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職権濫用

海李が呼んだハイヤーに乗って、千夏は千葉県館山市から自宅のある都内へ帰ってきた。深夜を回り、すでに日付が変わっていたが、正秋からは何通ものメッセージが舞い込み、着信履歴が残っていた。シャワーを浴びた千夏は髪を乾かしながら、メッセージの画面を開いた。

『言いすぎた、ごめん』

『大地さんとは、誓って何もしてないよ』

『お願いだから電話出て』


今更、何だ。誓って何もしてないのなら、あのホクロの件はどう弁解するつもりだ。それについては具体的に何も書かれてないし、信用ならない。嫌気がさして、こちらからももう問いただす気にもなれない。正秋のせいで、自分の気持ちがグラついている。そしてグラついている相手は自分を守るため、車に轢かれて怪我を負ったのだ。今は正秋と話したくない。関わりたくない。千夏は返信せず、スマートフォンを充電器につなぐ。照明を消し、眠りについた。


翌朝、スマートフォンがバイブする音で、千夏は目を覚ました。

今日は日曜日で、時刻は午前十時になるところである。海李からメッセージが届いており、千夏は画面を開く。そこには食事の画像が貼付されている。

『白ごはんがあまり美味しくない。焼き海苔もイマイチだ。でも小松菜のおひたしは美味しい。苦味がなく爽やかでシャキシャキしてる』

海李はよほど退屈しているのか、病院食の食レポをせずにいられないらしい。千夏は面白くなってテキストを打ち込む。

『ちゃんと残さず食べてくださいね』

『前向きに検討するよ』

『婉曲話法はダメです』

『千夏の作った茶碗蒸しがいい』

海李のメッセージに、千夏は急に気落ちする。正秋の誕生日に作った海老だし入り茶碗蒸しは成功だった。正秋は美味しいと言って食べてくれた。だけどその前日に楓が家に来ていたし、二人は──。


千夏は画面を見つめ、再び指を動かす。

『海李さんも一緒に教わったんだから、自分で作れますよね』

『寝たきりの怪我人にそれ言うの』

『退院したら作ってあげますよ』

『わーいわーい。すごく楽しみにしてる』

無邪気な反応に癒される。しばらくの間、千夏は海李とのやり取りに没頭した。


翌日、月曜日のことだった。千夏が仕事を終えてビルのエントランスを出ると、待ち受けていた正秋に声をかけられた。千夏は空気扱いして、目の前に止まった車に乗り込もうとした。正秋に腕を掴まれるも、千夏は顔も見ず、無言で勢いよく振り払った。間髪を入れず、後部座席に乗り込んだ。

「後藤さん、出してください」

運転席の後藤は頷き、静かに発車した。


首都高を抜け、アクアラインを爆走し、館山バイパスを南下すること二時間、頑張って千夏を送り届けにきた後藤を前に、千夏は海李に向かって怒り顔を向けた。

「ちょっと、後藤さんのこと、パシりすぎじゃないですか」

「千夏うう。待ってた待ってた。今日も可愛い。いいんだよ、どうせ秘書はパシられてなんぼだから」

海李はベッドに寝たまま、ニヤニヤして後藤の方を見上げる。

「ええ、どうせ秘書なんで大丈夫です。社長、明日の予定はメールした通りです。では」

忠実な後藤はおうむ返ししながら病室を出ていく。千夏が海李に解放されるまで、廊下で待機するのだろう。

「今日は何してたの」

海李はウキウキした様子で微笑み、千夏にそばのソファへ座るよう促す。その笑顔が憎たらしく、可愛くもある。

「何って、仕事ですよ。私は海李さんと違って会社員ですから。あちこちペコペコ頭下げて、今日中に提出お願いしますー、修正対応お願いしますーって。それからクライアントにお待たせしました、再校のPDFお送りしますー、って。そんな日常です」


「大変だなあ。ちゃんとお給料、もらってんの」

海李は朗らかに笑う。

「もらってます」

千夏は半ばヤケクソで言い、ペットボトルのお茶をラッパ飲みする。

「いくら?」

「教えません」

「これくらい?」

海李は指を五本とも立てる。月給五十万なわけないだろと、千夏はむっつりしてみせる。

「ハハハ。ねえ、うちの会社、来ない? もっといい待遇で迎えるよ」

「行きません」


笑う海李を見ていたはずなのに、次第にピントがぼやけてくる。千夏はなんとはなしに宙を見る。自分は何をやっているんだろう。恋人とちゃんと和解するべきなのに。さっき、無視してしまった。今頃どうしているだろう。だけど今、恋人ではない男の見舞いに来ている。海李はいいひとだ。楽しいはずなのに。


