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出張

正秋が出ていった後、千夏はよろよろしながら玄関を出た。アパート一階の駐輪場のそばにゴミ捨て場があり、そこにバーキンが箱ごと投げ捨てられていた。台風の大雨でびしょ濡れになったそれを千夏は手に取り、自分の部屋へ持ち帰った。


翌日の土曜日、東京の空は爽やかな秋晴れとなった。正秋と楓は仙台へ出張へ向かったようだが、台風もそれに同行するように東北地方で猛威を振るっていた。千夏はテレビのニュースを通じて交通機関が麻痺していることを知った。日帰りで済むはずが、正秋達が帰宅困難となっていることを、社内メールで知らされた。


そんな折、千夏は正秋から直接、連絡が来るのを待っていた。すでに午後三時だが、一向に来なかった。スケジュールアプリを開くと、正秋は午後一時には打ち合わせを終えているはずだ。千夏は心配でたまらなくなり、正秋に電話をかけた。


「最初に言わせて。昨日はごめんなさい。バーキンはちゃんと海李さんに返すから。あの、台風だから、心配で…」

謝る必要なんかない。千夏の問題ではなく、正秋の気持ちの問題だ。ただ、そうしておいた方がいいと感じた千夏は、言った後で窓の外を見る。かすれて消えそうなすじ雲が、抜けるような青い空に幾筋も浮かんでいる。

「季節外れの台風のせいでさ。新幹線も完全にストップ。飛行機も飛ばなそう」

前日の喧嘩を引きずって、電話の向こうの正秋の声はぶっきらぼうでよそよそしい。それでも、電話に出てくれるだけマシだと思うことにする。千夏はスマートフォンを耳にあてたまま、卓上カレンダーを見る。今日は二人が付き合い始めて、三ヶ月記念日だ。


一ヶ月記念日も二ヶ月記念日も、二人がそれぞれ忙しく、お祝いできなかった。三ヶ月記念日こそちゃんとお祝いしようよと、過去に正秋に言ってある。東京へ帰ってきたら、それをお祝いするつもりでいた。海李にバーキンを返して、正秋に今一度、気持ちを伝えたかった。不安を解いて、安心させてあげたかった。千夏は冷静でいなければと、自分に言い聞かす。


「それで、正秋はどうするの」

非難がましく聞こえないよう、千夏は遠慮がちに尋ねる。

「街なかは無理だったから温泉街の旅館に泊まる。明日の朝、帰る」

「明日…」

ダメ元で千夏は浜松町駅近くのレストランに予約を入れてある。そこなら東京駅からも羽田空港からもまあまあ近いし、正秋が新幹線にせよ飛行機にせよ帰ってきたら直行できると思っていた。


「そういうわけだから。じゃ」

「待って。ねえ、大地さんて、どうしてる?」

「大地さん?」

正秋の声は不快そうだ。

「も、もしかして同じ旅館とかじゃないよね。ね」

千夏は不安を下手くそに隠しながら、頑張って言う。電話の向こうからは呆れたような、深いため息が漏れ聞こえてくる。

「子どもっぽいこと言うなよ。この悪天候で足止め喰らった人、大勢いるんだよ。仙台駅前も、空港付近もホテルは全滅。やっと取れたんだ。同じ宿だよ」

「部屋は別々だよね」

「…」

嘘でしょ。どうしてそんなことになるの。千夏は頭に血がのぼる。


「温泉街ってどこ。なんて名前の旅館? 大地さんと電話、代わって」

あれほど冷静でいようと決めていたのに、千夏は叫んでしまった。もう無理だ。どうしてそうなる。

秋保(あきう)温泉。緑風亭(りょくふうてい)ってとこ。電話は代わらない」

正秋はイライラした様子で伝える。

「話したい、ちゃんと」

千夏は楓が裏切ったときの冷たく鋭い、残酷な笑いを思い出す。あの女が誘惑すれば正秋なんて簡単に堕ちる。そんなことは明々白白だ。

「やめろ。大人げないぞ」

「だって、大地さんがトラブルメーカーだからじゃん。あの人のせいで私達、引っ掻き回されてるんだよ」

千夏にとっての大ピンチは、楓にとっての大チャンスだ。


「千夏。俺は彼女に興味ない。妙な心配はしなくていい」

「妙って何。はっきり言えば。男女が同室だったらタダで済むはずないじゃん」

「もう切る」

「待って。ねえ…。私は正秋のこと、愛してるよ。正秋は私のこと、愛してる?」

正秋は無言だ。その無言の長さに、千夏は嗚咽を漏らす。

「いつも言ってくれるのに」

電話の向こうからは、うんざりしたような深いため息が漏れ聞こえる。千夏はそれを聞き、しゃくりあげる。

「そんなのって、ないよ」


千夏は静かに電話を切る。しばらくスマートフォンを見つめていたが、ほぼ衝動的に楓へ電話をかける。出ない。楓に「今、話したいんだけど」とメッセージを送ってみる。既読にならない。社内用チャットを送ってみる。メールも送ってみる。さらにもう一度、電話をかけてみる。無視、無視、無視だ。今度は正秋にメッセージを送ってみる。「今日、三ヶ月記念日だよ」と打ってみたが、返信はない。時計の針はじわじわ進んでいく。


五分待った。十分待った。十五分待っても、既読表示にならなかった。たかが十五分が、千夏には一年分くらいに感じられた。千夏は最後に「正秋のこと、信じてる」と打ち、スマートフォンをベッドに置いた。その直後だった。そのスマートフォンが鳴り出した。


「もしもし」

「あー、千夏、今ちょっと話せる?」

電話の向こうから、沙耶香が勢いよく話しかけてくる。

「うん」

沙耶香のテンションに気圧されながらも、千夏はその明るさに少し救われる。

「今日、荒川区のオータムフェスなんだよ。今からメッセージ送るから、そこに来てよ」

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