異質
タカオミ、と呼んだときの彼の顔をネルは一生忘れないでおこうと思った。それくらい素敵な顔だった。まるで世界には自分とネルしか存在しないかのように、純粋に彼女だけを瞳に映してくれたのだ。たしかにあの時二人の間にはある種の絆が生まれたと彼女は感じた。だが、残念ながら世界に存在するのは二人だけではないということを思い出させたのは、その場でおいてけぼりになってしまったもう一人の声だった。
「え、ちょっと、全然意味がわからないんだけど。それ伯父さんの名前なの…?」
おいてけぼりの第三者ことジルである。ジルの質問に対して、タカオミはとても気まずそうな顔をした。
「ああ、うん、まあそうだな…」
「『そうだな』じゃない! じゃあハトリって何なのよ! まさか偽名じゃないでしょうね、二十五年間だましてたなんて言ったら承知しないから。この馬鹿おじ!」
「いや、どちらも本名なんだよ。 姪っこにそんなしょうもない噓をつくわけないだろ」
「よく言う! ほんとは『伯父』ですらないくせに――あ」
ジルはそう言うや否や、明らかに「しまった」という表情を顔に浮かべて口に手を当てた。
「おまえ、知ってたのか…」
その言葉を聞いた瞬間、ジルは固い顔をさらに強張らせた。ぽつりと小さな声で「ばか」と呟くと、そのまま部屋を飛び出していった。
その一部始終を傍らで見ていたネルは驚きのあまり微動だにできなかった。いきなりの展開に頭がついていけなかったのだ。もしかして自分はとても大変なことをしてしまったのだろうか。
「あの、タカオミって…秘密だった?」
おずおずとそう言うと、タカオミは苦笑した。
「いや、別に秘密ってわけでもないよ。ただ、もうずいぶん長いこと人に教えなかったのは確かだな。皆がハトリと呼ぶし自分でもそれが当たり前になってたから、うっかりジルにも教えそびれたというのが正しいと思う」
なぜハトリが通り名になったのかとかタカオミとジルは伯父と姪ではないのかとか、気になることはたくさんあった。それから、ほんのちょっぴりだけ、秘密を自分にだけ教えてくれたのではなかったことにがっかりした。ネルはこんな風に感じる自分に驚いた。ジルはショックを受けて走り去ってしまったというのに、自分はなんて嫌な子なのだろう。
「ごめんな、変なところ見せて。さっきのは気にしなくていいから話を戻そう」
「追いかけなくていいの?」
タカオミはちらりとだけ開け放たれた扉に視線をやった。
「ああ、今はあいつも頭に血が上っているだろうしな。後で話をしに行くから大丈夫だ」
その言葉に「これ以上は踏み込むな」というタカオミの気持ちが透けて見えた。赤の他人の自分に触れる権利がないのは分かっているが、それでも線引きされたのは少し寂しい。 それが顔に出てしまっていたのだろう、タカオミが苦笑した。
「気になるならネルにも事情はきちんと教えてやるよ。ただし後でな。今は脱線しまくった話の筋を戻すのが先。じゃないといつまでたってもお前のことが解決しないだろう」
「ほんと?」
「ああ、お前はなんだか変なやつだから特別だ」
褒められているのか貶されているのか分からない。しかし、自分にも事情を教えてくれるというのは単純に嬉しかった。
ネルが内心で喜びをかみしめている間にタカオミはもう頭を切り替えたようだ。
「ネルが自分の家にいたのは五日前で間違いないんだな」
「あ、はい。それは絶対です」
「じゃあ何が起こって今カブロアにいるのか分かるか?」
ネルは頭をひねった。なぜ自分は物理的に不可能な距離を飛び越えてしまったのだろうか。考え込んだネルを見てタカオミが言葉を補った。
「深く考えなくていい。何があったのかだけ思いだしてみろ」
そう言われて、とにかく意識を失う直前の記憶を手繰り寄せる。長いこと黙り込んでから、やっと話し出すことができた。
「…えっと、たぶん、夢中で走ってたら体がふわってなって、それからバラバラになるみたいな感じがして…。気付いたらここにいました」
「だいぶ抽象的だな…」
「…だって、自分でも分からないんだもの」
「いや、まあいいんだがな…。じゃあなんで走ってたんだ?」
それは彼女にとってはとても嫌な記憶だ。今まで思いださなかったのが不思議なくらいだった。もしかしたら自分で思いだすのを拒んでいたのかもしれないと、心の冷静な部分で思った。
