お見舞い
どれくらい寝ていただろうか。千夏はベッドの上で目を覚ました。
「気がついた?」
誰かが声をかける。視界がぼんやりしていて、よく見えない。口元には緑色で透明の、半球状のプラスチック容器のようなものがあてがわれている。その容器は壁の装置のようなものと管で繋がれている。酸素ボンベかなと、ぼんやり思う。ここは病院のベッドらしい。
「千夏」
誰かが再び声をかける。目の焦点があい、誰なのかを理解する。背が高くも低くもなく、六十代くらいで少し痩せ気味、白髪混じりの短髪の、大きな目にフレームのないメガネをかけたその男性を、千夏はよく知っている。さらに、少し後ろに立っている同年代くらいで小太りの、ホームベース型の顔で、目が細い女性も同様だ。
「よかった」
千夏の両親は涙ぐんで、千夏の手を握りしめた。
翌朝、千夏は酸素ボンベを外された。千夏は両親の来訪に気づいた後も寝てしまい、今更、海李がどうなったのか急に不安になった。
「ねえ、海李さんは」
千夏は頭上にぶら下がる点滴ボトルを見つめながら問いかける。
「カイリさんって?」
母の京香は尋ねながら、千夏の手をさする。
「私と一緒にいた人。同じ料理教室の仲間なの」
「その人も無事だよ。隣の病室にいて、千夏より先に意識が戻ってた」
答えたのは父の秀雄だ。
「そっか…。よかった」
「今は家族以外、面会禁止だけど。千夏の意識が戻ったら連絡くれって、昨日からずっとロビーで待ってる人がいるんだよ」
「誰?」
「それは、こっちが聞きたいわよねえ」
京香のニヤニヤが、秀雄にも伝染した。
親族以外の面会禁止期間は早々に解かれ、千夏は一般病棟の個室へ移された。そこには講師の孝子や太田原、細江、それに長谷川と楓、冬馬も押し寄せた。皆は蜂の巣をつついたように一斉に喋り出し、千夏は笑顔で答えた。
孝子はいきさつを話して聞かせた。火災発生当時、孝子がトイレへ行き、さらに千夏もトイレへ向かった際、天ぷら鍋から油が跳ね、それが原因で出火したらしい。それだけだったら消化器でどうにかできそうだったものの、鍋がグラついて床に転倒し、溢れた油に一気に火がつき、勢いが増したという。孝子は警察署へ連行され、業務上失火罪に問われて罰金を命じられた。だが、千夏も海李も無事救助され、他に死傷者が出なかったことから、懲役刑は免れたようだ。
孝子はビルの所有者から損害賠償請求されることになったのに、助け舟を出したのは海李だった。海李の言い分によれば、自分が多量の油を使う鶏天を作って欲しいとオーダーしたこと、さらに自分がトイレで転倒したせいで、孝子が助けに来る羽目になったからということだった。
皆があれこれ喋ってしばらく経った頃、看護師が部屋に入ってきた。
「患者さんが疲れますから。そろそろ切り上げてください」
看護師に釘を刺され、皆は少しずつ部屋を出ていく。長谷川と楓と冬馬が残り、千夏を取り囲む。そこへ、長谷川が前に進み出る。
「無事でよかった。仕事のことは心配しなくていいから、よく休んでよ」
長谷川は千夏を見下ろし、労わりながら微笑む。
「はい、ありがとうございます。会社は無事なんですか」
「日曜なのに会社が火事だー、って社内チャットが飛んできたときは生きた心地がしなかったね。だけどビルの五階が半焼。ヒロイン・デザインがある六階と七階は無事だったよ。床が一部ダメージ食らったみたいだから、そのうち工事入るかもしれないけど。サーバールームが無事で本っっ当によかった」
長谷川は腕を組みながら、やれやれという顔をする。
「過去の制作データもみんな無事でよかったっすよね」
冬馬も疲れた様子だが、心から安堵しているようだ。
「そうだったんだ。ラッキーだったね」
千夏も何度も首を縦に振る。
「社長が言ってたよ。守ってくれたのはあまなつだって」
「私がですか」
長谷川の言うことに、千夏は訳が分からずきょとんとする。首を傾げて思案していると、長谷川がスマートフォンを開き、画像を見せる。
「ほら、これ」
それは社長室の一角が映されている画像だ。部屋の北側の壁で、そこには神棚とお札立てが並んで据えつけられている。千夏は指で拡大し、あっと声を上げる。
「釜社札…」
「そう。なんて読むのかよく分かんなかったけど、それ。俺からもありがとうだよ。ほんっっとうに」
制作会社は制作データが命だ。正秋との旅行で出雲大社に行ったとき、余ったお土産代で買ったお札が、火災から見事、会社を守ったのである。深く頭を下げる長谷川に、千夏も恐縮して頭を下げ返す。
「天野先輩の顔も見れたし、先輩の旦那様も待ってますし、そろそろ出ませんか」
冬馬が退室を促すと、千夏は急に胸が切なくなる。旦那、つまりは正秋のことだ。喧嘩してから、そのままだ。でも、来てくれたのか。
「だね。仙台からレンタカーで駆けつけたらしいから」
長谷川ももっともだと頷く。
「は?」
千夏は度肝を抜かれるも、誰も取り合ってくれない。
一方、複雑そうな表情をする楓を見つめながら、千夏は頭の中で状況を整理する。正秋は先週、本免試験に合格したばかりだ。そんな超初心者が、仙台から東京まで運転してきたというのか。
