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信じたいって思ってる

降りしきる雨のなか、後藤は千夏と海李を車に乗せ、千夏のアパート前に停車した。千夏が車から降りて傘をさすと、助手席側の窓があき、海李が顔を出した。


「へえ、ここに住んでんだ」

海李は面白そうに言う。

「ええ。オートロック付きでコンシェルジュも警備員もいる、鉄筋コンクリートの、タワーマンションです」

千夏はボロアパートを指さし、偉そうに言い返す。

「なるほど。地下九十八階付き、地上二階建のタワーマンションか。最上階の眺望が素晴らしいわけだ」

「合計百階」

そう言って千夏は激しく笑う。真面目な顔して、海李のこういう返し方が好きだ。

「じゃあ、家に入ってくれ。千夏が無事に玄関ドアを閉めて施錠するまで、ここで見守ってるから」

「そんなの大丈夫です。怪我人は後藤さんと早く帰ってください。後藤さん、お願いしますね」

千夏が海李の頭ごしに後藤へ頭を下げると、後藤も行儀よく下げ返す。

「承知しました」


「何を言う。家に着くまでが遠足って言うだろ。君は階段を数段上ったところで雨で滑って転げ落ちるかもしれない。コウモリがバサバサ襲ってくるかもしれないし、酔っ払いが空き缶投げて、それが頭に当たって気絶するかもしれないだろ。僕はそれを見届ける義務がある」

「はいはい。いいからもう窓しめて。大人しく帰って、海李おじいちゃん。今度、訪問介護にいきますからね」

千夏がいい加減に笑ってぞんざいに手を振り払い、車から離れようとしたときだ。誰かが自分の名前を呼んだような気がして、静かに振り返る。

「千夏」

振り返った先に立っていたのは、傘をさして立ち尽くす正秋だった。


それからおよそ五分後のことだった。後藤は海李を車に乗せて走り去り、残された千夏と正秋は千夏のアパートのなかに入り、テーブルを挟んで向き合った。だが、二人はそれぞれうつむき、しばらく無言だった。千夏はつい今しがたの、四人のやり取りを思い出していた。


海李は車のなかから正秋に挨拶をした。正秋も助手席側の窓に近づき、挨拶をした。千夏のお付き合いしてる人ってのは君だったんだねと海李が言うと、正秋は頭をさげた。今日は楽しかったね、ありがとう千夏、と言った。千夏もありがとうございました、と言った。


このとき、正秋の前で海李に千夏、と呼び捨てされるのが嫌だった。だけどそれを訂正するのも怖かった。海李の目は笑っていなかったし、それは正秋も同じだった。完全にバチバチやり合っているのが分かったし、ここで自分が割り込んでややこしくするのも嫌だった。


海李はさらに続けた。君達が付き合ってるのは知ってる、僕は千夏が好きなんだと言った。正秋はそれに対して何も答えず、黙ったままだった。そのうえ海李は、男同士二人で話さないかと問いかけた。正秋はしばらく海李を見てから、はいと答えた。千夏も、運転席に座る後藤も口を挟まず、黙って見ているだけだった。


千夏は意識を目の前に戻した。

千夏のアパートのなかで、テーブルの反対側に、正秋があぐらをかいて座っている。

「昨日、本免に受かったんだ」

正秋が先に口を開き、発行されたばかりの運転免許証を見せる。千夏は現実に引き戻され、免許証を見る。

「そうか。短期間ですごいね。おめでとう」

「あと、明日は出張だから。その前に千夏の顔、見ておきたくて」

「そうなんだ…。どこに行くんだっけ」

「仙台」

前に海李が言っていた、前田設計のタクシーサイネージの案件か。社内で楓が出張すると言っていたのを、千夏はおぼろげに思い出す。そして、今はそんなことを言ってる場合ではないことも理解する。


「で。今日はデートの帰りか」

先に口火を切ったのは正秋だ。千夏は何も言わずに下を向く。正秋は運転免許証を財布にしまい、少し反応を伺っていたが、指で自分の膝をたたき始めた。

「あの運転してた人、前にも見たことあるな。千夏を乗せてどこか行った」

「うん。海李さんの秘書だよ」

「へえ。で?」

正秋の語気はだんだん強くなっていく。

「で? って。それだけ」

「なんで何も言わないの」

「別に」

「別にって何だよ」

正秋の顔には、明らかに怒気が込められている。


「海李さん、交通事故に遭ったの」

千夏が暗い顔で言うと、正秋は一瞬だけ意外そうな顔をするが、すぐまた無表情に戻って小さく頷く。千夏はそんな正秋を見て、ため息をつく。

「私が車に轢かれそうになって。それ、かばってくれて、海李さんが轢かれて。足、骨折して──」

それ以上は言えなくなり、千夏は再びうつむく。

「そうだったんだ。それっていつ?」

「今月の頭…」

「どこで?」

「それ。言う必要、あるかな」

千夏は急に腹立たしくなってくる。まるで尋問されているかのようだ。

「ある。どこなの」

正秋は無表情で繰り返す。

「千葉県」

「もしかして千夏の実家?」

「違うよ。…館山」

「あんなとこまで? 二人で?」

「そうだよ。正秋に、『千夏みたいに、大地さんは強くない』って言われた日、海李さんにデートに誘われたから付き合ったの。悪い?」


千夏は思わずつっけんどんな言い方をしてしまい、直後、悲しくなってくる。こんな言い方しかできないあたりから、自分は想像以上に(いか)り嘆いているのだと、改めて自分の気持ちを確認する。それから壁の時計を見上げる。時計の針はてっぺんを過ぎ、日付が変わっている。正秋はしばらく千夏を見ていたが、頭の後ろを掻き、さらに腕の辺りを掻き始める。

