可塑世界の監視者(十) ※本編最終話
(十)
刀身を細かな図案で優美に飾り、持ち手を彩る美しい石。儀式用の飾りナイフ。
それは弓井先生の、ではなく、僕の鞄に入っているはずのものだった。
僕は壁から離れ、土の上に放り出したままの学生鞄に飛びついた。一番底に押し込んだタオルの包みを慌てて引き出す。
指先に触れたタオルの一端を握って引っ張った。どう言う事だと混乱し、手がうまく動かない。すると手の中からくるくると、タオルがほどけながら地面に落ちる。
カラリ、と。中に包まれた薄く硬いものが、タオルから地面に転がり出た。
土の上の石に当たって軽い音を立てたのは、ナイフではなくスチールの定規。
「何で……」
「硯深!」
鋭い声。切迫したそれに、弾かれる様に顔を上げた。
すぐそこに、きらめくナイフの刃先がある。
解らない。
誰かに死んでと望む気持ちが。
でも一つだけ、知った事。僕を見る科本さんの眼の中に、光はない。
気持ちがどうこうって問題じゃない。もうとっくに、僕とは違う生き物みたいだ。
ザク――と引き裂く音がして、血が滴る。
僕の血が?
いや、違う。僕じゃない。傷ついたのは、ナイフが切り裂くよりほんの少し前、僕を突き飛ばしたダークブルーの腕だった。肘の辺りをざっくり切られて、ボタボタと赤黒い染みを草と土の上に落とす。
「硯深!」
もう一度呼ばれる。素早く体勢を立て直し、刑事は僕を抱える様にして刃物から離れた。その腕の中から、声の方を見る。と、こちらに駆け寄ろうとするのを、担任に抑えられた栄重がいた。
その傍で、弓井先生が蒼白な顔で呆然としている。口元を押えた手が、少し震えている様に見えた。
――侮っていたのだ。
僕等には理由が見えなかった。そうまでする、必然性が。
だからまさか、と侮った。
理由なんか、どうだってよかったのに。
「科本さん。あんた自分が何をしてるか、解ってないのか?」
その声に、ぎくりとする。
どうして?
……ああ、榊末さんの声だからだ。
「いいや、解ってるよ。ずっとこうしたかった。私の邪魔をするから、悪い。そんな人間は要らないだろう?」
「どうかしてる」
「解ってないのは君だよ、榊末君」
「榊末さん! に……」
逃げて。――と、最後までは言えなかった。
声になる前に、榊末さんが刺されたからだ。
まるで道ですれ違うみたいに何気なく、科本さんはスタスタと近づいた。ナイフを振り上げるでもなく、荒げた声を出すでもなく。ただそのまま、ナイフの刃を榊末さんの腹に刺し入れる。
「ずっと君が疎ましかった。若くて、尊大で、自分には何でも許されると思ってる。実際、優秀だったからね。余計に、憎かったよ」
目についたから、ついでに刺したと。僕には聞こえた。
コンクリートの上に、倒れた体。靴に触れそうなそれに少しだけ眼を留めて、すっと上げた視線が僕の眼と合う。
次は自分だと気づく前に、科本さんは榊末さんの隣に引き倒された。
灰色のスーツが腕を捻り上げ、白衣の背中を膝で踏む。守る様に僕を抱えた手が離れ、もう一人の刑事がボタボタと血を落としながら傍に寄った。二人がかりで押さえつけ、手錠をかける。
榊末さんには、歌生さんが駆け寄った。重ねた両手で胸を押し、蘇生を試みているらしい。
後ろのそれを気にしながら、栄重がこちらに近寄って来る。足を止め、振り返る様に僕を見る眼が暗かった。
チリチリと、何かの焦げつく音がする。そして尖った錐で眼球を貫かれでもした様に、頭の奥まで届きそうな鋭い痛み。
「血が……」
手の平で目蓋を強く押さえながら、壁にもたれてずるずると座り込む。顔にやった手の肘が、階段に当たる。
「これ、榊末さんの血の跡じゃなかった……」
建物に続く、階段のすぐ傍。
つい、昨日の事だ。ここで、歌生さんがくれたジュースをのんきに飲んだ。
血の跡が、点々と。僕の足元から榊末さんの死体まで続く。榊末さんの血ではない。返り血が、犯人から滴った訳でもなかった。ダークブルーのスーツを着た、刑事が落とした血だったのだ。
今ならそう解るのに。
チリチリと焦げつくみたいな音がするたび、頭の中に新しい場面が刻み込まれる。まるで最初から、僕が視たのはこの光景だったかの様に。
吐き気がする。眼の奥が痛い。きつい陽射しのせいだけでなく、頭が内側から熱を持っているみたいだ。
グレーがかった夏物のシャツが、脇腹の辺りから黒く血に濡れて行く。シャツの色が変色した真ん中に、ナイフが残ったままだった。
その胸から手を離し、首を横に振る歌生さんをぼんやりと見た。
*
「オレのせいだ」
僕が目を覚ますなり、ベッドを覗き込んで栄重は言った。
あのまま、意識をなくしてしまったらしい。
いつの間にかエアコンの効いた病室に寝かされ、栄重や担任に見つめられていた。
担任が、静かにドアから出て行く。目覚めた事を、誰かに知らせに行ったのだろう。
それで僕は、栄重に訊いた。