「母さまが死んだの」
その言葉にタカオミが息を飲んだのが分かったが、そのまま一息に言いきってしまおうと下を向いたまま言葉を紡ぎつづけた。
「病気だったの。私はすごく悲しくて何もできなくて、一日中眠ったりしてぼうっと過ごしてた。でもその日は朝からぞわぞわして、すごく早く目が覚めた。それで日にちを確認したら母さまが死んだ日から六日も経っていたから驚いたの。あ、もちろんお腹が空いたときにはご飯を食べたりもしてたんだけど、日にちの感覚が全然なかっただけというか…」
だんだん自分でも何を言ってるのか分からなくなってきた。よく考えたら母が死んだ日以来、こんなにたくさん人と喋ったのは初めてだったのだと今更ながらに気がついた。その途端、涙がこぼれた。本当に、なぜこんなに悲しいことを忘れてしまっていたのだろうか。涙がとめどなく流れていく。話そうにもしゃくり上げてしまって言葉にならなかった。
「ゆっくりでいい」
タカオミはそれだけ言うと、さきほどと同じようにネルの頭に右手を置いた。そして先ほどとは違って空いている左手で背中をなでてくれた。しばらくそうしてもらって、ようやく少し落ち着いた。
「えと、それでその日はずっと嫌な予感がしてたけど、普通に過ごしてました。別にすることも無いからいつも通りぼうっとしてて…。そしたら昼くらいに突然外が騒がしくなって、窓から覗いたら知らない男の人がたくさんいたの」
それまで彼女の家に人が訪ねてくることは滅多になかった。ガロンの町には知り合いがいたが、彼らとはこちらが町に訪れた際に挨拶をする程度で、わざわざ家に来る用事などほとんどない。怪訝に思ったのはそれだけではなく、彼らの服装は明らかに町の人間とは異なっていた。
「なんだか無駄に装飾がついた服を着た人とか、鎧をつけた人もいて、訳が分からなくてすごく怖かった。だから見つかる前に裏口から逃げようと思ったんです。でも森に入ってすぐ後ろから足音がして、無我夢中で走ったら…」
「体がふわっとしてバラバラになる感じがした、と」
ネルは頷いた。
「うーん、そのあたりが決定的に意味不明だが、それを抜きにしても問題だらけだな」
腕組みをして唸るタカオミを見てネルは不安になる。自分でも事態がよく飲み込めていない上に、これからどうすればよいのか皆目見当もつかないのだ。タカオミはこんな自分を面倒くさいと思っているのではないだろうか。顔には出していないつもりだったが、彼女の不安はしっかりとタカオミにも伝わったようだった。
「そんな顔をするな。別に話を聞くだけ聞いてほっぽりだそうなんて思ってない。ただ、まあいろいろ考える時間は必要だろうな」
「…助けてくれるの?」
「『乗りかかった船』って知ってるか?」
そんな言葉は聞いたことがなかったので素直に首を横にふる。するとタカオミは少しだけ笑った。
「だろうな。さっきのは言ってみただけだが、まあつまり、一度拾ったからには最後まで面倒を見ようってことだ」
それはそうと、とタカオミが切り出した。
「ネル、腹が減ってないか?」
そう言われて唐突に空腹感を覚えた。そういえば自分は丸五日も何も食べていないのだ。一度目が覚めたときに何か飲ませてもらったような気がするが、あんなものではこれっぽっちも腹の足しにならない。どれほど悲しくとも空腹だけは我慢できず、毎日きっちり食事を採っていたネルにはあり得ない事態だ。
「とっても、すごく、ものすっごくお腹空きました」
あまりにも鬼気迫るネルの様子にタカオミは意外そうな顔をした。
「もしかして、お前けっこう食い意地が張ってる?」
「え、そんなことは――」
そう言いかけて、ふと母によく言われた言葉を思い出した。
『あなたは食べている時が一番幸せそうね』
初めて気付いたが、よもや自分は食い意地がはっているのだろうか。そういえば食事時はいつも母が少し呆れたように、しかしにこにこと笑顔を浮かべてこちらを見ていたような気がする。それはとても優しい顔だった。そこでまた別のことに気付いた。
(そういえば、母さまのことを思い出してるのに涙が出てこない)
先ほど泣いて少しはすっきりしたのだろうか。今も母の死を悼む気持ちはあるが、それでも胸が張り裂けて死んでしまいそうなほどの痛みは感じられなかった。
「食い意地、張ってるかもしれません。だからご飯いっぱい食べたいです」