「悪い。あんな言い方して」

素直に謝る様子に安堵したものの、千夏はキッと睨みつける。

「あのときに謝ってほしかった」

「ごめん。悪かったよ」

正秋は本当にすまなそうに頭を垂れ、かしこまる。

「そりゃ、そうだよね。彼氏が他の女を家に上げて、しかも私のこと非難して。他の男が優しくしてきたから、それに乗っただけだよ」

「本当にごめん」

「私、まだ許してないから」

そこまで言うと、正秋は当惑したような、たまらない表情になった。

「でも千夏だって、前田さんと旅行したんだろ。なら──」

「なら、何よ」

「泊まったのか。その…ホテルとか」

正秋は苦しそうに言い、履いてるズボンを握りしめる。千夏はそれを見て頭に血が上った。


「泊まってません。日帰りです」

千夏はきっぱり言い、正秋が自販機で買ってきたらしい麦茶を取り上げ、ごくごくと飲む。

「左膝を骨折して。他にも打撲とか色々。入院したのが館山市内だから、そのお見舞いにときどき行ってた。今日は退院できたからって、ご馳走になってただけ。これで、どう」

「だから忙しそうだったわけか」

正秋はこれまで、千夏がそっけなかった理由を理解したようだ。千夏はイライラしながら首を縦に振る。

「これで気が済んだ?」

正秋は黙り込んでいる。まだ、千夏のことを信用できないような顔をしている。それが癇に障った。

「何、その顔」

「何って、何が」

「私の言うこと、信用できない?」

「信じたいって…思ってるよ」

その歯切れの悪さが、ますます千夏の感情を逆撫でする。


「私だって、あのホクロのこと、ちゃんと説明してもらってないのに。でも。それでも。正秋のこと、信じたいって思ってる」

半ばヤケクソで言いながら、千夏は目に涙を滲ませる。泣くもんか、泣くもんかと、思えば思うほど、涙はこんこんと泉のように湧いてくる。正秋は半ば呆れたように息を吐く。

「メッセージにも書いたよ。ホクロのこと」

「え?」

千夏にとっては寝耳に水だ。

「そうだよ。俺、ちゃんと言ったつもりだったけど」

正秋の困惑した顔を見て、空気の抜けた風船のように千夏の怒りもしぼんでいく。

「そっか。そうだったんだ…。ごめん。私ずっと怒ってたし、メッセージがすごい量だったから全部読んでない」

「じゃあ。もう一回説明するから、俺が今から言うこと、最後まで怒らないで聞いて」

「分かった」

千夏は深呼吸して、背筋を伸ばす。正秋はあぐらをかいたまま膝の上に片方の肘をつき、その手で顎を支える。


「あの日、大地さんが俺んちでシャワー浴びた後、二人で酒、飲んでた。前も言ったけど、雷が怖いって言うから。千夏が嫌がるの分かってたけど。彼女、いつも千夏のこと褒めてくるし、ずっと俺のこと好きって言ってくるし。なんか一生懸命で健気だし…。俺は悪い人だとは思ってない。だから、少しだけ、つき合うことにした。でも本当に泊める気はなかったし、手を出す気も百パー、なかった。それは分かって」

「うん」

悪い人だとは思っていない、というのには納得いかないが、千夏は頑張って自分を黙らせる。

「大地さんが途中、うとうとし出したから、そのまま少しだけソファで寝かせた。大地さんて寒がりだから、部屋のエアコンの温度、高めにしててさ。俺、汗かいて気持ち悪くて、シャワー浴びにいったんだ。シャワー止めて、鏡見たらヒゲ伸びてて。次の日、誕生日で千夏に会うから、ひげ剃った。そしたら、いきなりドアが開いて」

「え?」

「ごめんなさい、音聞こえないから安田さんはいないんだと思いました、お風呂場に忘れたヘアピン、取りに来ただけなんですって言われた。ヘアピンはそのとき見つからなくて、次の日、千夏が来た時に風呂場に探しに行った。もしヘアピンが見つかって、千夏に変な誤解されたらヤだから、掃除するからまだ風呂入んないでって、あのとき言ったんだ」

「そうなんだ」

嘘にしては、上出来(じょうでき)過ぎだ。正秋自身も目をそらさないし、堂々としている。だったらこれが真相なのだろうと、千夏はようやく納得する。


「でも、じゃあなんであの時、そう説明してくれなかったの」

「状況がややこしいから、とっさに答えられなかっただけだよ。尻のホクロのことなんてびっくりして、どう説明しようか頭の中で整理しているうちに、千夏はいなくなっちゃうし」

「そうだったんだ…。ごめん」

自分の早とちりに、千夏は反省する。

「信じてくれた?」

「うん」

千夏は頭を垂れる。それから立ち上がり、ベッドに座り込む。この後は自分の番だ。疲れた様子でこちらを見てくる正秋を前に、千夏は深呼吸した。

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