愛の呪い
人と妖が交わるこの吉原遊廓。
満月が煌々と夜を照らす。
紫月屋の特等の豪華絢爛な一室で、花魁、花霧の三味線の音が響いた。
それをうっとりと聴きながら、鬼の頭領、酒呑童子は酒を喰らう。
「あぁ、花霧。やっぱりお前の音は最高の肴になる。」
花霧は三味線を置き、酒呑童子の杯に酒を注いだ。
「もったいないお言葉でありんす。」
酒呑童子は眉を寄せた。
「その言葉遣いは俺の前ではやめろと言ったろう?もっと砕けて話せ。」
花霧は優雅に微笑む。垂れた目尻がなんとも言えぬ色香を放っていた。
「すみません。癖で…それに、廓言葉で話すのはお前の威厳になると言ってくれたのは酒呑様でしょう?」
酒呑童子はバツが悪そうに視線を泳がせた。
「そうだったか?まぁいい。花霧。今日はお前に贈り物がしたくて来たんだ。」
「贈り物……ですか?」
酒呑童子は小刀で指先を少し切ると花霧の口の中に入れた。
鉄臭くない。甘い花の蜜のような香りがする血に花霧は混乱した。
酒呑童子は指を抜き取ると、布で指を拭き取った。
花霧は酒呑童子の目を見て言う。
「これのどこが贈り物なのですか?」
「そのうち分かる。俺の血はうまかったか?なぁ、花霧。これは俺とお前の永遠の約束だよ。今は分からなくていい。お前はただ、俺に愛されておけ。」
酒呑童子は花霧の指に自身の指を絡めた。
女たちに愛されてきたその怨念が、酒呑童子という鬼の原点だった。
「花霧……俺はお前しかいらない。この鬼の頭領がだ。今世こそ、絶対に離したりしない。」
まるで前世でもあったかのような口ぶりだった。
酒呑童子は花霧の手を硬く握る。
「もう俺を1人にするな。」
夜が明けた。花霧は気だるげに体を持ち上げると、酒呑童子はもういなかった。枕元に一輪だけ彼岸花を置いて。
花霧は彼岸花を持って香りを嗅いだ。
次の夜が待ち遠しい。それまでの時間を潰そうと、花霧は気分転換に1人で出かけることにした。
花霧が出かけた路地裏で、小汚い老婆がいた。
着物は薄汚れ、所々破れている。まるで乞食のようであった。
「もし…花霧花魁。あんた、呪いをかけられたね?」
花霧がこの老婆に名前を教えたことなどない。しかし花霧はこの街の花魁だ。名前を知られていてもおかしくはなかった。
「呪い?なんのことでありんすか?」
「あんた、鬼の頭領の血を飲んだだろう?くひひ、魂ごと縛られちまったねぇ?」
「……。」
花霧は何も言わない。無言の肯定だった。
老婆はニタリと笑った。その口の中は黄ばんでおり、歯が抜け落ちている。
黒い舌が見えた。
「ひひっ……可哀想な花霧花魁。もう逃げられないよ。永遠にね。それとも、愛しい男といられて幸せかい?きひひ……」
そういうと老婆はいつのまにか跡形もなく消え去った。あれは妖だったのか、それとも人間だったのか分からない。
ただ、ばくばくと心臓の音が花霧の全身に伝わる。
胸に手を当てても鼓動は治らない。
どろりとしたナニカが身体を包まれたかのように動けない。
「俺とお前の永遠の約束……か。」
呟くと胃から迫り上がってくる何かを感じた。
思わず手で口を塞ぐ。溢れかえってきたのは大量の赤い血だった。鉄の味はしない。ただ花の香りだけがあたり一面に漂った。
「……なに、これ。」
その日から花霧の体は変わってしまった。
食べ物を受け付けなくなった。酒しか飲めない。
周りは大層心配した。しかし、食べられないのだ。
見かねた女将が花霧に声をかけた。
「花霧、少しは食べな?何があったんだい。うちの看板花魁がそれでは示しがつかないよ。ほら、握り飯。」
「ごめんなさい……本当に食べられないの。幾に食べさせてあげて。」
花霧は自室へと戻った。身体は衰弱しない。煙管の香りだけが心を癒してくれた。花霧は昼間から酒を喰らう。
強い酒が喉を焼くが満たされない。酔うことさえ許されない。
また血を吐いた。強烈な蜜のような香りに脳がクラクラとめまいを起こす。
「私はもう……人間じゃないのね。あの人のせいで。」
こんなことは誰にも言えなかった。女将にさえも言えない。禿だった可愛い妹たちにも言えない。
花霧はつーっと頬に雫が伝っていくのを感じた。
苦しいのに、恋しい。自分の半身の鬼を求める感覚が強くなる。
早く会いたい。あいたい。アイタイ。
花霧の初めての客が酒呑童子だった。
彼の愛だけを頼りにこの地獄を生きて来たのに、まだ足りない。彼が欲しい。
血を飲む前も愛していた。今は狂おしいほどの渇望に変わる。
もう彼以外考えられない。花霧は分かっていた。
月が見下ろす夜の帳。街の明かりで星は見えない。酒呑童子がやって来た。
「花霧。俺の呪いは効いたか?一生に一度できる呪いだと晴明の奴が言っていた。」
花霧は酒呑童子に寄りかかると、顔も見せなかった。
ただ酒呑童子の着物に顔を埋める。
「……その永遠を約束する呪いは呪いではないですか……。私はもう鬼にもなれず、人間にもなれないのですよ。」
酒呑童子は喜色満面の笑みを見せた。
「それでいいじゃないか。お前は俺のもの。お前自身のものでさえもない。なぁ、分かってくれるだろう?花霧。俺がどれだけお前を愛しているか。」
酒呑童子の瞳は甘さと冷たさが混じっていた。
花霧の背筋はぞくっと震える。
この鬼は絶対に自分を離さない。どこへ逃げても無駄だろう。
……もう、逃げる気もないが。翼も足も折られてしまったのだから。
花霧の胸に空いた穴が埋まっていく。湖の泥のように足を絡め取られて溺れていく。
「私だけでは不公平ではありませんか。あなたの永遠も私は欲しい。他の女になど目もくれず、永遠に私だけを愛して欲しい……」
酒呑童子は恍惚とした表情を浮かべた。
「そうこなくては。」
酒呑童子の長い爪が花霧の人差し指の先を切った。
ぷつりと赤い雫が滲み出るのを口の中に含んだ。
「これで、俺もお前のものだ。俺だけのーーー。そうだ。もう一つの呪いをしよう。」
酒呑童子は花霧の小指絡める。熱を持った小指が重なる。
「俺は永遠にお前を愛する。約束だ。吉原流の小指の呪いだ。いいだろう?」
花霧は花が咲くように笑った。泥の中に咲く蓮のように。
「はい。」
数日後、酒呑童子は花霧を身請けした。
花霧は最後の挨拶に、自分の禿だった新造の幾に声をかけた。
「幾、主に名前を授けるでありんす。次は主が花を名乗って。蓮花。」
それだけいうと、花霧は綺麗に微笑んだ。花の名を持つ女の最後の微笑みだった。
強烈な花の香りが幾の鼻腔をくすぐった。
「愛の、呪い……」
2人の姿を見た店の誰かがそう呟いた。
花霧は酒呑童子に連れられて大江山へと向かった。
店に残された花霧の部屋からは煙管の煙と微かな花の香りが漂っていた。




