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可塑世界の監視者(一)

   (一)


 どうやら、僕には理解できないのだ。

 時間の概念と言うものが。

 流れてしまえば二度とは戻らないと人は言うが、それさえも実感を以って理解する事は難しい。

 だって、何が違うか解らない。

 僕の眼にはいつだって、全ての時間が視えているから。

 老いた父母、結婚したばかりの父母。結婚するより前だろう若い頃の父や、まだ子供だった頃の父。

 とうに亡くなった祖父母や、またはその若い頃の姿。会った事さえない曾祖父母に、着物で髷を結った見知らぬ人達。

 僕の通った小学校の制服で、家の中を走り回る子供達。これはもしかすると、僕の子供なのかも知れない。

 それらの「時間」達が幾重にも重なって、そのくせそれぞれ干渉し合う事なく存在する。

 家の中でさえ、人々が部屋を一杯に埋め尽くして。

 一歩でも外に出れば、その数は途方もない。

 僕はいつだって、それら全ての時間に囲まれて来たのだ。

 幼い時には疑いさえしなかった。自分に取って世界とは、最初からこうだったのだ。

 僕の眼が特別だと気がついたのは、ずいぶん経ってからだった。

 ――特別。

 この表現でいいのだろうか。

 確かに、僕の眼は他の人に見えないものを視る事ができる。

 けれども、だから何だ?

 彼等は彼等の時間を生きているが、彼等は僕に気づかない。僕が関わる事ができるのは、僕が生きる「今」だけだから。

 でもこの眼には、全てが同じ。今も、過去も、まだ訪れない未来さえ。

 そして当然の事ながら、「今」に存在して僕が触れられる人達よりも、昔いた人達やこれから生まれる人達のほうがずっと多い。

 想像できるだろうか?

 触れる事も関わる事もできず、ただ僕は視ているに過ぎない。視ている事しかできない。

 それらの中で、僕はいつも一人。

 一人なんだ。


   *


 僕の孤独感を深めた最たる理由は、その不干渉さだ。

 そこにいるほとんどの人達は僕の存在を認識せず、彼等の意識は空気よりも不確かに僕の手をすり抜けて行く。

 理解しているつもりだ。彼等と僕では、存在する場所が違うのだと。ただそれだけの事だと、解っているつもりだった。

 しかし少なくともこちらの感覚としてだけなら、彼等はいつだってすぐ目の前にいる。

 常に周囲を埋め尽くす限りなく実体に近い影達は、誰一人として僕がここにいる事に気づかない。僕には時間の影と現在の人間達がどう違うのか、それさえよく解らないのに。

 そして圧倒的な数の差で、彼等は僕の存在を拒絶する。

 その状況は、長く僕を苦しめた。

 だが人は、「時間」と共に学ぶ。

 僕は成長するにつれて、「眼」の閉じ方を覚える事ができた。今では「現在」とその前後、わずかな誤差の範囲だけで世界を視る事ができる。もちろんうっかり気を抜いて、全てを「開いて」しまう事もあるが。

 その時には酷い乗り物酔いみたいに、眩暈や吐き気で立っていられないほどになる。だかそう言う時は大抵が本当に酔っているか、体調が優れない時だ。だから周囲の人間は、僕の具合が悪くても納得してしまう様だった。

 眼の閉じ方を覚える以前、幼い頃はいつもこんなふうだった。何でもないのに突然吐いたり、恐らく膨大な情報を処理するためだろう。脳が熱を持ってすぐ倒れた。その事で幼い僕は病弱な子供だと言われていた。

 今では多少の誤差はあったが、視ようとしないものは視ない事ができる。そのはずだった。

 でも、出会ってしまった。

 普通なら、出会わなかった。

 それを見つけた時、だから僕はまるで霧の中でも歩いているふうだった。

 堪らずに足を止め、ちょうど手の触れたコンクリートの壁に体重を任せる。胃がむかついて、眩暈がした。昼間なのに視界が暗い。

 深い呼吸を二度三度繰り返し、再び顔を上げて歩き始めた。真っ直ぐ進めているかも解らなかったが、とにかく少しでも早く家に辿り着きたいと思った。

 そんなふうに考えて、足を踏み入れたのは普段なら通らない場所。

 周囲の道路にガードレールがある他は、フェンスもない。だから簡単に入り込めるが、確かここは名前も聞いた事のない様な会社の私有地だった。

 敷地はけっこう広くて、そこに建つ極端に窓の少ない建物はいくつもの棟に分れていた。その余白みたいに残された屋外の通路は、何度も複雑に折れ曲がって分岐も多い。ほぼ見つかる心配はないだろう。

