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苦い思い出

 彼の着地姿勢には一筋の乱れも見られなかった。

 全身の筋肉を余すところなく活用し、また生来の身体能力の高さによって、ハトリは落下の衝撃に耐えて直立の姿勢を保ったのだ。それはもちろん背中にかかえた今だ眠り続ける幼い子どもの安全のためであった。ただでさえ足に怪我をしている子どもの体をこれ以上痛めつけるわけにはいかない。それゆえにハトリは衝撃を和らげるために自らの体勢をむやみに変えることはせず、結果として落下による衝撃の負荷は全て彼の下半身が引き受けることになった。

 倒れることはなかったものの、着地の衝撃が去った後にやってきた凄まじい痛みを自覚するとともに地面にがくりと膝をついた。しかし、ついた膝がこれまた痛い。一通り悶えてから、まずは子どもを地面に下ろし、自分もなんとか腰をおろして一番楽な姿勢をとった。狭い穴の中では足を伸ばすことはできないが、それでも立っているよりは幾分ましである。

「痛い…」

 ハトリは誰に言うともなく呟いた。少し動かしただけでも激痛が走る。おそらく骨の何本かは折れているだろう。骨折は初めてではないが、何度経験しても痛いものは痛い。ハトリは骨折が苦手であった。もちろん怪我を好む人間はいないだろうが、切り傷や打撲などに比べると、骨折は格段に嫌なのだ。じっとしていても襲ってくる何ともいえない不快な苦痛、動かせば全身に轟くような激しい衝撃。それと何より他の怪我に比べて治るのに時間がかかるところが面倒だ。今も痛みのために冷や汗が止まらないし、頭の中では「痛い痛い痛い痛い」と唱え続けている自分がいる。自分でもいい年をして情けないとは思うものの、こればかりは体の素直な反応なのだから仕方がないと諦めてもいる。

 不幸中の幸いか努力のたまものと言うべきか、子どもには傷一つついていない。それを確認して安堵のため息をついてから頭上を見上げた。ぽっかりと空いた穴は小さく、地上の光がずいぶん遠くに感じられた。思っていた以上に深さがある。とはいえ穴内部の壁はしっかりとしていて穴の幅も狭いので、両足を開いて踏ん張りながらにじり上がれば子どもを抱えたままでも脱出できそうだった。普通の人間ならば厳しいかもしれないが、その点ハトリは運の悪さを差し引いて余るほどに体に恵まれていると言えた。そもそも打ちどころが悪ければ落ちた時点で死んでいるかもしれないし、万一助かったとして上まで登りきるのは困難であろう。自分とて足が動かなければ話にならないが。

 そう考えた時、彼は先ほどまで自分を苦しめていた痛みが消えていることに気がついた。ひょいと立ちあがると、やはり異常は感じられない。どうやら骨の再生が終わったようだ。

「ふむ、前より時間がかかったかな。最近あまりいい食事をとってなかったから栄養が足りなかったかもしれん…」

 やはり誰に言うともなく、確かめるように口にしてみる。穴に落ちてから五分ほどが経過していた。この回復時間には少々不満だ。

(まあいいか。こういう時は素直に自分の体に感謝しよう)

 普通でない自分の体に感謝することは滅多にないのだから。


 地上に出る頃には、さすがに息が上がっていた。それでも多少無駄な時間を過ごしたものの、大きな損害はなかったのでよしとする。自分の体はある意味ひじょうに頑丈なので怪我自体はあまり気にならないのだ。それよりも彼にとっては、まんまと穴にはまってしまったことの方が情けなかった。

