砂漠の迷子2
銀の中にぽつんと落ちた黒い塊が小さな子どもであると視認できる距離まで近づいたとき、ハトリはバイクを下りてゴーグルを外しながら周囲を見回した。
裸眼で確認できる範囲に、足跡やそのほかの形跡が全くない。今日はこの地域には珍しく朝から風が吹いていなかった。つまり、この子どもがここにたどり着いたのは少なくとも晩のうちだ。デゴン砂漠は昼でもそれほど気温が上がらず、夜にいたっては冷え込みがとても厳しい。特に防寒着を装備しているようにも見えない、ただの幼子に耐えられるものでは決してなかった。
憂鬱な気持ちでそばまで歩み寄ると、右手の手袋をはずして子どもの顔に触れた。その砂にまみれて乾いた肌は悲しいほどに冷え切っており、命のあたたかみを微塵も感じなかった。年の頃は7、8才前後だろうか。肩ほどまでの黒髪はやはり砂にまみれて艶を失っているが、色白で幼いながら整った顔立ちをしている。性別はわからないけれど、男であれ女であれ、成長したらそれなりに美しくなっていただろうと思わせた。着衣はここより東に位置するハンザ王国のものに似ている気がする。なんにせよ、このあたりの人間ではないに違いない。荷物も何も見当たらないことから、何者かに置き去りにされた可能性が高い。
ハトリは少しの間だけその無垢な顔を見つめていたが、一息つくとあらためて呼吸や心臓の動きを確認した。分かってはいたが、その行為は結果として彼の心をさらに重くしたに過ぎなかった。しかし、いまだ腐敗が全く見られないので、死後それほど経過していないのだろう。そう思うと一層のやるせなさに襲われた。
その感情がひどく自分勝手なものであることは、頭では理解していた。もう少し早く見つけていたら、と考えること自体が単なる傲慢である。死は特別なものでもなんでもない。命あるものにとっては当たり前の瞬間である。彼とて、今までに数え切れないほど生き物の死を目の当たりにしてきた。その中には、肉親や親しい友人もいた。それでもなお、たとえ赤の他人であろうと、死に直面した時にはこうして感傷にひたってしまう。それは、自分がまたしても取り残されたという気持ちが心の片隅にあるからかもしれないと、彼は思っている。
ハトリは黒く渦をまく思考を断ち切るように頭をふった。口元に巻いていた布をほどいてから、もう一度、子どもの頬に手を当てる。今度は両手で頬をはさむ。
「おまえがハンザの人間かどうかは分からないけれど、とりあえずこれで許してくれ」
そう呟いて、ゆっくりと白い額にくちづけた。それは、ハンザ王国における伝統的な死者への別れの挨拶であった。
そうしてから、緩慢な動きで顔を離す。
「それじゃあな」
立ちあがるために手を離そうとしたとき、ハトリはおのれの両手に違和感を覚えた。なんだか先ほどよりも手のひらが温かい気がする。まるで触れている部分から熱を与えられているかのように。
次の瞬間、ハトリは固まった。
長いまつげを震わせて、子どもの瞳がゆっくりと開いたのだ。ガラス玉のように透き通った青い眼が、うつろに天を見上げる。そうしてさらにゆっくりとした動きで、眼球が何かを探すようにさまよったかと思うと、彼をとらえてぴたりと止まった。その間、ハトリは息をのんで子どもを見つめたまま動けなかった。子どももまた彼を見つめたまま、しばらく微動だにしなかった。そのガラスのようにピカピカ光る瞳からは何の感情も読み取れない。
それからようやく子どもの干からびた唇が動いた。小さくかすれた声がハトリの耳に響いた。
「ひ、げ…」
たったそれだけの言葉をつむぐと、子どもは再び目を閉じた。今度はかすかだが、すーすーという寝息が聞こえてくる。
後に残されたハトリは茫然自失の状態から立ち直れないまま、しかし無意識に手をあごにやった。ほどよく伸ばされた彼のあご髭は、やはりデゴンの銀砂のせいでパサパサとしていた。