 でもやはり万が一にも見つかれば悪いのは完全にこちらだし、怒られるのは好きじゃない。駅から自宅への最短ルートではあったが、普段は寄りつかない事にしている。

 だけどこの日は体調が最悪で、少しくらいいいだろうと言う気になった。

 この事が幸運だったか、不運だったか。

 僕にはよく解らない。

 それは、すでに横たわっていた。

 それは、血を流していた。

 それは、もう呼吸を止めてしまっていた。

 開かれたままの彼の眼は、少し乾き始めていた。

 僕は、榊末広和(さかまつかずひろ)の死体を視つけた。

 ――いや、この表現は正確じゃない。

 この時点では僕に取って、目の前の死体は「名前も知らない誰か」に過ぎなかったからだ。

 では、僕はいつ榊末さんを知る事になるのだろう。

 すぐに解る。

 倒れ込む榊末さん。

 その直前、慌てた様子で走っている榊末さん。

 夏服を着た榊末さんや、コートを着て寒そうにしながら建物に入って行く姿もある。

 その他にも、人の姿。榊末さんと同じ様に建物に出入りしている人達は、ここで働いているのだろう。建物の外には今の僕みたいに、近道しようとして入り込んだ人達が数え切れないくらいにいる。

 現実と何一つ変わらないそれらの影に囲まれて、僕はようやく自分の状態に気がついた。

 ああ、まずい。

 思った時にはもう遅い。ずっと感じていた鈍い頭の痛みの中に、針で刺す様な鋭いものが混じっている。

 火を宿す真っ赤な炭が燃え尽きて灰になるかの様な、チリチリと焦げつく音が頭の中で聞こえる気がした。

 僕の「眼」は今、ほぼ全開に近いはずだ。つまり余りに多くの、途方もない「時間」を受け入れていると言う事だ。

 この状態は何人分もの「時間」を幾重にも視る事ができるが、長くはもたない。僕が、もたない。

 紙の束を抱え、深刻そうな顔で歩くのはいつもの事らしい。その榊末さんが何人も、縦横に移動しながら僕の傍をすり抜けて行く。

 そのひとつが、顔を上げた。眼を通していた書類を隠す様に揃えながら、不審げに眉をひそめる。

 それから足をこちらに向けたと思うと、あっと言う間に傍に来て僕を咎めた。

「ここは私有地だ。勝手に入り込んで、何をしている?」

 これが、僕が榊末さんを知った瞬間。

 榊末さんが、僕を知った瞬間。

 身長差のために、僕はずっと高い場所を見上げなくてはならなかった。

 榊末さんの真っ黒な髪に縁取られた顔は、真っ直ぐ僕を見返していた。

 少し恐かった。けれども眼を離せなかった。

 僕はほとんど呆然として、その顔を見上げていた。

「ここは道じゃない。通り抜けでも、立派に不法侵入だぞ」

 返事をしない僕に、榊末さんは苛々と言う。

 この事が僕を動揺させていた。

 僕が関わる事ができるのは同じ「今」の存在だけで、僕に関わる事ができるのも同じ「今」の存在だけだ。

 だから少なくとも今、榊末さんは生きている。生きて、僕と同じ場所に立っている。

 すでに死んだ人間なら、いくらでも視て来た。まだ生まれていない人間も視た。

 だがこれから殺されると決まった人間を視るのは、初めてだった。

「聞いてるのか?」

 榊末さんの手が、僕の肩に伸びる。

 動揺と、混乱と。

 開きっ放しの「眼」の負担がピークだった。

 トン、と。肩に。

 ほんのわずか、なでる程度の重さを感じた。

 そして僕の意識は唐突に途切れた。

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