大切なこと
再び目が覚めたとき、彼女は一人きりだった。どうしようもなく不安になった。先ほど見つけた優しい瞳、あの人はどこにいったんだろう。気づいたら体が勝手に動いていた。
布団をめくり上げると足が包帯でぐるぐる巻きにされているのが目に入った。「折れてるからな」と言われたのを思い出した。だが先ほど感じたほどの痛みはほとんど無くなったような気がする。
(行こう。あの人を探さなくちゃ)
なぜだか無性にそう思えた。
立ち上がると、やはり気になる程の痛みはなかった。そうしてぐるりと見回してみると、自分が寝かされていたのはこじんまりとした、しかし清潔に整えられた部屋だった。物はそれほど多くなく、壁が白いせいか実際より広々と感じられる。一つ気になったのは布団が床に直接敷かれていたことだ。自分の住んでいた家にはベッドがあった。誰でもそのようにして眠るのだと思っていたので、地べたに横たわっていたのには驚きだった。
「このおうちの人はベッドを買うお金がないのかしら…」
ふむむ…と考えこんだが、すぐにどうでもいいことだと思いなおして、顔を上げて茶色い扉を見つめた。この部屋には小さな窓のほかに出入口が一つしかない。ちょうど目の高さほどにある扉の取っ手をつかんで回すと、何の抵抗もなく扉が開いた。そこからひょこっと頭を入れて中をのぞきこむ。
(いた)
隣の部屋にはあの髭面の男の人と、もう一人見知らぬ女の人がいる。こうして比べてみると違いがよく分かる。あの人の気配はとても異質だ。無理やり世界に馴染ませているけれど、隠し切れていないのが彼女には分かる。しかし、それは彼女にとっては慣れ親しんだ気配でもあった。間違いない、あの人は――。
「父さまなの?」
こけそうになった自分を支えてくれたのが嬉しくて、顔を見つめながら確かめるようにそう言った瞬間、男は固まった。髪はぼさぼさだし口元は髭で隠れていたが、それでも隙間から見える目が大きく見開かれているのが分かる。どうしたのかしら、と様子を見ていると脇から女の人が呆れたような口調で言った。
「ハトリ伯父、サイテーね」
その言葉に反応したのか男が慌てて否定した。
「ち、ちがう! 断じて違うぞ! 俺は一度たりとも子持ちになったことは…」
「なんで家族にまで隠してたのよ! ひどいわ、私はともかく父さんにはちゃんと伝えなきゃ駄目でしょ。そりゃ私も伯父さんは典型的な結婚できない男だと思ってたけど。でも、そういえばじいさんが言ってたのを聞いたことがあるわ、『アイツも今じゃ丸くなったが昔はそりゃあすごかった』って…。嘘だと思ってたけど本当だったんだ、正直ちょっと見直したわ。少しは甲斐性があったのね」
「人の話を聞け! というかお前はもう黙ってろ!」
なんだかよく分からないが、自分の発言のせいで父が困っているようだ。
「あの、父さま…?」
おずおずと声をかけると、男は猛然と否定した。
「俺はお前の父親じゃない! 何をどう勘違いしてそうなったんだ。もしかして顔が父親に似てるとかか? そうだろう?」
すがるように言われて、初めて男の顔の造詣に目を向けてみた。とたんに違和感を覚える。気配は間違いなく父親と同じなのに、顔の形が全然違う。髪と髭に覆われているので分かりにくいが、それでも十分すぎるほどに異なっていた。
「父さま、お顔を変えたの?」
いぶかしむように言うと女は吹き出し、男はしばし絶句した後に疲れ切ったように言葉を発した。
「もう訳が分からん。とにかく俺は間違いなくお前の父親じゃないから、そのことは忘れろ。その方がややこしくなくていい。そして改めてお前のことを尋ねるぞ。まず名前と年齢から」
釈然としなかったが、男が冗談を言っているようにも見えなかったので素直に答えることにした。絶対に父さまなのに、と心の中で呟いたのは内緒だ。
「ネレスティリアムノーレン、十四歳」
「十四歳!?」