「ねえ、千夏」

海李は上体を千夏に寄せ、さぐるような目で千夏の顔を覗き込む。

「なんですか」

「抱っこしてあげようか」

「はい?」

千夏は海李のギプスを見る。骨折した人間が何を言う。

「ん? でも、ほら。今の千夏には必要かなって」

「必要じゃありません」

「そうかな。じゃあ一つ、質問してもいいかな」

「どうぞ」

「彼氏にはここに来てること、言ってあるの」


なぜそんなことを聞く。ここに来ている時点で関係が危ういって分かるだろ。千夏はイライラし続ける。口を開くだけで喚いてしまいそうだ。だけど、優しく思いやりのある海李を傷つけたくない。だからやはり、黙るしかない。

「何かあったんだよね。言いたくなかったら言わなくていいよ。でも僕の抱っこは受けてもらいたいなあ」

「怪我人が何言ってるんです」

「いいじゃない。怪我してるのは、千夏の方でしょ」

「え…?」

「心が怪我してる。僕がたっぷり愛を注いであげるよ。ほら」


海李の表情と声は、いつも以上に温かい。その輝く笑顔と広げた両腕を目の当たりにし、千夏は鼻がジーンとしてくる。正秋がいなかったら。きっと素直にこの胸に飛び込むんだろう。だけど今の正秋を自分はどう思ってる。どうなりたい。ああ、考えるのがもう、嫌だ。あの日から自分はずっと情緒不安だ。千夏は椅子から立ち上がる。

「怪我なんかしてません。私、そろそろ帰ります」

「今日は東京まで帰らなくていいじゃん」

「え?」

「近くにホテルをとってある。送迎してあげるから、そこから明日、出勤しなよ」

「はい?」

「だから明日の朝も顔、見せにきてよ」


聞くと、海李は千夏のために病院付近のシティホテルを予約したという。さらに着替えやスマートフォンの充電器、コスメに至るまですべて準備させ、食事も手配済みだというから、千夏は開いた口が塞がらない。

「でも、私、明日はカメラマンと打ち合わせがあるし──」

「別日にしてもらいなよ」

「ダメですよ。もう決まってるし」

「その人、なんていう人なんだ」

千夏がフリーランスカメラマン、桐谷の名刺を見せると、海李は数秒間それを見つめた後、スマートフォンを手に取り、電話を始める。千夏が耳をそばだてるも、海李は口元を手で覆い、千夏に聞かれないよう何事か命令している。電話相手は会社の部下のようだ。

海李が電話を切って数分後、千夏のスマートフォンがバイブした。

「はい、もしもし」

「天野さんお疲れ様です、桐谷です。のっぴきならない用事ができたって聞きまして。明日の打ち合わせ、ビデオ会議で結構ですので──」

桐谷が明るい声で千夏に喋り続ける。千夏は電話を受けながら海李を睨みつける。何がのっぴきならない用事だ。きっと海李が裏で手を回したんだと、海李のほくそ笑む顔を見て、千夏は了解した。


それからおよそ二週間、海李は入院した。その間、秘書の後藤が千夏のために自宅や病院、ホテルに送迎してくれた。海李が病院のVIPルームを使っている特権なのか、平日の夜間でも面会が許され、海李は千夏の訪問を喜んだ。


そのさなか、千夏は正秋とは和解した。再三のメッセージと電話に、千夏の方が根負けしたのだ。無視するのはやめたものの、なんやかんやと口実をつくって、正秋からの誘いはすべて断った。彼が必死なのは伝わってきた。だけど千夏は、自分で思う以上に傷ついていた。放っておいてほしかった。


その日は海李の面会後、病院近くのホテルにいた。

何度も泊まるうち、千夏はこの快適なホテルが気に入った。新しくて綺麗だし、自宅のボロアパートと違って窓の建て付けは悪くないし、壁は厚いらしく隣室の声もおならも聞こえてこなかった。タオルは柔らかくフワフワで、ベッドは大きくてフカフカだったし、ルームサービスも充実していた。まさに至れり尽くせりで、文句のつけようがなかった。


大きな浴槽で優雅なバスタイムを堪能した後、サイドボードの上でスマートフォンがバイブした。メッセージが一件、届いていた。

『千夏。留守なの? 今どこ』

送信者は正秋だった。

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