第2話 暴食のハイ・オークと、純白ラードの揚げ焼きステーキ
スライムの薄造りで魔力と水分を補給した私は、《探知》のスキルが示した場所へと向かっていた。
森の奥へ進むこと、約三十分。
巨大なシダ植物を掻き分けた先に、それはひっそりと佇んでいた。
「……なるほど。これはなかなか」
目の前に現れたのは、石造りの堅牢な廃墟だ。
苔むしてはいるが、壁の崩落は少なく、屋根もしっかり残っている。
かつてこのダンジョンを攻略しようとした冒険者か、あるいは古代の王国軍が前線基地として築いた砦の跡地だろう。
入り口の重厚な石扉を、身体強化魔法で無理やりこじ開ける。
ズズズズ……ズンッ。
数百年分の埃が舞い上がった。
中は広々としており、元は兵士たちの詰め所だったと思われるホールがある。
そして何より私の目を輝かせたのは、奥にあった暖炉と、かまどの跡だ。
「素晴らしいわ! これなら直火焼きも、石焼きもできる!」
料理人にとって、火場は聖域だ。
私は腕まくりをして(袖はもう破れているけれど)、気合を入れた。
「まずは大掃除ね。不潔な環境での調理なんて、料理への冒涜よ」
生活魔法《洗浄》を発動する。
風の魔法で埃を屋外へ吹き飛ばし、水の魔法で床の石畳を磨き上げ、火の魔法で空間全体を熱消毒する。
前世のレストラン時代、閉店後に毎日三時間かけて厨房を磨き上げていた執念が、魔法の精度を底上げしていた。
ものの数分で、廃墟は新築物件のようにピカピカに生まれ変わった。
石造りの床は顔が映るほど輝き、空気も清浄そのもの。
「ふう……。労働をしたら、またお腹が空いてきちゃった」
スライムは美味しかったけれど、あれはあくまで前菜。ほとんどが水分だ。
今の私には、筋肉を作るためのタンパク質、そして何より「ガツン!」とくる動物性の脂が必要だ。
グゥゥ……。
正直な私のお腹が、肉を求めて低い音を奏でる。
その時だった。
ドシッ、ドシッ、ドシッ。
掃除したばかりの床を揺らす、重たい足音。
廃墟の入り口に、巨大な影が差した。
「ブモォォォォ……ッ!!」
現れたのは、身長二メートルを優に超える巨体。
岩のように隆起した筋肉、突き出た鋭い牙、そして豚の鼻。
Cランク魔獣、『ハイ・オーク』だ。
手には錆びついた巨大な斧を持っている。この廃墟を縄張りにしていた主かもしれない。
普通の令嬢なら悲鳴を上げて気絶する場面だろう。
しかし、私の目は違った。
エメラルドグリーンの瞳が、食材を見定めたシェフの目つきに変わる。
――スキル《完全鑑定》。
【名称:ハイ・オーク】
【可食部:全身(特にロース、バラ肉が極上)】
【味覚特性:運動量が多いため赤身の味が濃く、背脂にはナッツのような甘みがある。ビタミンB群が豊富。】
【推奨ランク:A】
「……素敵。デリバリーまでしてくれるなんて」
私はにっこりと微笑み、スリットの入ったスカートから太ももを露わにして、ナイフを抜いた。
「ブヒッ!?(殺気!?)」
オークが斧を振り上げるより速く、私は地を蹴った。
強化された脚力で懐に潜り込む。
狙うは首の動脈一点。血抜きをスムーズに行うための急所だ。
ザンッ!
一撃。
巨体がドスーンと倒れるのと同時に、私は素早く魔法でオークを逆さ吊りにし、頸動脈から血を抜いた。
魔獣の肉は、死後の処置スピードが味の9割を決める。
興奮して暴れまわると血液が全身に回り、肉が生臭くなってしまうのだ。
即死させてすぐに血を抜く。これがジビエの鉄則。
血抜きが終わると、次は解体だ。
皮を剥ぎ、内臓を傷つけないように取り出す。
現れたのは、見事なロース肉。そして、その背中を覆う分厚い真っ白な脂肪の層。
「勝ったわ……この脂があれば、アレができる」
バターもサラダ油もないこの森で、唯一にして最強の油。
それが『ラード(豚脂)』だ。
私は手早くロース肉をブロックで切り出し、さらに背脂の部分を大きく削ぎ取った。
◇
さて、調理開始だ。
調理器具はない。けれど、廃墟の隅に手頃な大きさの『黒鉄石』の平板が落ちていた。
これを洗浄し、熱伝導率の良い鉄板代わりにする。
まずは火起こしだ。
かまど跡に枯れ木を組み、火魔法で点火。
その上に黒鉄石のプレートを乗せ、ガンガンに熱していく。
その間に、肉の下ごしらえ。
ロース肉を厚さ三センチ、手のひらサイズという贅沢な大きさにカット。
オークの肉は弾力が強い。そのまま焼くと縮んで硬くなってしまう。
ナイフの先で、肉の筋繊維を一本一本丁寧に切っていく。
トントン、トントン。
地味な作業だが、これを怠ると食べた時に口の中に筋が残り、興ざめしてしまう。
次に味付け(シーズニング)。
当然、市販の胡椒なんてない。
けれど、ここへ来る途中に見つけた『ピリピリ草』の実がある。
乾燥させた赤胡椒に似たスパイスだ。
これをナイフの柄で潰し、第1話で手に入れた『岩塩』と混ぜ合わせる。
この即席ハーブソルトを、肉の両面にたっぷりとまぶす。
そして、肉の表面にナイフで格子状の切れ込みを入れた。
こうすることで、肉の内部まで熱が通りやすくなり、脂が溶け出しやすくなる。
さあ、いよいよ焼きの工程だ。
熱した石板の上に、まずは細かく刻んだ『背脂』を投入する。
ジュワァァァ……。
白い脂身が熱で溶け出し、透明な液体へと変わっていく。
これこそが自家製ラード。
植物油にはない、動物性脂肪特有の、甘く重厚な香りが立ち上る。
カリカリになった脂カスを取り出し(これは後でのおつまみだ)、石板の上には黄金色の脂の海ができた。
そこへ、香り付けの『ワイルド・ガーリック』を投入。
森の木陰に自生していた、強烈な匂いを放つ野草の根だ。
スライスした根を脂の中で泳がせると、シュワシュワと泡立ち、暴力的なまでに食欲をそそる香りが爆発した。
胃袋がキュウッと縮こまる。
匂いだけでご飯が食べられそうだ。
香りが油に移った最高のタイミングで、主役の肉を投入する。
――ジュヴァアアアアアッ!!