今度は二人ともが驚いた。悔しいけれど、このような反応には慣れっこだ。初対面の人はたいてい彼女の年齢を聞くと驚くのだ。見た目と実年齢がちぐはぐなのは自覚しているが、そのことについて父も母もとりたてて何も言わなかったので、彼女自身あまり問題視していなかった。それでも人からこんな風に驚かれると少し傷つく。
「噓だろう。どうみても七歳か八歳…」
「ほんとです」
それを聞いた男は神妙な顔をして黙りこくった。真っ黒な瞳にじいっと見つめられると、なんだか緊張してしまう。
「えっと、ネレス…なんだっけ? ごめんね、聞きなれない響きなもんだから。もう一度教えてくれると助かるわ」
黙り込んだ男性に何かを察したのか、今度は女性の方が声をかけてきた。
「ネレスティリアムノーレン。でもみんなネルって呼びます」
彼女にとって知人と言えるだけの人間は両手で足りるほどしかいなかったが、おそらく父母以外は自分の本名を正しく覚えていないだろう。このやたらと長ったらしい名前は父が考えたらしいが、本人としてはもっと覚えやすい簡素なものにしてほしかったと思うばかりだ。
「じゃあネル。私の名前はジル・カニークよ」
よろしくねと微笑むジルの様子がとても優しげだったので、ネルも少しだけ落ち着くことができた。
「あなたが今いるのはカブロアのサンガル村ってところなんだけど、分かる?」
ネルは再び混乱した。自分が住んでいたのはシンラの森のはずれにあるガロンという小さな町だ。もっとも、ネルの家は町よりもむしろシンラの森に近く、ちょうど町と森の境目あたりに位置する。シンラの森はハンザ王国の西部に広がっており、緑の木々はそのまま国境地帯であるエレキア山脈へと続いている。生まれてからずっとガロアの町より遠くに行ったことのないネルは、毎日のようにエレキアの高い山々を眺めてきた。そしてそうする度にその向こう側にあるはずの、大陸最大の国であるバロッカ帝国やその他の国々を想像しては楽しんいた。
「カブロア、は名前だけなら知ってます。大陸図が家にあったから。でもなんでそんなところにいるのかは全然分かりません。だって私の家はハンザの西にあるんだもの…」
カブロアは遥かバロッカ帝国の西に位置する小国だったはずだ。エレキア山脈を越えて、広大な帝国領土を抜けた先の地に、なぜ自分がいるのかさっぱり分からない。考えたところで答えが出るはずもなく、うつむいて黙り込んだ。すると、誰かの手が頭にぽんと乗せられた。見上げると、先ほどまで黙ってこちらを見ていた男が、安堵させるためにかうっすらとだが笑みを浮かべていた。
「ゆっくりでいいから覚えていることを全部話してみろ。そしたら一緒に考えてやれる」
大きな手に触れられた頭がじんわりとあったかくて心地よい。彼の言葉にはなぜだかネルを安心させる力があるようだ。本人は違うと言うけれど、やはり父と同じ気配を持っているからかもしれないなと心密かに納得する。
「そうだな、まずは最後に自分の家にいた日付は分かるか?」
「帝暦四十一年第三月の十日です」
これは自信を持って言える。朝一番に暦をめくるのは小さな頃から彼女の仕事だったのだ。母は早起きが苦手な人だったので、家畜の餌やりなどの朝の仕事は自分が引き受けていた。
「今日は帝暦四十一年第三月の十四日だ」
それを聞いたネルは思ったより日にちが経っていないことに安堵した。それを見た男は呆れたように言った。
「あのなあ、全然安心できないぞ。ハンザ王国とカブロアがどれだけ離れてるかは地図を見たんなら分かるだろう。ハンザの国境付近からでもカブロアに入るまでに最短でも七日はかかるんだ。今の時期はノロ河の流量が増加してるから、下手をすれば八日だな」
「えっ、じゃあなんで…」
「それはこちらが聞きたい。俺がお前を見つけたのはここから十キロほど離れた場所だ。それが十一日のことだから、どう考えてもおかしいのは分かるな」
「えっと、はい」