「それで東京帰ってきたら、火事だーって社内チャットが飛んできた訳だろ。マサ君が駆けつけとき、ビルが燃えてたって。消防車がまだ来てなくて、料理教室の人が泣き叫んでて。まだ中に天野さんと海李さんがいるのーって叫んでたらしくて。で、近くに前田設計の秘書の人も来てたみたいで、マサさんがその人も引っ張って、一緒に火の中、突っ込んでったんだって。ヒーローだよ、ヒーロー」
長谷川が腕を組んで力強く頷くと、冬馬も腰に手を当てて同調する。
「マサさんが天野先輩、秘書が前田社長をかついでビルから出てきたらしいですよ。先輩も前田社長も意識不明だったんですよ。本当によかった」
「うんうん。マサ君と秘書の人は、今度、消防署から表彰されるんだってさ」
長谷川が付けたし、誇らしげに微笑む。千夏は脳内で言葉が迷子になった。とにかく何度も何度も、繰り返し頷くばかりだ。
「それじゃあ俺らは会社、戻りましょ。仕事、仕事」
冬馬は長谷川と楓の腕に軽く触れる。が、楓は冬馬のその手をそっと振り払う。
「すみません。五分だけ。ちょっと廊下で待っててもらえませんか」
そう言って、楓は冬馬と長谷川を廊下へ締め出し、病室で千夏と二人きりになる。千夏は少し緊張して掛け布団のふちを掴み、椅子に座る楓の手元あたりを見つめる。
「話しておきたいことがあります」
楓は小さな声でこぼし、千夏と目を合わせるため、少し身を屈める。その瞳には失望の色が映り込み、さざなみのように揺れている。千夏も何を言われるのかと身構える。
「出張中、台風で、どこも満室で。やっと取れた旅館の、同じ部屋に、安田さんと泊まったんです」
楓の声は小さいけれど、その声の輪郭ははっきりしたものだ。千夏が何も言わずにいるので、楓は息を深く吐く。
「あなたが好き、抱いてって、下着姿で迫りました」
「へえ」
千夏を見つめたまま両手の指を組み、気丈なフリをする。だけど動揺はその手に現れて、小さく震え出した。
「そしたら、彼から真顔で言われたんです。俺はあなたに一ミリも興味ない。俺は廊下で寝るから君は部屋で寝てって。和室だったので、入り口と部屋までの間、ちょっとした廊下があったんですけど、安田さんはそこに布団、引っ張ってって。そんなの悔しいから、全部脱いでやりました」
そんなの聞きたくもない。千夏は反射的に目をそらす。窓の外では秋の鰯雲が上空を流れている。
「私、カラダには結構自信あったのに。安田さん、どんな顔したと思います? クライアントにするときみたいな、ニッコニコの営業スマイルになって。冷たくて怖い笑い方。俺に指一本触れないでください。あなたにその資格はないって」
ここで楓は笑い出す。千夏はこわばった顔を崩せないまま、楓の目を見つめる。その目は笑っていない。苦悶に満ちた色が浮かんでいる。
「天野さんにはあるのって聞いたら、はい、僕はこの身を一生、千夏だけに捧げるつもりです、って」
楓は笑いながら、涙を一雫、床に落とす。その言葉に、千夏はごくりと唾を飲む。鼻先がじんわり温かくなり、目の前が霞んできた。肩の力が抜け、手の力も抜けてきた。楓は片手で自分の肩を揉み、首を回す。
「夜が明けてからすぐ、私を置いてチェックアウトしていきました。私は新幹線が復旧するまで待ってたから帰りは別行動。だから安心してください。何もなかったから」
さきほど冬馬が言っていたことが本当なら、レンタカーで高速を爆走してきて、休む間もなく自分と海李を助けにきたのだ。
「前に言った『男友達の家に泊まってエッチした』話も嘘です。ホクロを見たのもたまたまです。どうせ安田さんから、本当の話、聞かされてるでしょうけど」
千夏が脳内で言葉を選んでいると、楓は偽りの笑顔を浮かべ、椅子から素早く立ち上がる。
「じゃあ、負け犬は会社に戻ります。お疲れ様です」
「ちょっと待って」
千夏はまっすぐ楓を見上げる。
「はい?」
楓は当惑したように聞き返す。
「私、あなたにすっごく傷つけられたの。正秋とも大喧嘩したし」
「はい。でしょうね」
「でしょうね、じゃなくて。一発、殴らせてもらえない?」
千夏は勢いよく言い放つ。楓は唾を飲み込み、目を見開く。
「はい」
楓は前屈みになり、千夏の前に顔を突き出す。千夏は力任せに叩こうとしたが、直前で力を緩める。それから弱く、ピシャリと頬を打つ。
「ディレクターと進行担当じゃ領分が違うけど、私の方が先輩だから。舐めた真似したらタダじゃおかないよ」
「はい」
「わかったら仕事に戻って」
「はい」
楓は情けなさそうに微笑み、頭を下げて病室を出ていった。
楓が出ていって数分後のことだった。ドアをノックする音が響いた。
千夏がはいと答え、ドアが開く。そこに現れたのは、目の下に大きなクマをつくった正秋だ。
「気がついてよかった」
「うん」
千夏は正秋の様子をまじまじと見つめる。なんだか様子が変だ。本人の顔には表情がない。両手で何かを後ろに隠しているようで、それがなんなのかよく見えない。
「何、持ってるの」
正秋はそれを目の前に差し出す。千夏は絶句した。直径十五センチほどの花弁をつけた、小さなひまわりの花束だった。何株あるのだろう。五十? 七十? もしかして、百? しかも変だ。よく見る透明のフィルムではなく、グシャグシャのチラシのようなものに包まれ、ひまわりはどれも花弁を垂れ、しおれかかっている。
正秋は千夏のベッドの前にひざまづき、千夏に花束を握らせた。
「千夏。結婚しよう」




