腕のなかで
ラウンジのソファに深くもたれ、千夏は海李の顔を見ながら小さく笑った。
「ヒーローみたいですね」
千夏は、海李のソファの横に置かれた松葉杖を見つめる。
「え? ああ、それは子どもの頃によく言われた。僕は他の子よりデカかったから、悪者をやっつけるヒーローみたいでかっこいいって」
「実物もかっこいいからですね」
「だけど喧嘩は弱かったんだ。足も遅いし、力も弱いし、まったく男らしくなかった。木偶の坊って言われた。自分より小さい奴に泣かされてて。今だって、僕より背の低い後藤と喧嘩したら、絶対に後藤が勝って、僕が負けるんだ」
「だって後藤さんて格闘技が得意なんでしょ」
「そうなんだよ。僕が彼にあまり強く命令できないのは、そういう理由だ」
「十分強く命令できてますよ」
後藤が海李の命令に従い、千葉と東京を何度も往復してくれたことを思い出し、千夏は大きく苦笑いする。
「亡くなった父によく言われた。男は強くなければならない。女性がどんなに社会進出して強くなろうとも、結婚して家庭を持てば子どもを産むのは女性の方だ。その女性のことも、生まれた子どものことも男が護ってあげなければならない。どんなに男が家庭内で平等にあろうとしても、女性ほど気配りもできないし、気が利かない。だからこそ黙って働く。乱暴するのはもってのほか。優しいのが男らしさだ。女性にはとことん優しくしなさい、それが男の強さだ、って」
初めて父親のことを話す海李に、千夏は身につまされる思いがする。グラスを手に取り、アイスティーの残りを飲む。
「素敵なお父様ですね」
「うん。父こそ僕のヒーローだった。…もっと親孝行、してあげたかったのに」
「海李さん…」
千夏は海李の腕にそっと撫でる。
「でも、よかった。千夏が少し、元気になったみたいで」
海李は千夏の方に向き直り、にっこり微笑む。
「そうですか」
「さっきまで、こんな顔してた」
海李は悲壮感たっぷりの顔をする。それがわざとらしくて、あまりにもブサイクで衝撃的だ。
「そんなブスじゃないです」
千夏は手を叩いて笑う。
「ああ、千夏は可愛いよ。普段はとーっても可愛い。でもなー。さっきはひどいブスだった。負のオーラがひどすぎて笑いそうになった。こりゃ、僕のプラスオーラでなんとかしてやんないとって思ったよね。ハハハ」
千夏は黙って頷く。海李の笑顔で安らいだが、それは伝えない。伝えたら自分がどういう行動に出るか自信がない。
「ずっとこうしていたいけど、さて、帰ろうか」
海李はすっと立ち上がる。
「帰るんですか」
「うん。家まで送るよ」
こんな素敵なシチュエーションだけに、千夏はがっかりする。だけど同時に、ホッとしているのにも気づく。正秋はどうでも、自分はこれで正秋を裏切らずに済む。正秋は今頃…。千夏は必死で首を横に振る。
海李のジャガーでアパートまで送り届けてもらった後、千夏は運転席の前に立ち、頭を下げた。
「ありがとうございます。明日の料理教室、海李さん行きます?」
「うん。一緒に行こうよ」
「はい」
「あと、少し早く迎えに行くから。ちょっと付き合ってよ」
「わかりました」
あのままエンターコンチネンタルホテルの一室で「夜のデート」するよりはよほど健全だと、千夏は自分に言い聞かす。海李が走り去るまで、千夏は手を振って見送った。
翌朝、千夏は自宅の浴室で湯船に浸かり、悶々としていた。前日の夜は眠りが浅く、目覚めも悪かった。正秋と楓ことが頭から離れず、気分は最悪だった。泣き腫らした目で、瞼が重かった。海李と会えるのが、せめてもの救いだった。千夏は口元まで体を沈め、口からブクブクと水面を泡立てた。泡立てながら頭まですっぽり、体を湯船に沈めていった。
千夏は身支度を済ませ、アパートの道路の前で待機した。朝イチで帰ると言ってたわりに、すでに午前十一時だが、正秋からは連絡すらなかった。どうやら台風が過ぎた後もダイヤは乱れているらしく、宮城県周辺はいまだに交通機関が麻痺しているようだった。
「いつ帰ってくるんだろ」
千夏はそうひとりごとを言い、着てきた服をなんとなく見る。秋コートの下に着ている服は、以前に合コンのときに着ていったものだ。あのとき冬馬に「エロい服」呼ばわりされたVネックの、胸元がチラリと見えるワンピースだが、今日はコートも羽織っているし、今の千夏の沈んだ気分にはこれくらいがちょうどいい。千夏は腕にはめたピンクゴールドのブレスレットを見つめる。それを引きちぎってしまいたい衝動を、わずかな理性でこらえる。
葛藤しているうちに、また涙がじんわり浮かんでくる。そのとき、目の前に青いジャガーが停まった。千夏が急いで涙をぬぐうと、運転席から海李が手を振ってくる。
「おはようございます」
「おはよう」
「運転。私が代わりましょうか」
千夏は助手席に乗りながらわざと明るい声をかけ、笑顔をつくる。
「千夏は免許、持ってんの」
「はい。ペーパーですけど」