実のところ、遠出をしたことがない彼女には十キロの距離がどれほどのものかよく分かっていなかったが、とにかくこの短期間でハンザからカブロアまで移動するのは不可能だということだけは飲み込んだ。
「見つけたとき、お前は砂漠で倒れていた。それで俺がサンガル村まで運んだんだが…その顔じゃ何が何だか分からないって感じだな」
「うーん、はい」
「伯父さん、とりあえずその辺のことは後で考えよ。何があったのか分かる範囲で教えてもらった方が早いと思うわ」
ジルが提案した。ネルはふと、ジルがこの男性を「おじ」と呼ぶことに気がついた。
(そういえば、この人いくつなんだろう)
ジルは二十代前半くらいに見えるが、男の方は伸ばされた髪と髭のせいで年齢不詳だ。ジルの「おじさん」なのだとしたら少なくとも四十より上だろうか。なんだか顔が隠れているせいで何歳と言われても納得できそうな不思議な雰囲気がある。よく考えたら名前すらまだ聞いていない。先ほどジルは彼のことを「ハトリおじ」と言っていたから、彼の名前は「ハトリ」なのだろうか。そこまで考えて先ほど感じたのと似た違和感が走った。
(なんだろう、父さまの名前と違うからかしら。ううん、そんなことじゃなくて何か、噛み合わない感じ。こんな風に思うのは初めてだ)
この人は本当に「ハトリ」というのだろうか。ネルにはどうしてもそう思えなかった。根拠はないが不思議と確信があった。彼の真実の名前は別にある。そう思うと無性に彼の名前が知りたくなった。
「おじさん、名前を教えてください」
「…お前、人の話を聞いていたか?」
「お前じゃなくてネルって呼んでください。それより名前を教えて」
それを聞いた男は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局言葉にするのはやめたようだった。そのかわり小さなため息が聞こえたが、ネルは現在の最大の関心事である彼の名前以外はどうでもよかったので、それには気付かなかった。
「俺はハトリという。これでいいか?」
また違和感が走る。なんで自分が欲しい答えをくれないのかと、ネルはじれったく思った。
「足りません。その名前はあなたを半分も表してないわ。私が知りたいのは真実あなたの名前だけ」
それを聞いて驚いたのはハトリと名乗った男ばかりではなかった。傍らのジルも眉を上げてこちらを見ていた。ジルの様子を見たハトリは気まずそうな表情を浮かべた。そしてしばらく思案した後に口を開いた。
「なぜ、俺の名前が『ハトリ』じゃないと思う?」
そう言われても言葉にしづらいのだが、ネルは一生懸命考えて答えた。
「『ハトリ』が全く嘘っていうわけじゃないけど、それじゃ違和感があるの。ネレスティリアムノーレンという名前が私だけのものであるように、あなたにもあなただけの大事な名前があるんじゃないのかなって感じる。どうしてそれを隠すのかなって不思議にも思う。だから私はそれが知りたいの」
最後に小さく「多分だけど」とつけ加えてしまったが、それでもネルは男の瞳を一心に見つめ続けながら言いきった。男もまたネルの視線から逃れようとはしなかった。その瞳に浮かんだ感情はとても微細で複雑すぎて彼女には理解できなかったが、それでも一瞬だけ瞳が細められたのは見逃さなかった。とても優しい表情だった。
「タカオミだ」
唐突に投げられた短い一言に、ジルは意味が分からないような怪訝な顔をしたが、ネルにはそれだけで十分だった。
だって、今度は名前が耳に届いた瞬間、すとんとネルの心の中に落ちてきたのだ。それまで妙にぼやけていた彼の輪郭が、金色の光を纏いながらするりと描かれたような、そんな感覚。彼はたしかに彼自身をネルに与えてくれた。それがとても嬉しい。
「タカオミ、あなたにぴったりの名前だと思うわ」
ネルは満面の笑みで言った。
ネルは基本的にマイペースな子なので、彼女視点で書くと話がとかく脱線しがちになります。かくいう私も興味のない話は聞き流してしまうクチです。