 実のところ、彼が落ちたのは間違いなく「落とし穴」という名の罠の一種であった。穴に落ちる直前の記憶では、そこにはたしかに地面が存在していた。それが彼の足が乗った瞬間に土が崩れ落ちたのだ。見た目には異常はなかったのに、まるで水のように土が下へと流れ落ちていった。このあたりは雨が少なく日射しが強いので、その土壌は乾燥していて固まっている。それなのに彼が足の裏に感じたのは砂漠の砂のように柔らかな感触であった。見た目はそのままに土壌の性質を変化させてしまうというというのにピンときた。おそらくこの穴を造ったのは、「グノー」という名前の大きなトカゲに似た動物である。グノーは肉食だが動きが非常に遅いため、餌の捕獲には罠を用いる。グノーの出す唾液には特殊な効果があった。それを浴びたものは極端に脆くなるのである。ただしその物の見た目は全く変わらない。この唾液を利用して落とし穴を造るのである。そしてそこに引っかかった獲物が弱りきった頃合いを見計らってゆっくりと食べにくる。このように、罠自体はひじょうに厄介な代物なのだが、何せ動作がゆっくりなので一つの穴を造るのに時間がかかる。また人間の場合は、複数人で行動していれば誰かが落ちても他の者が助けられるので、グノーの穴で死に至るということは実はそれほど多くなかった。

 ちなみにこのグノーであるが、その肉がひじょうに美味であることが分かってからは人間による乱獲が進み、ついには五十年ほど前に絶滅してしまった。ハトリはたまたま長い間誰も踏まなかったために残ってしまったグノーの穴に見事にひっかかってしまったという訳である。また穴の大きさを鑑みるにバイクに乗っていれば落ちることは無かったであろう。偶然に偶然が重なった不幸な事故としか言いようがない。このような良くない偶然には慣れているため、一つ一つを見れば彼にとってはさして重大な事件ではないが、今日のようにそれが立て続けに起こることは珍しかった。どうもこの子どもを拾ってから調子が悪いと思わずにはいられない。もっとも、そんな気持ちも心底安心しきった顔で眠る子どもを見るとすっかり忘れてしまうのだが。


 サンガル村にたどり着いたのは日が暮れる前であった。サンガルは地下水脈の上に人が集まって形成された集落である。周りは荒れ野なので、村人は牧畜を行いながら基本的には自給自足で暮らしている。かつてグノー肉が流行した際には狩猟の基地として栄えたこともあったが、それもグノーの絶滅とともに終焉を迎え、今では寂れた小さな村でしかない。そんなところに病院があるはずもなく、村人は月に一度往診にやってくる医者に診てもらうほかは、具合が悪くなれば自力で街へ出ていくしかなかった。この村でジルに出会えたことは本当に幸運だったと改めて思う。

 ジルはこの村の人間ではない。もともと彼女はここより十キロほど北にあるウルガルという村の出身だ。ちなみに「ガル」というのはこの地方の方言で「家族」を意味する言葉であり、名前の一部に「ガル」のつく村は数多く存在する。ウルガル村はサンガル村よりも豊かな土地にあるが辺鄙なのに変わりはなく、やはり村人全員が親戚のような小さな村である。ハトリもまたかつてはウルガルに住んでいたが、ジルが生まれる前に村を出ており、今では年に一度か二度訪れる程度だった。そのためジルと過ごした時間は長くないが、それでも伯父と慕ってくれる少女をハトリは可愛く思っていた。

 だから九年前にジルが家出をしたと彼女の父親から聞いたときには驚いた。たしかに幼い頃から才気にあふれた彼女は、周囲からも小さな村におさまるような人間には思えないともっぱらの評判であった。土地柄のせいかなんとなくおっとりした人間が多いウルガルの中では、彼女の攻撃的な性格が際立っていたというのもある。田舎の人間の目には、ジルのような鋭い弁舌をいかんなく揮いまくる人間は都会的に映ったのかもしれない。それでも彼女は何がかんだ言いつつ自分の村を愛していたとハトリは思っていたので、父親と喧嘩して飛び出していってしまったというのは少しばかり寂しかった。