「ハハハ。じゃあ危ないから遠慮しとく」
「骨折してる人に言われたくありません」
「大丈夫だよ。左足だし」
千夏は左足のギプスをじっと見下ろす。本人は笑っているが、なかなか痛そうだなと思ってしまう。赤信号で停車している間、海李の方もまた、千夏の方をチラリと見てくる。
「今日、スカートなんだね。可愛いじゃん」
「ありがとうございます。ワンピースです」
「その綺麗な足は、目に毒だな」
「さっきまで完全無欠のイケオジだったのに、エロオヤジになっちゃいましたね」
信号が青に変わり、海李は笑いながら発進する。千夏が見ていると、海李は千夏を一瞥する。きっと目が腫れているのに海李は気づいている。だけど海李は何も言わない。
「なんにも聞いてこないんですね」
千夏はファンデーションを厚塗りした自分の顔をサイドミラーで確認し、ため息をつく。
「うん」
「そういうところ、海李さんのいいところですね」
千夏は自分の膝あたりに目を落とす。千夏の小さな変化に気づき、あれこれ尋ねてくる正秋とは気の遣い方が違う。もっと大人で、もっと温かく感じる。
「今日、うちの人間と彼、仙台に行ってるんだってね」
運転しながら、海李が尋ねるので千夏は静かに頷く。
「安田正秋。神奈川県鎌倉市出身。大和国際大学商学部卒。ヒロイン・デザイン株式会社営業部係長。三十三歳。背は百七十くらいか。いい男だね」
海李の唐突な言葉に、千夏は息を呑む。海李はどこまで正秋のことを調べたのか。
「でも、僕の方もなかなかいい男だと思うよ。前田海李。東京都葛飾区出身。帝国理科大学理工学部建築学科卒。前田設計株式会社代表取締役社長。四十五歳。身長百八十三センチ。体重六十八キロ。どうかな」
ちゃっかり身長体重を入れてくるところに、千夏は笑う。絶対にプロポーションでは正秋は敵わない。
「海李さんは、いい男です」
「やっぱり? だよね。だって僕は、君を泣かせたりしない」
海李の言葉に、千夏は素直に頷く。本当にそうだ。海李は第一印象すら悪かったものの、その後はずっと紳士的だ。
「でも。安田君は千夏に泣かれるほど、好かれてるってことなんだよな」
千夏は海李の横顔を見る。顔から笑みは消えている。海李はハンドルを切り、アクセルペダルを踏み込んだ。
二人が到着した先は、都心のビル屋上にある庭園だった。周りには来場者がほとんどおらず、千夏は松葉杖をつく海李に歩調を合わせて歩く。
「綺麗ですね」
千夏は言いながら、そばに咲いているトルコキキョウやコスモスを見る。
「うん」
「コスモス好きなんですよ。花言葉が確か──」
「千夏」
「はい」
「僕は君が、好きだ」
海李は立ち止まり、まっすぐ千夏を見る。千夏もまっすぐ見つめ返す。視界の隅で、コスモスが揺れる姿が見える。秋風が髪をさらっていく。
「君に惚れてる。安田君と別れて。結婚を前提に、僕と付き合って」
「海李さん…」
「この命にかえても。君を何より大切に思ってる」
海李を見ているうちに、千夏は震えてくる。いつの間にか涙がほおを伝う。だんだん視界がぼやけていって、海李の輪郭がはっきりしなくなってきた。この涙はなんなのだろう。どうして自分は泣いているのだろう。嬉しいから。切ないから。それとも。涙でモザイク模様になっているのに、海李が切なそうに微笑んでいるのは分かる。
海李の言葉に嘘はない。嘘があったら、誰が事故の犠牲になるというのだ。
この人と付き合ったら、自分はどうなるんだろう。おそらく人生はひっくり返ってしまうだろう。あのボロアパートも。だいふく屋も。擦り切れたトートバッグも。みんな自分の前から消えて、自分はどんな女に成り上がっていくのだろう。もし結婚したら。海李に愛されて、何不自由なく暮らせるだろう。だけど。
「昨日、帰したくなかった。無理やり奪ってしまおうかって、散々考えた。だけどきっと泣くんだろうなって想像したら、できなかった。僕は意気地がないから、このザマだ」
「意気地がないなんて、思わないです」千夏は真剣に向かい合い、言葉を切る。「海李さんは、いつだって思いやりがある人です」
「ありがとう。でも僕は安田君のように若くない。だから君に相応しくないのも分かってる。でも諦められない。諦めたくない」
海李は手を伸ばし、千夏のほおを撫でる。撫でながら、流れ落ちる涙をぬぐう。海李にぬぐわれながら、千夏は無性に正秋と会いたくなる。なんで。どうして。彼は今どこでどうしている。いつの間にか手が伸びてきて、千夏はそっと抱きしめられる。それがとても温かく、心地よい。
「ごめん。やっぱりこのまま奪いたい」
「海李さん…」
「君が好きだよ。もう、どうしようもないくらい」
千夏は暴れることもなく、黙って海李の腕に抱かれる。その顔は絶対に見ないと誓う。見たらきっとキスしてしまう。そしたらすべてが決壊する。千夏は最後の理性でこらえた。同時に海李の両手もまた、小刻みに震えていた。