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火災

非常ベルに驚いた千夏は、男子トイレのドアを勢いよく開けた。


廊下全体を覆い尽くすように、辺りには白煙が立ち込めている。視界不良だが、教室のあるあたりが赤く、激しく燃え盛っているのが見える。千夏は咳き込みながら、勢いよくトイレのドアを閉めた。


「海李さん、火事です。早く」

緊迫した千夏の言葉に、海李は音を立てて個室のドアを開ける。

「そこのトイレットペーパー、取って。それ、煙を吸い込まないよう口元にあてて。私の分もちぎってください」

千夏は避難訓練を思い出しながら言う。

「ああ」

海李は言われた通りトイレットペーパーを少しちぎり、一つを千夏に手渡す。それから千夏へ肩を預け、二人で廊下へと出る。

「海李さん、なるべく体を低くして」

「分かった」

「エレベータまで行けません。あそこまで火が来てる」

「なら非常階段か」

千夏はまっすぐ前方を見る。非常口は料理教室のすぐ脇にあり、そこはもう火の海だ。

「非常階段の方が危険です。内階段の方、行きましょう。あそこまでなら多分行けるはず」

二人はできるだけ身をかがめながら前進した。と思った矢先、海李がずるっと滑って転倒した。


「大丈夫ですか」

「ごめん。先に逃げて」

「行けません。あれ…」

千夏は海李の右足に気づく。折ったのは左足のはずだ。なのに海李は右足首を手で押さえている。

「実はさっき、トイレで転倒したとき、右足をくじいちゃったんだ」

「ええ」

海李はびっしょり冷や汗をかいて笑っている。こんなときでも笑えるなんて。危機迫る状況に、千夏は過呼吸になりそうなほど、何度も何度も呼吸を繰り返す。同時に煙を吸い込んでしまい、ひどく咳き込んだ。


「ほら、早く先に逃げて。きっと消防隊が来てくれる」

「ダメですよ。ほら」

千夏は海李の前でしゃがみこみ、後ろ手で海李に触れる。

「何言ってんだ。無理だよ」

「大丈夫です。私がおんぶします」

千夏はオシアスでのトレーニングを思い出す。いける。今の自分なら大丈夫だ。

「僕は七十キロ近くあるんだ。君みたいな女の子には運べやしない」

「私、重いものもてます。お願いだから、海李さん」

千夏は懸命に言い返すも、海李は床に座り込んだまま、動こうとしない。

「確実に無理。これは命令だ。行きなさい」

命令、と聞いて、千夏の頭の中でプツンと切れた。


「うっさい! 私はあんたより、よっぽど鍛えてんだよ」

千夏が向き直って怒鳴りつけると、海李は面食らって見つめ返す。

「こうしている間にも、一酸化炭素中毒で死ぬ。私は絶対死にたくない。早くしな。ほら」

千夏は再び背を向け、床をコンコンと叩く。

「僕を背負ったら、逃げ遅れちゃう」

「大丈夫」

千夏は自分にも言い聞かせながら、真剣な顔で海李に迫る。海李はひどくためらいながら、両腕を千夏の肩に乗せ、身を預ける。

「せえのっ」

千夏は腰と脚に力を入れ、海李のお尻をグッと持ち上げる。海李は確かに重い。美穂よりも倍近く重い。似た背格好の冬馬よりも重そうだ。だけど重りをたっぷりつけたジムのマシン「レッグプレス」に比べれば、少しは軽い。


海李をおんぶしながら、千夏は階段にたどり着く。自分より高い位置に頭がある海李が、激しく咳き込む。千夏は自分の分のトイレットペーパーを海李の手に握らせ、階段を一段、一段、慎重に降りてゆく。

「千夏。もうおろしてくれ」

「だめ」

「大丈夫だ。階段、僕は這っていくから」

「それじゃ逃げ遅れる」

「千夏。女の子には無理だ」

「黙って」

ここまできたら男も女もない。動ける方が動けない方を運ぶ。それが当然だ。千夏はゆっくり、踏み外さないように確実に降りる。先ほどより煙が増え、室温も上昇したのか、暑苦しい。


