これからずっと
それから数日後、回復した千夏は退院することになった。元々の膝骨折と捻挫もあった海李は、もう数日入院して、様子をみることになったようだった。
「失礼します」
「はい」
千夏は海李の病室のドアを開ける。海李はベッドの上に座り、パソコンを開いたまま、こちらを見てくる。いつもの優しい、穏やかな笑顔に、千夏は胸がギュッと締めつけられる。
「あの。これ、返しにきました」
千夏は大きなオレンジ色の箱を、海李の前に差し出す。
「ああ、それね。いいよ。持ってて」
言葉少なに言う海李に、千夏は一抹の寂しさがこみ上げる。思えばこの人のマシンガントークにいつも救われていた。たくさん笑わせてもらった。
「いいえ。私、退院後の海李さんの介助、お断りします。だからサブスクも無効です」
「あー、そんなこと言ってたね。いいよ、ヘルパー頼むから」
海李はあっけらかんとした様子で微笑む。千夏は少し拍子抜けして、それでも箱を前に突き出す。
「それなら尚更です。受け取れません。お返しします」
「んー。でもさ。安田君に言われたんだよね」
「え?」
「昨日、彼がここに来てさ」
なんだ、それは。そんなの聞いてない。千夏は立ったまま、ハラハラしながら海李を見下ろす。
「前田社長は千夏の命を助けた。だけど千夏もあなたを助けた。だから、これ以上、千夏があなたに何かをする義理はないですよねって」
それはそうだと千夏は大人しく頷く。
「だけど僕だって悔しい。助けてもらったお礼くらい、させてもらいたい、安田君、君に対してもねって言ったんだ」
「へえ…。そしたら正秋はなんて?」
「じゃああのバーキン、そのまま千夏にあげてください。俺は買ってあげられないからって」
千夏は目を見開き、口を開けっぴろげにする。
「いいね、その変顔。千夏の変顔、大好きだよ」
海李は手を叩き、愛しそうに笑う。
「え…。ちょっと、なんです、その理屈」
「プロポーズ、されたんだって?」
今度の海李の顔は、憂いに満ちた表情に切り替わる。千夏はごくりと息を呑み、しばらく海李を見つめる。
「…はい」
千夏の声はかすれ、ほとんど聞き取れない程だ。海李の気持ちが伝わってきて、泣きそうになる。
「それで、千夏はなんて?」
心臓が早鐘を打ち始める。千夏は表情を固くしたまま、何回か深呼吸する。その先を言うには勇気が要る。海李が嫌いなわけじゃない。こんなに素晴らしい男性はそうそう出会えるもんじゃない。だけど素晴らしい男性はこの世に一人だけじゃない。たまたま海李より素晴らしい男性が、すぐそばにいただけだ。千夏はキュッと口を真一文字に結び、鼻から勢いよく空気を吸い込む。
「はい。お受けします」
千夏はまっすぐ海李を見る。海李も真顔で、その眼差しを受け止める。
「そうか。僕が安田君だったらよかったのに」
千夏から目を離し、窓の外を見る海李の顔は見えない。だけど手で目元を拭う後ろ姿は見える。千夏は、自分で洗濯してきた海李のハンカチを差し出す。海李は千夏を見ないまま黙ってそれを受け取り、目元にあてる。
「ねえ。最後に聞かせて。僕と安田君の決定的な差って、何なのかな」
胃を鷲掴みにされたような感覚に、千夏は悲鳴をあげそうになる。痛くて苦しくて死にそうだ。言いたくない。でも、海李は理由を知りたがってる。
「私は、私のために死んでくれる人は嫌です。私のために生きてくれる人がいい」
千夏の言葉は静かな部屋に響く。それから二人は押し黙る。永遠とも思えるその間、千夏は時計の針の音に耳を傾けた。
「これからずっと、お幸せに」
しばらくして、海李はつぶやく。千夏の頭には様々な言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消える。もう何を言っても、何にもならない。
「今までありがとうございました」
それだけ言うのがやっとだ。海李は背を向けたままで、振り向いてもらえない。
「さよなら」
