第3章 異世界へ
Naomiは自分の自宅である寺の前でKynoと別れた。もうすでに、深夜0時を回っているようだったが、まだ外は生暖かい空気が漂っていた。玄関の電気が点いていた。Naomiの母が娘が遅くなると思い、点けたままにしていてくれたのだろう。まわりは、カエルの鳴き声でうるさいほどだった。自宅の横の車庫の中に自転車を入れ、玄関先に向かった。玄関先に向かうときに、ふと背後から物凄い冷気を感じた。そう、なにかが自分の背後にいるのを感じた。8月末の深夜とはいえ、まだかなり暑い空気が体中にまとわりついていたのだが、そんな熱気も一掃するほどの冷気だった。恐る恐る、Naomiは冷気のするほうへ振り向いた。そこには、白い大蛇が頭を持ち上げて、とぐろを巻いていた。この町では、白い大蛇は神の化身と信じられていた。その神の化身が目の前にいたのである。
大蛇「Naomiだね。もう自分でもわかっているはずだけど、あなたにやってもらうことがあるの。」
大蛇の声は女性の声だった。少ししゃがれた女性の声だった。
Naomi「いや、わかりません。いったい、私は何をすればいいのですか。私には何かを成し遂げるほどの力はありません。」
大蛇「あなたにはやるべきことがあるの。そして、それはもう遥か昔から決まっていたことなの。」
Naomi「誰が、そんなことを決めるのですか。」
大蛇「人類全員がすでにやるべきことが決まっているのだよ。あなたもそうなの。それから逃れることはできないの。」
Naomiは困惑した表情で、次に何を言っていいか考えていた。なにか、悪い夢でも見ているのだと思った。彼女は、その大蛇を無視して、家に入ることにした。きっと、これは夢なのだ、これは幻なのだと自分に言い聞かせた。
その後、玄関の引き戸を開けたところまでは記憶があるのだが、その後の記憶がさっぱりと消えていた。なぜか、すごく長い時間どこかにゆらゆらと浮いていたような感じがした。その間、いろんなところに意識だけが飛び回っていた。また、あの寒々とした欧州と思われる工業地帯の風景が出てきた。そこでは、もはや整然と並んでいた工場のほとんどが崩壊しており、あちこちに銃弾でできたと思われる孔が開いていた。あちこちから銃弾が飛び交っており、周囲に展開している兵士らしき男たちが何やら大声でわめいていた。中には、銃弾が当たった者も見られ、そのまま倒れこむ兵士の姿も見えた。恐ろしい風景だった。Naomiは少し上方の空間に浮遊しているようで、まるで少し高い塔から見下ろしているような目線だった。後方からは、戦車が数台こちら側に向かってくるのが見えた。戦車が見えた瞬間、何やら弾丸みたいなものが飛来し、先頭の戦車に当たった。戦車の前面にある斜めの装甲部分に弾が当たったようで、弾丸は斜めに弾かれて後方へ飛んで行った。そこから、体は物凄い速度で、垂直に飛来していった。大気圏を突き抜け、暗い宇宙空間に体が引きあがられた。そして、そのままどんどんと視界にある地球が小さくなっていった。どうやら地球から離れて行っているようだった。
息苦しさは何もなかったが、全身がひんやりとするような感覚に襲われた。自分でも不思議なくらい、恐怖というものを全く感じなかった。なんか、この後どうなるかわからなかったが、そのうちこの悪い夢から覚めるような気がしていた。そのうち、どんどんとある星に近づいているのがわかった。上空から見えるその星は赤茶けた星だった。以前、テレビで見たことがある、火星のような姿だった。地球の近くの惑星で赤茶けた星といったら、火星しか思いつかなかった。そのうち、火星にあるはずのない、人工的な建物の中に入った。上空から見ていた時は気が付かなかったが、巧妙に周辺の風景に同化させるようにカモフラージュされた建物だった。ただ、近くに近づくにつれて、それは明らかに人工物だということが見て取れた。その建屋の上部も完全にすり抜けて、建屋内の広い大きな部屋に中空に浮いていた。そこには、3人のアジア系の男性がいて、こちらの存在に気が付いたようだった。なんか、すごく恐ろしくなってきた。なぜ、彼らはNaomiの存在に気が付いたのだろうか。しかも、その目線からは深い敵意を感じ取れた。でもなぜか、そこにはKynoのかすかな気配が感じ取れた。周囲を見回したが、Kynoの姿は見えなかった。彼の姿は見えないが、彼はそこに確実に存在していると思った。なぜ彼がそこにいるのかわからなかったし、そもそもなぜ地球外の星に人がいるのかもわからなかった。単に夢を見ているのだろうか。そのうち、どこからか男性の声が聞こえた。
