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鶏天

千夏と海李は車で料理教室へと向かった。その間、ほとんど会話を交わすことはなかった。海李の言葉が、千夏の脳内をめまぐるしく駆け巡っていた。


ビルのエントランスで、ちょうど太田原と細江に会った。四人が料理教室のドアを開けると、すでに孝子とやまなかきんに君、それにカメラマンらしき人間と、他の曜日に通っているらしい生徒達が到着していた。

「あ、きたきたー。みんないらっしゃい。見学していって。たまに手伝ってくれると助かる」

「なんでも手伝いますよ。僕がリクエストした鶏天(とりてん)ですよね」

海李は松葉杖をつきながら愛想よく笑顔を送る。

「そうだけど、ダメよ。怪我人は大人しくしてなさい」

「平気です。大したことありませんって」

そこへ、きんに君が新たに入ってきた千夏達に礼儀正しく頭を下げる。あちこちのメディアで見た通り、筋肉ムキムキで笑顔が爽やかな男だ。

「初めまして、やまなかきんに君です。今日、こちらをお借りして動画配信させていただきます。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

千夏達も礼儀正しくお辞儀し返した。


動画撮影は順調に進んだ。今回作る料理は給油率が低い米粉を使った鶏天らしく、孝子が衣をつけた鶏肉を天ぷら鍋に放っていく。ゴポゴポと心地よい音をたて、良い香りが漂う。孝子は菜箸でつまんで身を裏返した。

「トレーニーでも揚げ物はたまには食べたいですからねえ。揚がるまで、待ち時間は筋トレしましょっか」

「ええー?」

「ほら、孝ちゃん、僕にならって。皆さんも」

きんに君は両手を伸ばしたり、左右にステップを刻んだりして運動を始める。生徒達は面白がって真似し、カメラマンがカメラを回す。皆が笑い合っているなか一人、微妙な目つきで天ぷら鍋を見ている孝子に、千夏が声をかける。

「先生、気分悪そうですが大丈夫ですか」

「ごめんなさい、揚げ始めたのに私、トイレ行きたくなっちゃって」

「孝子先生、鶏天は私が見てますよ。私、運動はしたくないから」

そばにいた太田原が自分の腹の肉をおもしろそうにつまみ、申し出る。

「火元、気をつけてね。じゃあ、ちょっとだけ」

孝子はそう言って廊下へ出ていく。

「そういえば海李さんは?」

太田原が不思議そうに千夏へ尋ねる。

「さあ。トイレですかね」

千夏は海李がいなくなったことなど気づかなかった。松葉杖をついて用を足すのは、なかなか骨が折れることだろう。


「きんに君、その動き、もう一回スローでやってもらえませんか」

生徒の一人が声をかけると、きんに君は周りを見回す。

「ここは調理台があってちょっと狭いから、廊下、出ましょうか」

きんに君と生徒達が廊下へ出て、運動の続きを再開した。千夏もそれに続くと、孝子が廊下の奥にあるトイレから手を振った。

「天野さん、ちょっと来て」

「はい」

千夏が女子トイレの前へやってくると、孝子がすぐ隣にある、男子トイレのドアを指さす。

「多分、海李さんの声だと思うんだけど。トイレの中で転んじゃったみたいなのよ。私、背が低いし。天野さん、手伝ってもらえない?」

「はい」

千夏は男子トイレをノックする。海李が「はい」と答える声が返ってくる。


「千夏です。大丈夫ですか。開けますよ」

千夏は男子トイレのドアを開けると、床にしゃがみ込んだ海里の姿を捉える。松葉杖は窓のそばへ投げ出されていた。

「孝子先生ー」

廊下から、別の生徒が孝子を呼ぶ声がする。その声に反応し、孝子は戻っていく。

「大丈夫ですか」

千夏が手を差し出すと、海李は情けなさそうに手に掴まってくる。

「あー、恥ずかしいとこ見られた。こんなところで転んじゃって」

「仕方ないですよ。怪我はないですか」

「うん。ありがとう」

千夏は海李に肩を貸し、抱き起こす。さらに放り出された松葉杖を拾い上げ、それを海李にあてがう。ところが、握り部分のネジが外れ、グラついてしまっている。おそらくそれが原因で転倒したに違いないと、千夏は事情を察する。

「用は足せました?」

「いや、それが実はこれからで」

海李は気まずそうに個室に目をやる。

「嫌でなければ、私、ドアの外で待ってます」

「助かるよ」

海李を個室の中へ連れて行き、ドアを閉め、千夏はぼんやり鏡の前へと立つ。ふと、正秋がどうなったのか気になり出した。スマートフォンは、教室に置いたバッグの中に入れっぱなしだ。海李が出てきてから、チェックしにいくとしよう。


廊下から、何かざわめきのようなものが聞こえてくる。きんに君がまた、あの肉体美を惜しげもなく見せながら、何か新しいパフォーマンスをやっているのだろう。きっと今回の動画で孝子先生の名前も少し売れるのではと、千夏は少し嬉しく思い、くすくす笑う。

だが、その笑いは長くは続かなかった。耳をつんざくような、非常ベルが鳴り響いた。

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