バスク料理
ホテルの一室で、千夏はスマートフォンの画面を見たまま、なんと言おうか思い悩んでいた。
正秋は海李が事故にあったことを知らない。そもそも千夏が教えてないから、知るはずがない。仕事でも直接付き合いがあるのは広報部の浜口くらいなので、海李と正秋が直接連絡を取り合うことはないのだ。
『うん。沙耶香の家だよ』
千夏はメッセージで嘘をついた。するとすぐに既読表示になった。
『そっか。ちょっと家の前、通りかかったから、いるかなと思って。ごめん、おやすみ』
家の前を通りかかったから、だと。どういう理由で通りかかるのだ。正秋と自分の家は直線距離で言えば遠くはないが、最寄駅は別々だ。会社帰りでも通りかかることはまず、ない。
それ以上考えるのが嫌になり、千夏はスマートフォンを閉じた。
数日後の金曜日のことだった。台風のせいで大雨だった。そのタイミングで海李が退院したと、千夏のスマートフォンにメッセージが届いた。渡したいものがあるからと言われ、千夏は就業後、迎えにきた後藤の車に乗り、激安スーパー「だいふく屋」と百円ショップに寄ってもらってから、待ち合わせ場所へ訪れた。
そこはひっそりとした高級住宅街の中に佇む、瀟洒なレストランだった。千夏は後藤がさす傘に入って歩き、玄関ドアを開けると従業員が出迎え、店内奥の個室へ案内した。松葉杖を傍らに置き、満面の笑みをたたえた海李が、テーブルの反対側に座っていた。
「ねえ、それ、なんなの」
海李は怪訝な顔をして、後藤が手に抱えている大きな包みを指さす。
「退院おめでとうございます」
「えー、ありがとう。開けていい?」
「どうぞ」
千夏が頷くと後藤がおもむろに開けるのを手伝う。包装紙を引き剥がすと中から出てきたのは大きな段ボール箱で、中には五百ミリリットルのゴカ・コーラが二十四本収まっている。
「なんだこりゃ」
「ハンバーガーと一緒に、好きなだけ飲んでください」
千夏がニヤリとすると、海李は激しく笑いだした。
「ありがとう。まさかコーラを一ケース、退院祝いにもらう日が来るとは。斬新だね」
「ちなみにラッピングは百均です」
「へえ、百円ショップでこういうのが買えるのか」
海李は興味深そうに包装紙を見る。
「本当は茶碗蒸しをラッピングしたかったんですけど」
「ハハハ。それはまた今度お願いするよ」
海李は笑って店員に合図を送り、シャンパンを持って来させる。シュワシュワと泡立つシャンパンをこまめに注ぐと、店員は静かに部屋を出ていく。
海李がメニューを見せてくるも、料理写真がついていないので千夏には何が何やらわからない。英語と、何語か分からないアルファベットと、小さな日本語で翻訳がされているものの、カタカナが多すぎるのだ。
「ごめん、千夏。残念ながら、千夏の好きな食材はここには一つもないかもしれないんだ」
海李は急にシリアスな顔になる。
「私の好きな食材、ですか?」
「言ってたろ、前に。好きなものはスーパーで安売りしてるやつ、って」
海李がまだシリアスな顔を継続していると、千夏は顔から湯気を噴き出す。
「あんなの適当に言っただけです」
「なら、僕が頼んじゃっていい?」
「是非お願いします」
海李が料理を注文してくれた後、千夏はシャンパンを飲みながら、海李の話に耳を傾けた。
「入院生活終わっちゃって、どうですか」
「入院生活は総じて退屈だったね。僕は退屈というのが嫌いなんだ。せっかく生まれてきた人生、一瞬一瞬を濃く生きたい。たとえそれが困難な状況だったとしても。すべて自分の血肉になる。だから仕事している方がいい。でもおかしな話なんだ。後藤は僕にパソコンを持たせたくせに、僕があれこれ仕事の指示を与えると、社長はもう少し休んでくださいとか、息抜きしてくださいとか言うんだよ。僕の息抜きは千夏だったから、それ以外は特にいらなくて──」
「後藤さん、海李さんの体も気遣って言ってくれたんだと思いますよ。それにしてもこんな素敵なお店、予約するなんて。退院したらジャンクフード食べたいって言ってたじゃないですか。だからコーラ買ってきたのに」
千夏は少し拗ねたように言い、光沢のあるテーブルクロスと銀食器を見つめる。
「うん、だからお昼はコンビニのブリトーだったよ。後藤に買いにいかせたら、ハムチーズのやつだった。なかなか美味しかった。ソーセージが入っているタイプが一番すきなんだけどね。ハンバーガーじゃないからコーラじゃなくて、コーヒーにしたけど。そうそう、コーラはビスケットにも合うよね。僕はクッキーよりもビスケット派なんだ。そこにコーラがあると絶妙な組み合わせで──」
