骨折
館山総合医療センターの待合室で、千夏は長いこと待機していた。
海李は千夏を道端に追いやったあと、自分が車に轢かれた。車のバンパーが海李の左膝あたりにぶつかって、本人は体を丸めて路面の上に倒れたから、頭は打たずに済んだらしかった。それでも海李の膝関節は明らかにおかしな方に曲がっていたし、顔は青ざめていた。車の運転手が飛び出してきて、パニックになっている様子を見て、千夏は逆に冷静になれた。警察と消防署に連絡を入れ、千夏の付き添いのもと、海李は救急車で搬送された。
海李のスマートフォンは亀裂が入って使えそうにないので、千夏は自分のスマートフォンから前田設計の代表番号にかけた。週末のためか繋がらないので、今度は社内メールを漁り、広報部長の浜口の連絡先を突き止めると、急いで電話をかけた。それも繋がらないのでメールを打った。少し待ってから返信があり、社員が急いで駆けつけるとのことだった。
事故発生からおよそ四時間が経過した。時計の針が午後九時を指した頃、薄暗い待合室に三十代後半くらいの男性が現れた。真面目そうな雰囲気に、千夏は自然と背筋が伸びた。
「天野千夏さんでいらっしゃいますか」
「はい」
「遅くなり申し訳ありません。前田の秘書を務めております、後藤と申します」
後藤は名刺を差し出し、頭を下げる。海李が以前自慢していた、スーパー秘書である。千夏も頭を下げ返したタイミングで、看護師が歩み寄ってきた。
「ご家族の方ですか」
「いえ、前田の部下です」
後藤が看護師に短く答え、頭を下げる。看護師は二人に海李の状況説明した後、病室へ案内し、自分は退室していった。
「おー、来たか」
「社長、ご無事で何よりです」
海李は後藤の訪問が嬉しいらしく、満面の笑みだ。後藤は海李のもとへ足早に近づく。首も肩も膝も、包帯まみれになってベッドに横たわる海李を見て、千夏は何も言えず、後藤の後ろで立ち尽くす。
「車がパーッて近づいてきてさ。僕は格好よく彼女を助けようと思ったんだ。予定では彼女を突き飛ばして自分も転がって、ガードレールとかにはぶつかっても轢かれない予定だったんだ。だけど僕は後藤みたいに護身術も習ったことないし、アクション俳優の技術もないだろ? うっかり轢かれちゃって、このザマさ」
「うっかりは勘弁してください。膝の骨折と打撲だけで済んで本当にラッキーですよ。内臓に損傷なし。ヒヤヒヤしました」
「死に損なったな。ワハハハ」
海李はまたしても笑う。痛み止めを処方されているのか、笑う余裕があるらしい。千夏はほとほと感心し、遠巻きに様子を傍観する。
「仕事の方は僕がどうにかしますから。ちゃんと治してください」
そう言って後藤はノートパソコンをテーブルに置き、充電アダプタをコンセントに差し込む。さらに、代替機らしいスマートフォンもそばに置く。
「でも、お前はそうやってパソコンは置いてくわけか」
海李は苦笑してパソコンを見る。
「ええ、意識不明の重体じゃないんですから、そこは諦めてください。この新しいスマホはすぐ使えます。あと、お母様には、こちらまでお越しいただくのは大変かと思いまして。連絡だけ入れてあります」
「それでいいよ」
その文脈から、海李には高齢であろう母がいることが伺える。本人は未婚だから、家族は母だけなのだろうか。父や兄弟姉妹はいないのか。千夏が黙って海李を見ていると、海李の方が微笑んでくる。その海李を見て、後藤が一歩さがる。
「明日、弁護士とまた来ます」
「来なくていいよ」
「ダメです。あの、迎えは駐車場に待機させてますから」
そう言って後藤はチラリと千夏の方を見る。
「ああ。そのまま待たせといて」
「承知しました。失礼します」
後藤は二人に頭を下げ、病室を出ていった。仕事のできる部下なのだろう、千夏のことをあけすけに聞いてきたりしない。それどころか、頼まれてもいないのに千夏のために送迎の車も呼んでくれていたらしい。それでも海李の恋人だと勘違いされていると思うと、誤解を解きたくてたまらなくなる。
「千夏。そこの椅子、座ってよ」
「はい」
「今、何時かな」
「午後九時半になるところです」
「そんな時間か。ごめん。疲れただろ。今日のところは帰ってくれ」
痛み止めが切れてきたのか、しんどそうな笑みを向けてくる。そのとき、千夏のバッグの中でスマートフォンがバイブした。手に取ると、正秋からのメッセージだ。千夏はそれを開くこともせず、再びバッグへ押し戻す。
「あー…」
「何?」
「海李さん。助けてくださって、ありがとうございます」
千夏は小さな声で言い、うつむく。頬に涙が伝っていく。バッグを引っ掻き回し、先ほど受け取った海李のハンカチを探すも、なかなか見つからない。その間、海李は何も言わないで千夏をじっと見つめてくる。ようやくハンカチを見つけ、涙を拭っていると、海李と目が合う。
「今。すっごく足、痛いんだ。でも」
「ナースコール、押します?」
「いや、それはいい。あのな。千夏を助けられて、足の痛み以上に、自分が誇らしい。だってそうだろ。男はこうあるべきだ。君が無事で、本当に、本当に良かった。ところで千夏はどこか打ったりしてない? ケガは?」
「はい、私は大丈夫です」
「ならよかった」
穏やかにそう言って、海李は幸せそうに笑う。それを見て、千夏はますます涙が込み上げてくる。
「ごめんなさい」
「なんで謝る」
海李の目は優しい。千夏にはそれが辛い。
「痛い思いさせて。骨折なんて。本当にごめんなさい」
「千夏が轢いたんじゃないだろ」
「でも」
「うん。じゃあさ」
「なんですか」
「退院したら、僕の願いを聞いてよ」
「…内容によります」
「ハハハ。言うと思った」
海李は笑い、だけど痛そうに顔を歪める。千夏は不安になって椅子を立ち上がる。
「やっぱり看護師さん、呼びましょうか」
「大丈夫。でも、そろそろ帰ってくれ。もう遅いし」
千夏は海李をじっと見る。その目には寂しさと心細さが映っている。千夏は椅子に再び座り、その目を覗き込む。
「いいんですか、私がさっさと帰っちゃっても」
千夏は海李から目を逸らし、窓の外を見る。館山の市街地の夜景が見え、闇夜のなかで輝く。海李は今、千夏の命の恩人だ。突き放されて悔しいので、わざと不貞腐れてみる。
「いや。できればお願いしたいことがある」
「なんですか」
「手。握っててもらえないかな」
海李は千夏から目を逸らさず、真顔になる。千夏も不貞腐れるのをやめ、恐る恐る、その大きな手を握りしめる。正秋の手以上に、温かく感じられた。