 最後にジルに会ったのは彼女が十五歳のときだった。大柄な父親に似てぐんぐん成長した彼女は、当時すでにハトリと同じくらいの背丈であった。

「伯父さんさ、昔自分の身長を追い抜いたら十万メルクくれるって約束したよね」

 かつての軽い口約束をしっかり記憶していたジルは、ハトリに執拗に現金を要求してきた。十万メルクといえば馬一頭が買えるだけの大金であり、ハトリとしては冗談のつもりだった。たしかに自分の身長はこの国の平均的な男性よりやや劣るが、約束をしたのはジルが三歳のときである。まさか覚えているとは思わなかった。ハトリがつつましやかな生活を送っているのはひとえにそれが彼の趣味だからであり、その気になれば金銭に困ることはなかった。現に彼はとある事情から当時一つの鉱山の権利を所有しており、けっこうな収益を上げていた。腐らせておくのも惜しいので必要な分以外は孤児院への寄付に回していたが、そのことはジルもなんとなく知っていたようだ。とはいえ未成年に親の許可も得ずにそんな大金をほいほい渡すわけにはいかないので、両親に話してから渡すと言うとジルは激しく抵抗した。母さんに知られたら巻き上げられて私が自由に使えるわけがない、というのが彼女の主張だったが、今思えば家出の軍資金にするつもりだったのだろう。

 ジルは持ち前の根性でもってハトリを精神的に追い詰め、ついには十万メルクを勝ち取るにいたった。そしてその一年後に村を去ったのである。その後、風のうわさで彼女が街の医者に弟子入りして修業していると知った。そうして修業が終わると同時に彼女はウルガル村に戻ってきたらしい。今は村で小さな診療所を開きながら近隣の村への往診を行っているという。今回は偶然にもジルの往診とかち合ったから良かったものの、そうでなければ医者を探してさらに移動するはめになっていた。


「それにしても変な子だよね」

 二人で食事をとっているとジルが切り出した。

「伯父さんの話を聞くだけでも相当おかしいけど、あの子、子どものくせに妙に体温が低いのよ。普通あれくらいの子って触ると熱いくらいなんだけど。それに怪我の回復も早すぎ。もう痣の色が薄れてるし腫れもひいてきてる。まあまずデゴン砂漠に転がってた時点で生きてる方が珍しいけどね」

 ハトリもうなずいた。

「うーん、どうするかなあ。身元が分かればいいけど、たぶんこのあたりの村の子どもじゃないだろうし…」

「そりゃあ拾った人が責任もって面倒みるしかないんじゃない?」

「そんな犬猫みたいに…」

 ともかく子どもが目を覚ましたら真っ先に事情を聞かなくてはならない。それを踏まえて今後の対応を考えるしかないだろう。とりあえずジルの診療で性別は女の子だと判明したものの、それ以外はさっぱりどころか謎が深まるばかりだった。先ほど少し会話をした感じでは頭に大きな異常はなさそうだったので安心した。言葉づかいがしっかりしていたので、もしかすると良家の娘かもしれない。砂で汚れてはいたが身に着けていた衣服も上等なものだった。

 そのとき部屋の入り口からこちらを覗く小さな人影に気がついた。数時間前に寝かしつけた子どもが立って、じっとハトリの方を見つめている。これを見て慌てたのはハトリである。

「足の骨が折れてるんだから立ち上がったら駄目だろう! ちょっと待て、そこを動くな!」

 ところが子どもはハトリの言葉を無視してこちらへ歩み寄って来る。よたよたとした足どりが危なっかしい。焦ったハトリは席を立って自分から子どもの方へ向かった。そしてちょうどよろけてこけそうになった子どもを支えることに成功した。子どもが寝ていたのは今いる部屋のすぐ隣の部屋だったが、それでも何の支えもなく歩いてきたことに驚いた。痛くなかったのかと少し呆れる。

「無茶するなよ、心臓に悪いから」

 聞いているのかいないのか、子どもは自分を支える腕をぎゅっとつかんでハトリを見上げた。あのぴかぴか光る青い眼はやはり何の表情も読み取れなかった。しかし、かといって生気が感じとれないわけでもないので、単純にあまり感情を表に出さないだけかもしれなかった。ハトリもまた子どもの顔を見つめ返していると、少しためらうようなしぐさを見せてから子どもが口を開いた。

「父さまなの?」

 ハトリは言われた言葉を理解した瞬間に固まった。脇でそれを見ていたジルがあからさまな軽蔑を込めた口調で言い放った。

「ハトリ伯父、サイテーね」


お久しぶりです。このところ私事でばたばたしておりまして、すっかり更新が遅れてしまいました。次回からは視点が切り替わる予定です。そろそろ話を進めていきたいところ。

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