上の存在「君はまだここに来るのは早い。君には今からあるところへ行ってもらう。」
Naomi「誰ですか。」
その男からの返事はなかった。しかも、その男性の声には、なぜか聞き覚えがあった。記憶の一番底の部分に長く横たわっていた、かすかな記憶の一部に、その声は格納されていたような感じである。その後、Naomiは再び地球に引っ張られたようだった。そして、街中の商店街の電話ボックスの中で目を覚ました。自宅の玄関にいたはずなのに、なぜか商店街の電話ボックスの中にいる。しかも、外は明るく、昼のようだった。その電話ボックスが市内の商店街にある電話ボックスということはわかった。市内にある唯一の商店街で、Naomiも時々その商店街にある書店とかに行っていたからである。ただ、電話ボックス内から見る外の世界からは、何かしら違和感を感じた。ここは、いつもの商店街ではないと直感で感じた。恐る恐るボックスの外に出てみたが、最初に看板の文字が読めないことに気が付いた。見たこともないような複雑な文字があちらこちらに使われていた。漢字にも似ているし、部分的に平仮名を片仮名に似ているものの、明らかに異なる文字であった。試しに、いつも行く書店に入ってみた。書店はいつもの場所にあり、中の様子もほとんど自分が知っているあの書店と同じだった。書店の中に入り、一冊の本を手に取ったが、やはり書かれている文字が違う。全く読めないし、そもそも見たこともないような文字だった。日本語でもない、韓国のハングルでもない、もちろん漢字とも異なる。そして、まわりから聞こえてくる人々の会話もまったく理解できなかった。いったいどういうことなのだろうか。Naomiは混乱した。すると、頭の中でまたあの男性の声がした。
上の存在「君には行ってもらいたいところがある。ただし、そこへ行くための通路がしばらくの間、閉ざされている。この世界で、しばらく待機しておいて欲しい。」
Naomi「行ってもらいたいところってどこですか。私は家に帰りたい。家に帰してください。私は、どこにも行きたくない。元の世界に戻して。」
Naomiは心の中の声で必死に訴えたが、それに対する返事はなかった。
上の存在「君にしか出来ない仕事がある。この世界では、時々バグが発生するのだ。そのためのパッチとして用意している者が複数いるのだ。君はそのうちのひとりだ。バグが発生したら、その応急処置をするために、君に動いてもらう。今がその時なのだ。」
Naomi「バグとかパッチとか、私には何を言っているのか、わからない。私には何もできないし、本当に人違いだと思う。早く帰して。家に帰りたい。明日からまた学校が始まるし。」
その後、その男性の声が途絶えた。Naomiは商店街の中で、これから一体どうすればよいかわからず、立ち尽くしていた。周りを普通に歩いていく、自分とは異なる人たちに助けを求めようにも、おそらく言葉が通じない。そのうち、なぜかNaomiの心の中に、市内にある神社の風景が浮かんだ。何の根拠もなかったが、その神社に行ってみることにした。ただ、たしかあそこに行くには、電車で2駅ほど行かないと行けないはずである。すると、Kynoに良く似た男性が近寄ってきた。彼はKynoに瓜二つだったが、明らかにKynoではなかった。その男性は、Naomiに後に付いてくるよう手招きをした。よくわからないまま、そのままその男性の後について行った。男性は商店街の外に車を待機させていた。その車の後部座席に乗るよう指示してきたので、少し怖かったが、思い切って乗り込んだ。ふたりが後部座席に乗り込むと、車はゆっくりと走り出した。
Milo「大変だったね。」
Naomi「日本語がわかるのですか。」
Milo「ああ、君の世界にもちょくちょく行かせてもらっている。君の世界と、私の世界の間には、いくつかバックドアがあるのがわかっている。そこをくぐれば、二つの世界を行き来できる。」
Naomi「私の世界と、あなたの世界。どういうことですか。ここは、どこなのですか。何が一体起こっているのですか。」
Milo「君がずっとなじんできた世界は、無数にある世界のうちのほんのひとつに過ぎない。そして、ここは君の世界ではない。ただ、君の世界にかなり近い世界だ。君は、いくつかあるバックドアのうちの一つをくぐって、こちらにやってきたのだ。それと残念ながら、今はこの世界からあらゆる世界へ通じる扉が一時的に閉められているようだ。原因はわからない。それに、君にはなにやらやらなければいけない仕事がいくつかあるようだ。」