廃墟中に響き渡る激しい音。
高温のラードが肉の表面を一瞬で焼き固める音だ。
私は肉を動かさない。
いじりたくなる気持ちを抑え、じっと待つ。
肉の表面で「メイラード反応」――アミノ酸と糖が結びつき、香ばしい褐色物質を生み出す化学反応――が起きるのを待つのだ。
側面を見て、肉の色の変化が半分ほどまで上がってきたところで、裏返す。
クルッ。
現れたのは、完璧な濃い狐色の焼き目。
ラードで揚げ焼きにされた表面はカリッカリに仕上がり、その内側には肉汁がパンパンに詰まっているのが見て取れる。
「焼きすぎは厳禁。余熱で火を通すの」
裏面はサッと焼くだけにし、一度石板から肉を取り出す。
アルミホイルはないので、耐熱性の高い『バナナリーフ』のような大きな葉っぱで包み、休ませる。
肉の中で暴れまわっている肉汁を、繊維の中に落ち着かせるためだ。
その間に、ソース作りだ。
肉を焼いたあとの石板には、オークの旨味とガーリックの香りが溶け込んだ脂が残っている。
そこへ、第1話でも活躍した『シトラス・ボム』の果汁を一気に絞り入れる。
ジュワッ!! ブシュゥゥゥ!!
激しい蒸気と共に、酸味が脂と乳化していく。
醤油やワインがなくても、肉汁と柑橘の酸味、そして岩塩があれば、極上のソースになる。
木べらで石板の焦げ付き(旨味の塊)をこそげ落とし、とろみがつくまで煮詰める。
「……完成」
休ませておいたステーキを皿(平らな木片)に盛り、その上から熱々のガーリック・シトラスソースを回しかける。
ジュゥゥ……。
ソースがかかった部分が音を立て、脂の甘い香りと柑橘の爽やかさが混然一体となって鼻腔をくすぐる。
【料理名:ハイ・オークの揚げ焼きステーキ~森のガーリックとシトラス塩ソース~】
ナイフとフォークなんて上品なものはない。
私はナイフで一口大に切り分けると、切っ先でそのまま突き刺した。
表面はカリッ。中は……。
断面から、ロゼ色の肉汁がじわりと滲み出した。
ミディアム・レアの絶妙な火入れだ。
たっぷりとソースを絡めて、口へ運ぶ。
ハフッ、ガブッ。
噛み締めた瞬間、口の中が洪水になった。
「んんっ……!!」
分厚い肉の繊維が、歯の圧力でプツリと弾け、閉じ込められていた旨味の爆弾が破裂する。
オーク肉特有の、野性味あふれる濃厚な赤身の味。
そこに絡みつく、自家製ラードの甘さ。
脂っこくなりそうなところを、シトラスの酸味とピリピリ草の辛味が強烈に引き締め、次の一口を誘う。
噛めば噛むほど、旨味が湧き出てくる。
飲み込みたくない。ずっと噛んでいたい。
けれど、肉質は驚くほど柔らかく、数回噛むだけで喉の奥へと滑り落ちていく。
ゴクリ。
肉塊を飲み込むと、胃袋が歓喜の声を上げて震えた。
ドクン、ドクンと、食べたものが瞬時に魔力へと変換され、血管を駆け巡る。
「はぁ……熱い……力が、湧いてくる……」
カッと身体が熱くなる。
ただの食事ではない。これは《闘争本能》を呼び覚ます味だ。
スライムの時は「癒やし」だったが、オーク肉は「活力」そのもの。
食べ進めるごとに、指先に力がみなぎり、肌に血色が戻り、視界が一段と明るくなっていく。
二切れ目。今度は脂身の多い部分を。
カリカリに焼けた脂身を口に入れると、サクッという音と共に、ジュワッと濃厚な甘みが溶け出した。
ナッツのような芳醇な香り。
全然しつこくない。新鮮な脂とは、こうも清らかなのか。
夢中でナイフを動かした。
三百グラムはあろうかという肉塊が、みるみるうちに消えていく。
最後に石板に残ったソースと脂を、焼き芋(かまどの隅で焼いておいた黄金芋)ですくって食べる。
一滴たりとも無駄にはしない。
「ごちそうさまでした!」
私は空になった皿を見つめ、深く息を吐いた。
満足感でため息が出るなんて、いつぶりだろう。
王城のフルコースよりも、調味料などほとんどないこの食事の方が、何百倍も豊かだ。
ふと、気づく。
ステーキを焼いた時の、あの強烈な匂い。
ワイルド・ガーリックと焦げたラード、そして獣肉の焼ける魅惑の香り。
換気のために開けておいた窓から、その匂いが風に乗って、ダンジョンの奥深く――あるいは外へと流れ出ていることに。