少しだけ笑えたのは、多分彼のおかげだろう。
「そうか、じゃあとりあえず食事にしよう。俺も実は食べてる最中だったんだ」
そういえばネルがこの部屋に入ったとき、タカオミとジルはそろってテーブルについていた。食事の邪魔をしてしまったことを申し訳なく思った。
「粥を作ってあるからそこに座って待ってろ」
「はい」
数分後、ネルの前には白い湯気を立てるお椀が置かれていた。中にはとろりとした米の粥が盛られている。つやつやとして美味しそうだ。
「いくら腹が減ってるからって、あんまり食べ過ぎるなよ。苦しくなったらすぐ止めるように」
その言葉を聞く前にネルはスプーンをつかんで口のなかに粥をかき込んでいた。
「おいしい!」
「それは何よりだがな…。やっぱりあまり人の話を聞いてないだろう、お前」
熱さを物ともせずにスプーンを動かし続けるネルに、タカオミは少し呆れたような顔をしたが、その目は優しげだった。ネルはそれを見てぽつりと呟いた。
「なんだか母さまみたい…」
するとタカオミはげんなりした顔をした。
「父の次は母なのか…」
「あ、でもやっぱり父さまの方に似てます」
ネルは慌てて訂正した。
「あのな、さっきも聞こうと思ったが、なんで俺が父親に似てると思ったんだ?」
なんだ、そんなことかとネルは思ったが、質問されたからには答えなくてはならない。
「似てるっていうか、同じなの」
タカオミはネルの言うことが分からないようだったので、言葉をつけ足した。
「気配、魂のありかた、そんな感じのものが同じなんです。正確な言い表し方は私には分からないけど、あなたと父さまは同じ。それは一目見たらすぐ分かるわ」
「いや、俺にはさっぱり分からないんだが」
「そうなの? あなたは他の人と全然見え方が違うのに。こんなの父さま以外初めてだったから、あなたは父さまだと思った。だってそれ以外にあり得ないもの」
ネルにしてみれば至極簡単なことなのだが、やはりタカオミは今一つ要領を得ないらしい。
「もう少し具体的に言ってくれるとありがたい…」
「それは無理です」
「せめて表現しようとする努力くらいしろよ」
「でも一つだけ気になってるのは、あなたは周りと全然違うけど、それを無理やりこの世界に馴染ませようとしてるみたいに見えること。そんなことしなくてもいいのに、なんだかもったいない気がする」
それにはタカオミも神妙な顔をした。分かってくれたのだろうかとネルは様子をうかがっていたが、タカオミの眉間に皺が寄っているところを見ると違うようだ。
「それ、お前の父親もそうなのか?」
「うん、父さまの方がもっと自然に気配を溶け込ませてたけれど、根本は同じこと。世界から浮いてるの」
「お前、なんでそんなことが分かるんだ?」
そう言われてネルはきょとんとした。
「分からないんですか?」
「ああ、俺が知る限りはそれが普通だと思うぞ」
「なぜ?」
心底不思議に思ってそう尋ねたのだが、タカオミは困った顔をするだけで何も言わない。もしかして自分こそが周囲とは違うのだろうか。
「今まで気づかなかったのか?」
「だってみんな感じてると思ってたから。そしたら、そんなのわざわざ口に出すことじゃないでしょう」
「それはそうだろうがなあ…。たぶんお前はけっこう特殊だ。その外見のこともそうだろ」
そのことには自覚があるだけにネルは何も言えなかった。
「お前のそれは成長が止まってるのか?」
「違います。ちゃんと成長してます。背だって去年より二センチも伸びたんだから」
失礼な、とネルは言い返したが、タカオミはやはり呆れたようにため息をついた。
「あのな、十四歳っていう実年齢はともかく、その見た目はどう見ても七、八歳だ。その年代で年に二センチっていうのはどう考えても成長が遅いぞ」
「え、う…。それはまあ、他の子より小さいなって自覚はしてますけど」
「まあ、その点に関しては俺も人のことを言えないが」
「え?」
タカオミは真剣な顔をして言った。
「ネル、お前から見て俺は何歳だ?」
相変わらず亀展開で申し訳ないです。冒頭少しネルが突っ走ってる感がありますね。まあ十四歳といえば夢見るお年頃ですから、無駄にロマンチックな表現を使ってしまうのではないかと。少なくとも私は自分のその頃を振り返るだけで悶死できる自信があります。