Naomi「でも、私は未成年だし、何も世の中のことは知らない。そんな大げさな仕事なんかできるわけがないです。一体、誰がそんなことを決めているのですか。とにかく、元の世界に戻る方法を教えてください。家に帰りたい。」
Naomiは泣きそうになりながら、訴えた。
Milo「君は、君の想像を超えるくらい大きなシステムの一部だ。そして、君の役割はバグが発生した場合に、そのバグの応急措置をするパッチとなることだ。わかるだろ、怪我をしたときに、そこに絆創膏を貼って応急処置をするようなものだ。」
Naomi「いや、さっぱりわからない。今から一体どこに向かうのですか。」
Milo「君をしばらく保護するよう命令がくだっている。数日間、ホテルに滞在してもらう。食事の心配は、不要。もし着るものが必要なら、あとで君にメイドをつけるから、彼女に手配してもらえばいい。まあ、食事が君の口に合うかどうかは保証しかねるがね。」
Naomi「いや、お腹は空いていません。でも、少し眠りたい。できれば、目が覚めたら、元の世界に戻りたい。家族に会いたい。」
Milo「少しベッドで休むといい。目が覚めたら、部屋の電話でメイドを呼べばいい。君に必要なものを手配してくれる。」
車は、深い森の中に入って行った。まっすぐな道路が続いており、両脇は鬱蒼と茂った原生林のようだった。圧倒的な緑の木々が左右に連なっている。はるか前方に、横に広いが、割と低い建物が見えた。建物の前には、塀があり、その真ん中には門があるようだった。ホテルに到着し、ベルボーイが車のドアを開けてくれた。促されるままに部屋の鍵を受け取り、3階のある部屋に案内された。窓からは、どこまでも続く深い森が見渡せた。遥か向こうには、富士山に良く似た高い山があったが、富士山とは少し見た目がことなっていた。一緒にここまで来てくれた、Kynoに似た男性はいつの間にかいなくなっていた。Naomiはベッドに横になった。そして、3分もしないうちに、深い眠りに落ちた。
また、夢を見た。例の欧州の風景である。今度は、戦闘をしている映像ではなかった。広大で平らな土地に、同じような細長い木製の建物が建っていた。その建物のなかには、両脇に4段くらいの大きな棚のようなものがあり、その棚の中に、びっしりと人が横たわっていた。全員、女性だった。しかも、髪の毛が刈り取られ、肌も薄汚れていた。全員、同じような粗末な服を着せられ、棚のなかで固まっていた。すさまじい寒さが彼女たちを襲っていた。外には、一面うっすらと雪が積り、彼女たちの肌や唇はひび割れて、悲惨な様相を呈していた。満足な食事も与えられていないようで、全員異様なほどのやせこけ、目がぎょろっとしていた。彼女たちの目からは、生気が消え失せ、希望さえも見ることができなかった。そう、絶望というものに完全に支配された人の目をしていた。夢の中にも関わらず、Naomiにはそれが過去に実際に起こった出来事だということが確信できた。その建物群のなかのある建物の中に独房があった。そこには、以前悲しい目線で男性とふたりで工場地帯を歩いていた、あの女性が収容されていた。彼女の目は悲しみに満ちていたが、それと同時に生に対する強い執着心が見て取れた。彼女の心の中が手に取るようにわかった。彼女は、絶対に諦めない強い心を持っているのがわかった。
その後の夢のことはあまり覚えていなかった。深くて暗い大きなくぼみの中に沈んでいくような感覚に包まれた。そこは、暖かくもなく、冷たくもなく、そして音もない世界だった。底がない、ずっとゆっくりと落ちていくような感覚だった。ただ、何も怖さは感じなかった。意識がだんだんと遠くなっていくのを感じながら、底のないくぼみに仰向けになって落ちていく。はるか上方には、暗黒の中に一筋の光が見えた。その光の筋をつかもうと手を伸ばすが、届かない。声を出したかったが、声がでない。そのうち、いろいろな言語で話す言葉が聞こえた。男性の声、女性の声、子供の声、若い声、年老いたものの声、喜びの声、全く知らない言語、そして時々日本語の声。何を言っているのか、わからない。とにかく、無数の声が聞こえてくる。楽しそうな、幸せそうな声から、断末魔のような声まで。その中には、KynoやJayの声も混ざっていたし、家族の声も聞こえてきた。彼らが何を言っているのかは、上手く聞き取れなかった。だが、その声もだんだんと遠くなっていった。そして、まるで深海にひとり取り残されたように、静寂に包まれた。いつの間にか、Naomiは深い眠りに入っていった。




