない表情で顔を上げる。

「高校生です」

 確かに先月、中等部から高等部に上ったばかりなんだけど。

 面倒くさそうに手を振る榊末さんとはその場で別れ、歌生さんに何度も謝られながら出口に向かった。

 僕が寝かされていた場所はラウンジだと言っていたが、成半さんが渋い顔で注意した理由がやっと解った。そこから出口まで辿り着くのに、歌生さんはドアをくぐるたびに何度もIDカードを使って身分照会を行わなくてはならなかったからだ。

 正直な所、ここまで警備が厳重だとは思わなかった。だって建物を一歩出たら、外にはフェンスさえないのだ。警備員が見回っている姿も、見かけた事がない。

 歌生さんいわく、大げさな警備は中に大事なものがあると教えるのと同じ。だからあえて、外側には何もないのだそうだ。

 そう言うものだろうか。

 とにかく外とは比べものにならないくらい、中の警備は厳重だった。それにさっきの会話の中に、研究室と言う言葉が出て来た。

 単純な理由だけど榊末さんも白衣を着ていたし、この場合はここで大事な何かの研究が行われていると考えていいだろう。

 それは、理由になるだろうか?

 歌生さんに見送られ、建物に囲まれた通路を歩きながら僕は考える。

 そして足を止めた。

 榊末さんは変らずそこに、血を流して倒れている。

 けれども、それだけだった。

 こんな事は初めてだ。

 榊末さんは、どんなふうに死んだのだろう。

 腹から突き出た銀色の刃物は、どうやってそこに突き立てられたのだろう。

 全てを視てしまうはずの僕の眼は、どうしてもそれを視てくれなかった。

 榊末さんの死の瞬間はそこにあるのに、それをもたらした人間の姿はない。

 僕は生まれて初めて、「視えない」未来に出会ったのだ。

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