「みんなは逃げられたのかな」

「そう願いましょう」

そう言って千夏は、三階と四階の踊り場で一度、海李をおろした。激しく呼吸しながら、むせて咳き込んだ。

「千夏。頼むから。君だけでも逃げて」

「あと少しじゃないですか。一緒に逃げます」

千夏は目も見開き、武者ぶるいしながら、海李の両手をひしっと取る。海李は先ほどからずっと顔色が悪い。目は半分も開いていない。おそらく煙の吸いすぎだ。これを吸いすぎたら、命に関わる。早く階段を降りたいのに、千夏も煙の吸いすぎで、喉が痛い。咳と涙が止まらない。千夏は海李を庇い、着ているコートを脱いで海李を頭からすっぽり包み込む。


「千夏。こんな状況だけど僕、君と一緒にいられて、嬉しい」

コートごしに、海李の小さくかすれた声が漏れ出る。千夏は四つん這いになり、床すれすれに顔をくっつけて呼吸し、泣きながら海李の方を見上げる。海李はコートの隙間から顔をのぞかせ、切なげに微笑んでいる。

「私、そんなの聞きたくない」

「君は、生きたいんだろう?」

「当たり前でしょ」

千夏は激昂し、海李の頬に指を食い込ませる。海李はこんなときでも、感情的にならない。

「千夏のことは好きだ。でも、僕はせいに執着がない」


海李の瞳に火柱が映る。表情はこれ以上ないほど、穏やかだ。千夏はそれを見て、ぼんやり何かを思い浮かべる。こういう笑い方、どこかで見たことがある。そう、仏様がするアルカイック・スマイルだ。海李はいつも仏様みたいだ。いたずらもするし、根性曲がりだと思うこともあるけど、泰然自若としていて、何にも動じない。圧倒的な大物オーラが漂う。

「毎日、楽しい。仕事が嫌だと思ったことは一度もないし。君に出会ってから尚更、ワクワクすることが増えた。世界で一番、僕は幸せ者だ。だから、いいんだ。欲張るのは好きじゃないし、今ここで──」

「海李さん、行こう」

千夏は遮り、海李の手を引っ張る。

「ここで僕をおいていっても、恨んだりしないよ」

「おいてかない」

「千夏。愛してる」


千夏はもう叫ぶとも喚くともつかない声を出す。海李はそれに動じず、優しく微笑み続ける。こんな尊い男性に愛してると言ってもらえるのは、人生最大のラッキーかもしれない。今までの哀れで冴えない人生の見返り、神様からのギフトか。もしこの人の隣に立てたら。パートナーになれたら。煙で朦朧としながらも、千夏の想像は途中で途切れる。どうしてもそれ以上の想像ができない。未来が見えない。理由は分かっている。


近くで何かがメキメキと音を立て、倒れる音がする。激しい火柱がたつ音もする。煙の色は白から、徐々に黄色みを帯びてきた。

「君のこと、尊敬してるよ。重たい僕を背負って、命懸けで助けようとしてくれたこと。僕は不幸なまま死ぬんじゃない。幸せなまま死ねるんだ。だから君もそれを誇って。胸を張ってくれよ」

海李の頬には、一筋の涙が光っている。

「頼む、千夏。早く逃げて」

「ねえ、海李さん。私はね」

千夏は呼吸を荒げ、涙を手で拭いながら、海李の肩に手を置く。海李は穏やかな表情のまま、黙って見つめ返す。

「あなたと違って、私は生に執着してる」

千夏は力強く言い、咳き込んだ。海李は微動だにしない。

「でも、それでいい。執着してるから好きな人のこと、大切にできるんだって信じてる。格好悪いけど。私は生きることにしがみつくんだって」

近くに見える火柱が、一段と大きく膨れ上がる。海李の瞳に、一層大きく赤い炎が映り込むのを、千夏は黙って見つめる。


海李は何も言わない。だけど、先ほどより目に生気が宿ったように思う。

「こんなところで、死ねない。死なせない。逃げるよ」

千夏は渾身の力を込め、海李をおぶって再び階段を降り始める。だが、十段ほどおりたところで急にめまいがした。さらに吐き気もして、少しよろけてしまう。手すりにつかまり、必死で呼吸を整える。だがめまいが酷くなり、海李の重みをずっしりと背中に感じた。海李はすでに意識を失ってしまったらしい。自分ももう立っていられなくなった。ちょうど三階にたどりついたところなのに。千夏は海李が怪我しないよう、ゆっくり膝をついてしゃがみこむ。


薄れゆく意識の中、蜃気楼のような何かが見える。あれはなんだろう。人? 消防士だろうか。正秋──。千夏は海李をおぶったまま目を閉じ、意識を失った。

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