富士山五合目
十一月半ばの週末だった。千夏と正秋はミニバンに乗り、高速道路を走っていた。
このミニバンは正秋が買ったもので、納車されたばかりだ。納車記念に、二人はこれから富士山の五合目へと向かう。運転初心者とは思えないほど正秋は滑らかに走行し、よく注意を払っているので、助手席に乗っている千夏が怖いと感じることはない。
「到着が楽しみだな」
千夏はそう言って、手に抱えているトートバッグにぶら下げたビーグル犬のストラップをもてあそぶ。正秋はそれを一瞥し、再び正面を見る。
「ねえ、まだそのバッグ持ってるの」
「うん。便利なんだよ。色々入るし」
「バーキン、持ってくりゃいいのに」
「えー?」
千夏は正秋の横顔をまじまじと見る。正秋はわずかに下唇を突き出し、何かをこらえているようだ。
「正秋の前では持たない」
「どうして。せっかくもらったのに」
「いいんだ別に。あれは他の人に見栄張りたいときに持ち歩くから」
そう言って、千夏はストラップを撫でる。正秋はそれをチラ見すると、くすくす笑い出した。
「着いたら寒いからね」
「えー、何度?」
「今日は五度くらいかな」
「嘘。極寒じゃん」
「大丈夫だよ。ダウン持ってきただろ」
正秋は愉快そうに笑い、ハンドルを切った。千夏が移りゆく景色を楽しんでいると、次第にあたりは暗くなってきた。向かう方角へ、太陽が今にも沈もうとしている。
「運転、上手いね」
「うん。教官にも結構褒められた」
「いいな。私なんか教習所でいつも『もっと頑張ろう』て言われてたよ」
千夏は不満そうに頬を膨らます。正秋はそれを一瞥して笑う。
「千夏、下手くそそうだもんね」
「あ、それ、言っちゃう? 私だってペーパードライバー返上して、運転、ときどき代わってあげようって思ったのに」
「それはまた今度にするよ。今日この瞬間は俺の方が安全だろ」
「そうだけど。でも」
「うん。結婚してからお願いするよ」
正秋の何気ない言葉に、千夏は急に顔を赤くする。そうだ。自分達は婚約したのだ。会社にも報告したし、それに何より、お互いの『試着』も済ませている。あの隆々たるトックリヤシにどうなることかと思ったのに、意外にもスムーズにいったのだ。おかげで二人はより一層、べったり過ごすようになった。千夏は、左手の薬指にはめた婚約指環をまじまじと見つめる。
「そうだね。子どもができたら、ママも運転できた方がいいし」
「もう子どものこと、考えてんだ」
そう言う正秋はとても嬉しそうだ。
「考えてなきゃ、婚約なんかしません。子どものことだけじゃないよ。家のことも。将来のこと、全部。あー、養育費とか教育費とか、いくらかかるんだろう」
千夏は頭の中で計算しながらうんざりしてしまう。得意技の節約術にも限界がありそうだ。
「そりゃそうか。それで何人、つくる?」
一方の正秋は、のんびりした様子でハンドルを切る。
「数までは決められない」
「これ、八人乗りだからさ。六人はいけるよ。全員女の子がいいな」
「うわー。親バカ全開、無理」
千夏は顔をしかめるが、正秋は幸せそうに笑う。
車はやがて富士山の麓へ辿り着き、ぐんぐんと山肌を上っていく。外はもう真っ暗だ。気圧の変化で耳が聞こえにくくなり、千夏は唾を飲み込む。ときどき見える野生動物注意の標識を見ながら、期待で胸は高鳴っていく。
ようやく五合目へ到着した。駐車場で車から降りた途端、あまりの寒さに千夏は身ぶるいする。正秋が後部座席からダウンを手に取って、千夏の肩にかける。
「ねえ、上、見て。ほら」
正秋は真上を指さす。満天の星空が、二人の頭上に広がっている。
「すごい。絶景」
千夏はため息をつく。こんなに美しい空を最後に見たのはいつだろう。瑠璃色の夜空に、幾千の星々がいっせいに瞬いている。それは夢のように儚く、尊い。どれだけ眺めていても飽きない。千夏は正秋と見上げながら手を繋ぎ、あちこちを歩く。二人の吐く白い息ごしに、星は休むことなく輝き続ける。
「星と同じ数だけ、私達の将来にイベントがある」
千夏は空に向かってつぶやく。隣で正秋が幸せそうに笑い、千夏の手を強く握り返した。
「楽しみだね」
了