「最近、誰とここに来たんですか」
「取引先だよ。かなり食わせ者で、接待するにもいちいちケチをつけるのが好きな人なんだ。だから絶対文句言わせたくなくてここを選んだ。そしたら彼はものすごく喜んでくれた。シェフまで呼びつけて褒めたりして。おかげで取引も成功した。だからお礼も兼ねて、今後もこの店はたくさん利用しなくちゃならないわけだ。ところで、乾杯も済ませたし、飲み物は何にする? ここのはワインがお勧めだけど、ウイスキーも美味しいんだよ。南信州のもので──」
気さくながらも余裕たっぷに喋り続ける海李に、千夏はますます距離を感じる。こういう余裕は正秋にはない。千夏の周りにいる四十代の男というのは鬱陶しいスケベオヤジが大半をしめるのに、海李には気品がある。おしゃべりだけど下ネタは出てこないし、よく色んなことを知っているから聞いてて飽きない。それでもきっと千夏がこの店のメニュー表が読みづらいと思っていることなんて理解できないだろうし、スーパーで鶏胸肉がグラムいくらで売っているかを気にしていることなんて知らないだろうし、ウニクロやディーユーやいまむらで掘り出し物があることにも興味すらないんだろう。
海李がほぼ一方的に喋っているうちに、料理が運ばれてきた。千夏はそれがなんなのか分からない。具がたくさん入った厚焼き卵に、何かのひき肉と赤いパプリカの煮込み料理、真っ黒なソースに浸かったイカ料理など、見たことのない料理が次々とテーブルへ並ぶ。
「富裕層じゃないからテーブルマナーとか分かりません」
「そんなの気にしなくていいよ。楽しく食べよう」
海李は愛しそうに笑い、千夏の分を小皿に取り分けた。
「こんなに沢山。食べるの時間かかりそうですね」
「かかっていいんだ。伝統的なバスク人は昼食に二時間以上かけるんだから」
海李がそう言った途端、千夏はたまらない気持ちになり、目を見開く。
「バスク?」
「うん」
「ここってバスク料理のお店ですか? スペイン料理じゃなく?」
「まあ、多少内容は被ってるところはあるだろうけど。バスクのお店だよ。スペイン北部、バスク地方はなかなか魅力的なエリアだよね。民族も文化も違うし、話す言葉も違うんだ。後藤に聞いたんだがなんと主語、動詞、目的語の順ではなく、日本と同じ主語、目的語、動詞の順番で──」
「知ってます!」
千夏が叫ぶと、海李はびっくりして舌を引っ込める。
「海李さん。シドニィ・シェルダンの『時間の砂』って、読んだことあります?」
「え? あー…、それは読んだことないけど、シドニィ・シェルダンは昔、はやってたね」
「あれはスペイン政府と戦った少数民族、バスク人の話なんです。小説の中だと、バスク人のテロリストと、クリスチャンのシスター達が三つのグループに分かれて、逃避行するんです。私はハイメ・ミロとメーガンのところが好きで。あ、でも、ルチアとルビオのところも好きです。イタリアマフィアの娘と農民っていう組み合わせの。グラシエラとリカルドのグループはちょっと最後切なすぎたな。あんなに素敵な二人だったのに」
千夏は過去に読んだ小説を思い出し、興奮気味に話し始める。海李には伝わらないようで、黙って頷くばかりだ。千夏はそれに構わず話し続ける。
「最後、どうやってもハイメを助けられないと思ったのに、メーガンが頑張って…。ああ、懐かしい。昔、いとこの家の本棚にあったのを借りて読んだんです。それがきっかけで、バスクに関する本も結構読みました。バスク人はすごく料理に対して情熱的で、キッチンは男子のサンクチュアリだから女子は立ち入り禁止なんですよね。美味しいもの、すごく時間をかけて食べるんですよね。魚介とかピーマンが沢山とれるからそういう料理が多いって。あと、ブドウが沢山採れるからワイン作りも盛んみたいで。バスク人の、サン・セバスチャンっていう街にすごく憧れてて。読みながら想像してるだけだったのに」
「あ、ああ、うん」
千夏がマシンガントークで返り討ちにされ、蜂の巣になった海李は目を丸くし、タジタジとなった。
「はあ。今、目の前にそれがあるなんて。感激です。こんなこと言ってたらワインが飲みたくなってきました。あれ、私、おしゃべり病がうつっちゃいましたね。私は悪くないです。海李さんのせいですよ」
そこへ、タラや貝類、エビがぎっしり入ったスープを運んできた。千夏は目一杯顔をくしゃくしゃにして笑い、スープの中のエビをすくいとる。海李はワンテンポ遅れて、穏やかに微笑んだ。