「あのナイフ、どうして?」
僕の鞄にあるはずのナイフ。それがどうして、弓井先生の鞄にあったか。栄重にたずねるべきだと思った。僕の他に、ナイフの所在を知っていたのは栄重だけだったから。
「オレが取った。硯深の鞄から取って、隠したんだ」
「僕が、榊末さんを殺すと思ったからだね」
「……そう思った」
疑った事を恥じる様に、栄重は顔を伏せる。
僕に視えないのは、僕だけだから。
そう気づいて、先に止めようとしてくれた。恥じる事なんてない。それを知らず、身勝手に動いた僕自身が恥じるべきだ。
栄重は、あの喫煙室代わりにしている校舎裏にナイフを隠した。僕を疑い、行動する決心をしたのが今日の事だったからだ。
学長室に呼ばれた後で、僕の隙を狙ってナイフと定規をすり替えた。しかし自分で持っておく気にもならず、とりあえず校内では最も安全であろう場所に隠したのだ。後で別の場所に移すつもりで。
だがそこは、弓井先生に馴染みのある場所でもあった。栄重の改心を信じ、彼の吸いガラを始末していたのは弓井先生だ。
そして先生は、見つけてしまったのだろう。
「栄重……解らないんだ」
ぽつりと、知らずの内に言葉がこぼれた。
問う様な彼の眼が、こちらに向く。
「視えなかった。確かに、誰が榊末さんを殺すのか、視えなかったんだよ。なのに、解らないんだ。今になって思い出そうとしても、最初からこうなるって視えてた気がする」
どっちが最初?
どっちが正しい?
ノートに綴った文章を、消しゴムで消して書き直したみたいだ。
元の文章は失われ、僕には書き直された文字しか解らない。
「硯深?」
ベッド脇の椅子から立って、栄重は僕を心配そうな顔で見た。泣いてしまっていたせいだ。止めたいのに、止まらない。涙が、ぼろぼろこぼれて枕に染み込む。
「助けたかったのに。榊末さんを……死なせたくなかったのに!」
「硯深のせいじゃない」
苦しそうな顔で、栄重は言った。
解ってる。
僕のせいだよ、栄重。
ちゃんと、解ってる。
ドアが開く。担任と一緒に、ワイシャツをめくり上げ腕に包帯を巻いた刑事が現れた。僕の涙に驚いた様子で一瞬立ち止まったが、何も言わずに病室に入った。
栄重と担任を廊下に出して、僕に問う。
「どうして、君があそこに?」
僕にはもう、答えられなかった。
刑事は幾つもの質問をしたが、僕は口を開けなかった。いつまでもそんな調子だったので、詳しい話は後から聞いた。
ナイフを持っていた弓井先生は、警察から特に厳しく事情を訊かれたらしい。
本人の説明によると、校舎裏で偶然ナイフを見つけ、急いで出かける所だったのでついそれを鞄に入れたまま外出してしまったそうだ。これはナイフを隠した栄重の証言があったので、信じてもらえた。
次に問題なのは、なぜ栄重が儀式用のナイフを隠したりしたのかだが、これは単にいたずらで片づけられた。栄重本人がそう主張して、警察と学校が納得したからだ。
そして僕は栄重に巻き込まれただけだと、いつの間にかそんな話になっていた。
実際、巻き込んだのは僕のほうだ。
だが栄重を中心としたほうが、話としては解りやすかったのだろう。
結論から言うと、科本さんには十九歳の息子がいて、これが二年前に栄重のお兄さんを殺した連中の主犯格だった。だが当時十七の少年にしては犯行の隠蔽が巧妙で、犯行当時の息子のアリバイを主張していた父親を警察は監視していたのだ。
あの時の僕等はそんな事情を知らなかったが、あちらにすれば僕を疑うのも無理はなかった。息子の犯行を目撃したと証言した僕が、被害者の弟と一緒になって自分の周辺をうろついているのだ。
復讐されるとでも、思っただろうか。
僕はただ、止めたかった。榊末さんの死を。その運命を。
ただそれだけ、だったのに。
けれども今となっては、もう解らない。
眼を閉じて、記憶を探る。
殺人者の姿が視えず、死体だけが横たわる光景。
それを探しているのに、僕の頭の中にはもうその記憶はどこにもない。
榊末さんがいて、ナイフを持った科本さんがいる。その二人が近づいて、接触し、榊末さんは血を流して倒れるのだ。
最初から、そう決まっていた様に。
あの時、僕の頭をチリチリと焼いた。あれは、何だったのだろう。
フィルターをかけられた様に、僕の眼に視えなかったもの。それが後から頭の中に書き込まれたみたいだった。
僕には、僕の運命が見えない。
だとしたら。
最善を選ぶつもりで、この運命は僕が作った。
(可塑世界の監視者/了)
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可塑世界の監視者、本編はこれにて終了です。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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