ひまわり
千夏はぐったりしたひまわりの花束を抱えたまま、ベッドの上で口をOの字型に開けた。
「正秋──」
「生きててくれて、ありがとう」
正秋の声は震えている。千夏は驚いてそれ以上、口がきけない。正秋は花束を抱える千夏の手の甲を執拗に撫で、少しうつむく。
「それに、ごめん。不安にさせて、悪かった」
千夏は出張先でのことを思い、静かに頷く。
「千夏に嫉妬されて、どうすればいいか分からなかった。ホテルがほぼ満室で、大地さんと同室になったのは本当だよ。千夏からの電話に出なかったのは、ずっと部屋で大地さんを説得してたからだ。なかなか理解してもらえなくて。大地さん、ずっと泣いてて。だけど俺は本当に何もしてなくて…」
「言ったでしょ。私、信じてたよ」
千夏は話を遮り、ぎこちなく笑う。それから右手だけでひまわりを抱え、左手だけで正秋の両手を握りしめる。正秋はまだ顔を上げない。
「聞いたよ。正秋が私と海李さん、助けてくれたって」
「ああ。うん。あの秘書の人も、一緒だった」
「助けてくれてありがとう。本当に大変だったでしょ」
千夏は正秋の横顔に向かってねぎらう。正秋は疲れた顔のなかに、わずかな笑みを浮かべる。
「うん」
「私ね。五階から一人で海李さん抱えて、階段降りられる自信、あったんだ。オシアスで鍛えてるし、おんぶして階段降りるのも、できなくはなかったの。海李さんて七十キロくらいあるのにだよ。すごくない? 私」
「うん、すごい」
正秋は素直に頷く。
「彼に言われたんだ。僕だけおいて逃げてって。でも。できなかった。そんなの無理でしょ。だから…」
「千夏は本当に。本ー当に、頑張り屋だよ」
「うん」
「いつも真面目で、努力家で、献身的で。誰よりも勇気があって。自分よりも相手のことを考えられて。本当に尊敬してる」
「そうでもないよ」
千夏は照れて小さく笑う。だけど正秋は笑わず、真顔のままだ。千夏はベッドの上で座り直し、正秋の顔を見つめ返す。
「俺は誰かを尊敬したことなんて一度もなかった。実家の家族や、死んだじいちゃんばあちゃんのことは大好きだったけど、そういう感情を持ったことはない。誰かを見習ってとか、誰かを目標にしてとか、そういうのも全然なかった。自分のことしか信用してなかったからなんだと思う。こんなに尊敬できる人って、千夏だけなんだよ」
正秋は透明感のある瞳を向け、ごくごく僅かに微笑む。正秋のこんな顔を見るのは久しぶりだ。少年のように純粋で綺麗な、快活な顔だ。外からチュンチュンという声がした。
でも、そんなことを言われて、どんな反応をすればいいのか分からない。千夏は照れて窓の外を見る。電線にスズメが二羽、とまっている。一方が他方の羽づくろいを始めた。すると他方も同じことをし始めた。二羽は仲睦まじく、羽づくろいし合っている。
「私だって、尊敬してるよ」
千夏は恥ずかしいから、スズメ達を見たまま小声で言い返す。正秋は千夏の手を強く握りしめる。
「ねえ、仙台からレンタカー飛ばしてきたって本当なの」
仙台から東京が何キロあるのかは知らない。だけど百キロやそこらの距離じゃないのは千夏でも分かる。
「本当だよ」
「どうして…」
「千夏に早く会いたかったから」
正秋は握る手の力をますます強めてくる。
「一刻も早く駆けつけたいから返信もできなくて。記念日に帰れなくて、ごめんな」
それを言われて、千夏の目にも涙が浮かんでくる。黄色いひまわりの花びらに涙が滴り落ちる。花びらは涙を弾き、床に落とした。
「こんな季節に咲くひまわりなんて、あるんだね」
「うん。秋に咲く、遅咲きのひまわりなんだって。旅館のすぐそばに群生してて。近くに住んでる人に頼んで、分けてもらったんだ」正秋は花びらを一つ引っ張り、切なそうに小さく笑う。「千夏のイメージは、ひまわりだから」
外で風が唸った。近くの木々の葉が舞い散った。二羽のスズメは身を寄せ合い、揺れる電線の上で風を受けている。
「千夏、ごめん」正秋は深く頭を下げる。「俺。本当にどうしようもないガキで。千夏に散々、辛くあたってごめん。だけど今はどんなにあがいたって、前田さんみたいにはなれない。バーキンなんて気軽に買ってやれない。もうあの人が憎たらしくて。でも。だからこそ、仕事で成果出すしかないって思った」
正秋は持ってきた鞄から一通の書類を取り出し、千夏の顔の前に見せる。
「内示…安田正秋殿。十二月三十一日付で貴殿を営業部係長の任を解き、一月一日をもって営業部課長補佐に任命します…。すごい。何これ」
千夏は文書を読み上げ、呆然とする。四月に係長になったばかりなのに、もう昇格するとは。
「うん。課長が、年明けからは俺の下でこき使ってやるって」
正秋はようやく、自信に満ちた顔を向けてくる。
「すごいすごい。昇進おめでとう」
「別にすごくない。俺、主任の期間、すんげー長かったしな」
正秋は自重的に、小さく笑う。
「だってそれは営業部の都合もあったんでしょ。ねえ、でも、いいの? 辞令が出るまで他言無用ってあるけど」
「千夏は特別だからいい」
正秋は軽くニヤけ、書類を鞄にしまい込む。それから再び、真面目な顔に戻る。
「きっとこれからも嫉妬したり、千夏を怒らせたり、泣かせたりすることだらけなんだと思う。ダメな奴で本当にごめん。だけど」
正秋は必死な面持ちで千夏の手を握りしめる。
「そのたび、ちゃんと反省して、ちゃんと謝る。絶対、千夏を離さない。ほったらかしたりしない。この先何があっても一生、千夏のそばにいる。だから…。前田さんのとこに、行かないで。俺の人生から、いなくならないで」
感極まって、言葉につまって、千夏はもう何も言えない。唇がわなわなと震えてくる。正秋の目からこぼれ落ちる涙が、千夏の手の甲を濡らしていく。
「うん」
千夏も頑張って首を縦に振る。
「俺、あのとき意地張ってて、すぐに答えられなかったから今、改めて言わせて」
「──うん」
千夏が緊張して正秋を見ていると、正秋はひまわりに手を伸ばす。花びらを一枚引き抜いて、それを千夏に握らせる。
「ひまわりの花言葉。『あなただけを見つめてる』。千夏だけを見つめてる。千夏だけを、愛してる」
「うん」
千夏の声は、ほぼ声になっていない。
「これから死ぬまで、ひまわりを贈る。受け取って」
「うん」
今度の声は、裏返ってしまった。
「俺の妻になって。生涯俺と、生きてください」
千夏は手から花びらを取り落とし、声も出さずに号泣した。ひまわりの花粉で、むせ返りそうだった。




