お気に入りの場所
沙耶香達と別れた後、千夏はしばらくオータムフェスティバルの会場を見て回った。ただそれにもすぐ飽きて、静かな場所へ行きたくなった。せっかく沙耶香に清々しい気持ちを分けてもらったのに、千夏一人になると塞ぎ込んでしまった。千夏は駅に戻り、電車に乗った。
予約したレストランは浜松町駅そばのビル内にある、肉料理を名物とするイタリアンだった。千夏はカウンターで一人来られなかったことを告げ、テーブル席に案内してもらった。土曜の夜なのでまあまあの客入りで、店内は賑やかだった。その大半がカップルだった。
天井から床まで一面ガラス張りの、コーナーに位置するテーブル席で、そこからは街中の様子がよく見えた。浜松町駅と線路、大通りとビル群のほか、少し離れたところには東京タワーも見えた。眼下には公園もあって、照明がやけに華やかだった。
写真を撮ろうと思ったが、スマートフォンの充電が切れていた。オータムフェスティバルで散々写真を撮り、動画まで撮ったことを思い出し、充電切れしてよかったと千夏は思い直した。いつも、どんなときでもスマートフォンを気にしているのがバカバカしいと思えた。あれがあるから気を揉むのであって、なければそれもない。
千夏は牛肉のラグーソースペンネをオーダーし、水を飲んだ。それからまた公園の方を見た。赤やピンク、緑の光が園内の木々を照らし、幻想的な世界を演出していた。千夏はそれを目に焼きつけるよう、しばらく見入った。
「芝離宮、今年もライトアップやってるねえ」
近くに座っているカップルの女性の方が、公園を見下ろして言うのが聞こえる。千夏は失礼にならない程度に、カップルの様子をそれとなく観察する。
「綺麗だけど行ったら混んでるよね。ここから見るくらいがちょうどいいよ」
今度は男性の方が答える。
「私たちのためにライトアップしてくれてるみたい」
女性は幸せそうに笑う。
「そういうことにしとこっか」
男性も笑い、女性のグラスにワインを注いだ。
頼んだパスタが運ばれてきた。千夏はフォークにパスタを絡ませるが、気分が悪かった。吐き気がして、口に運ぶ気になれなかった。会計をして、店を出た。いつもの節約の鬼はどこへ行った。なんでここにきた。単価の高いレストランに入ることも、まったく口もつけずに帰ることも、普段の自分なら絶対にしなかった。千夏は自分自身に呆れ、エレベーターを降り、一階についた。ビルを出て、大通りを横断した。
案の定、公園前は混雑していた。秋のライトアップショーをしているらしく、ここにも恋人達の群れが押し寄せていた。入ろうかどうか迷った末、やめておいた。入ってもライトアップを見にきているのか、仲睦まじい恋人達を見にきているのか、分からなくなるのは嫌だった。
大通り沿いを歩いていると、千夏はなんとなく見覚えのある場所に辿り着く。最近、ここに来たなと思い出す。そう、確か浜松町駅から、海李とこの道を歩いた。ということはこの先にあるのは──。
目前にはエンターコンチネンタルホテルが、夜空を貫くようにそびえ立っている。千夏は自分が喉が渇いているのに気づく。あのとき飲んだ美味しいアイスティーを思い出し、千夏はエントランスに入る。
千夏はエレベーターで地下一階へと降りていく。ドアが開いた瞬間、優雅なピアノの調べが流れ込んでくる。千夏は毛足の短い絨毯の上を歩き、ピアノに一番近いソファ席に座る。すぐにスタッフが歩み寄ってきたので、千夏はアイスティーをオーダーする。
女性のピアニストが弾いている曲はなんなのか、千夏にはまったく分からない。だけどいい曲だと思う。静かで穏やかで、凪のようだ。肌に、心にしみこんでくる。周りの客はピアノに注目などしていないようだが、自分はそれを黙って見続ける。
「お待たせしました」
スタッフがアイスティーを運んできた。あのときと同じ、薄くて透明度の高いグラスだ。キューブ型の氷がびっしり敷き詰められ、オレンジがかった茶色い紅茶がたっぷり収まっている。千夏はそれに口をつける。素晴らしい豊かな香りが鼻をくすぐり、爽やかな味が口の中を満たした。
グラスをテーブルに置き、千夏はピアニストが別の曲を弾き出すのを見る。また知らない曲だが、先ほどよりもっと甘く切ない曲調だ。そんなつもりはないのに頬に涙が伝う。店内が暗い照明で、千夏はそれに感謝する。
視界の隅で、誰かが隣のソファに座った。千夏は微動だにせず、ピアノを見つめている。今は何にも邪魔されたくない。この音色を聞いてさえいれば救われるような気がする。何も考えずに済む。なのに、その人間が気になる。曲が終わり、千夏はようやく振り返った。
「なんでいるの…」
千夏は彼を見た。なぜ。どうして。悲しいとき、苦しいとき、どうしてこの人はいつもそばにいるんだろう。だけど自分がここに足を運んだのも、こうなることを期待していたのかもしれない。
「言わなかったっけ。ここ、祖父が設計したホテルで、僕のお気に入りなんだ」
海李は優しく微笑んだ。