千夏は頭を下げ、病室を後にした。
その日の午後のことだった。前田設計が手がけたイベントホールのお披露目を兼ねた、ハロウィンパーティーが催されていた。招待された正秋と千夏、楓、それに冬馬は、集まった他の招待客たちに挨拶しつつ、豪勢な料理と酒を楽しんだ。当然ながら、そこに海李の姿はなかった。広報部長の浜口や他の社員達が、ゲスト達を温かく迎えていた。
「ねえ、千夏」
正秋があたりを軽く見回しながら、千夏へ耳打ちする。
「何?」
「挨拶も済んだし。抜け出そうよ」
二人は素早く会場を抜け出してタクシーを拾い、正秋のマンションへ到着した。
「千夏」
玄関ドアをくぐるなり、正秋は千夏をグッと抱き寄せ、キスをする。さらに唇を割って、舌を滑り込ませてくる。
こうなることは、千夏には想定済みだ。正秋にプロポーズされてから、千夏は即オーケーしていない。理由としては、体の相性も確かめずにプロポーズするのは性急だし、お互いにちゃんと「試着」してからがいいと思うからだ。そう意見したところ、正秋は笑って了承してくれたのだ。
正秋は熱い息を千夏の首筋にかける。千夏は目の前がクラクラして、倒れそうになる。その肩と腰を正秋がしっかりと支える。
「どうしよう。私って期待はずれかもしれないよ」
千夏は自虐を込めて目をふせる。急に自信がなくなってきたのだ。いざ、事に及ぼうとするとどうしたらいいのか分からない。冬馬としたときはどうだったんだっけ。あのときは冬馬が全部してくれたから、今回もそれでいいのか。正秋はどういうふうにしたいのか。もしかして、冬馬がおざなりなセックスをしていたのも、自分に魅力が足りなかったからではないのか。
千夏の気持ちを見透かすように、正秋は千夏のほおを優しく撫でる。
「千夏、言ったよな。我慢しなくていいって」
「言ったけど…」
「けど、何?」
「私のこと、幻滅しない?」
「へ?」
正秋は意味がわからないという顔をする。
「私、変な声出すかもしれないし、変な顔になるかもしれないよ」
「はあ」
正秋はますます怪訝な顔になる。
「それに私のアレ、変な匂いがするかもしれないの」
そうだ。きっとそれだ。自分の集めた情報によると、女のアレからはいい匂いがする場合と、そうじゃない場合があるらしい。アレが臭いのは自分ではそれが分からないし、正秋がそれを受け入れてくれるとも分からない。
「ねえ、千夏ってそんなことマジで気にしてんの」
「してるよ」
「こんなにドMで変態で可愛いのに?」
「私がドMで変態で可愛くたって、匂いまでドMで変態で可愛いかな」
千夏が拳で正秋の胸をポカポカ叩くと、正秋は目をぱちくりさせ、頬を膨らます。それから盛大に吹き出し、涙を流して笑う。
「大丈夫。婚約者の変な顔も声も匂いも。白髪もシミもシワも。これからずっと、全ーーー部、丸ごと愛してあげる」
「でも──」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当に」
「それが原因で婚約破棄とかにならない?」
「全部愛せる予感しかしないよ」
正秋は呆れて笑いながらワイシャツを脱ぎ、Tシャツを脱ぐ。その途端、千夏は正秋の裸を見て驚く。少し前まで弛んで格好悪いお腹だったのに。腹筋が割れて引き締まり、洗濯板のようだ。
「どう?」
ドヤ顔をする正秋に、千夏はなんと言ったら分からず、ただそれを凝視する。おそらく自分の目はハートになっているが、直し方が分からない。
「えええ。何それ」
「だって千夏が言ったじゃん。お腹を洗濯板にしろって。だから腹筋ローラーで鍛えたんだ。どう?」
正秋は得意になり、千夏の顔の前にその洗濯板を押しつける。
「なんで。どうしよう。困る」
「困るって何が」
「何って…カッコ良すぎて、ズルいよ」
千夏が顔を赤らめてこぼすと、正秋はくすくす笑い、千夏をそっとベッドに仰向けにさせる。二人は時間を忘れ、我を忘れて、朝まで愛し合った。




