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館山

海李と千夏を乗せた青いクーペは首都高に乗り、南下した。

こうなるとどこから見ても完全にデートだ。さらに、千夏は海李が握っているハンドルのエンブレムを見て、この車をどこで見たかを思い出す。

「この車、うちの杉崎のポートフォリオの中で…」

「ああ、うん。そうだよ。同じ」

エンブレムは何か動物をモチーフにしている。ヒョウ? チーター? 庶民の千夏には分からない。

「なんて車?」

「ジャガー。千夏んとこのデザイナーのポートフォリオにも載ってたやつ。女の子は興味ないかな。スピード出すよ」


ジャガーがなんたるかは一ミリも理解していないが、高級車だと言うのは千夏にも分かった。その後も海李がひっきりなしに話しかけてきて、それがいちいち面白かった。だけど、ときどき海李はロマンティックな方へと話の矛先を変えてきた。千夏はわざとかわし、そういう雰囲気にならないよう、おばさんくさい返しに徹した。そうやって陽気に振る舞っていたが、次第に元気がなくなった。どうしても前日の口論が忘れられず、何度もスマートフォンを手に取った。だけど自分から正秋に連絡するのは、プライドが許さなかった。


千夏の反応が悪くなったのを察してか、海李の方も口を閉じた。すっかり会話が途切れてしまい、千夏はスマートフォンを開き、メールをチェックした。先日会員登録したばかりのブランドバッグの定額サービスのサイトからで、今ならひと月五千円ほどで交換も自由、借り放題だという。さらに新規登録者限定の、初月無料クーポンもついている。千夏はサイトのリンクへアクセスし、先日、商店街で見たエルメスのバーキンを探す。あれがあれば、自分も少しは上等な女へ格上げできるだろう。


車はやがて湾岸線を経て、アクアラインに乗った。東京湾を渡って千葉県木更津市に入り、一般道に出て海沿いを走り、館山市に入った。それから一軒の食堂に入った。

「ここの刺身定食が最高なんだ」

「へえ」

千夏は流されるままに店に入る。店の外見は汚らしく、看板の文字は剥げ、出入り口らしいガラスの引き戸は薄汚れている。いかにも地元民しか寄り付かなそうな定食屋だ。海李と千夏は窓際に空いていた四人がけのテーブル席に座り、メニュー表を手にする。

「ほら、ここはね、刺身はもちろん美味しい。漁港がすぐ近くにあるし、鮮度は抜群だからね。でもそれだけでなく、ツマも美味しいんだ」

「ツマって、大根の?」

「そう。今だと、機械でカットしてるのが主流だろ。でもここは、包丁で手作りしてる。瑞々しくて美味しいんだ。僕はこのツマだけをずっと食べてろって言われたら食べてられるよ。きっと厨房でおばちゃんが一生懸命、作ってくれてるんだ」


そんなところに注目するとは。ツマなんて漫画で言うところ、モブキャラだ。千夏はなんだかおかしくなり、くすくす笑う。そんな千夏を見て、海李は満足そうに目を細める。

「笑うと、ほんとに可愛い」

海李が頬杖をついてじっと見つめてくるので、千夏は赤面した。

「ああ、よく言われます、聞き飽きました」

千夏は苦し紛れに言い返すも、なんだか負けた気がしてならない。

「言うねえ。あー、ちょっといいですか。今日の魚は何が入ってるの?」

海李は、そばを通り過ぎようとする、年配の女性店員に声をかける。

「マダイとスズキ、スルメイカ、それにタチウオですよ」

「いいね。じゃあ刺身定食でいい? 千夏」

「はい」

「刺身定食二つで」

「あいよ。刺身定食二人前ー!」

店員は厨房に向かい、年季の入った大声で注文内容を伝える。


「タチウオ美味しいんだよ。前にここきた時もちょうどあってね──」

「元カノとですか」

「僕の女性遍歴が気になる?」

海李はおどけて千夏の目を覗き込む。気になるわけじゃない。自分のような庶民を特別視してほしくないだけだ。

「ガールフレンドは山ほどいるって太田原さんが言ってましたよね」

「それを言ったら太田原さんもガールフレンドだ」

海李はガハハハと笑う。その笑いはずるい。そうやっていろんな女とデートしているんだろう。

「暗くなる前には帰してくださいね」

「え? 千夏、いくつだっけ。中学生? 小学生?」

「女性に年齢を聞くのって失礼ですよ」

千夏はむくれて言い返す。


「僕は犯罪に興味ないんだよ。だから未成年は誘わない。ちなみに好みは三十代前半の女性だ。一番いいときだよね。ハッハッハ」

「私が海李さんと同い年だったらどうなんです?」

「それはそれで嬉しいし大歓迎だよ。でも僕、幼稚だからって同世代に相手にされないんだ。ああ、失礼。とにかく千夏が未成年じゃないなら、帰り時間は気にしなくていいはずだ。暗くなる前に帰す気はない」

海李はそう言って車のキーを握りしめ、豪快に笑う。千夏はおしぼりで手を拭きながら目をそらす。

「夜から用事があるんで。明るいうちに帰ります」

「そう言うなって。寂しいな」

用事などない。だけどあることにしておきたい。正秋に腹は立っているが、別れたわけではない。千夏がスマートフォンの画面をチラチラみているところへ、先ほどの女性店員がパタパタと駆けつけてきた。


「ごめんねえ。タチウオだけ売り切れなんですよ」

「あー、そうなんだ。残念。ここのタチウオは太くて身が厚いのが出てくるから大好きなんだ。それがないなんて崖から突き落とされたような気分だよ」

海李の悲劇のヒロインのような嘆きぶりに、千夏はふと、海李がタチウオが好きだと言っていたのを思い出し、少し可哀想になる。すぐそばで聞いていた女性店員は目を丸くし、激しく笑い出す。

「そんなに楽しみにしていただいたのに、ごめんなさい。お客さん、どちらから?」

「東京です」

「スズキの刺身、多めに乗っけてあげるから」

店員はしょげた海李を優しく宥める。


「あの。追加注文でなめろうとさんが焼き、いただけますか」

千夏の提案に、海李は少し驚いたようだ。

「はいよ。アジでいい?」

そう聞かれて、千夏はしばし考える。千葉県の漁師料理、なめろうとさんが焼きはアジを使うことが多い。でも、元千葉県民として、千夏は少し趣向を変えてみたくなる。

「スルメイカでやってもらえませんか」

「大丈夫だよ。イカのなめろう、さんが焼きー!」

店員は再び厨房に向かい、威勢よく言い、他のテーブルへと移動した。


少し経って、テーブルの上に料理が並んだ。刺身定食はどの刺身も鮮度が良く、海李が言った通り大根のツマが瑞々しく、千夏は美味しくいただいた。それと特別にオーダーした、甘みの強いスルメイカのなめろう、香ばしい香りが漂うさんが焼きは、海李の心と胃袋をがっつり掴んだらしかった。

「美味かった」

「タチウオのお刺身の代打になれました?」

「それ以上だよ。僕は食レポは苦手なんだ。美味しい以外になんとも言いようがない。それに千夏の心配りが思いがけず嬉しい。感動してしまった。どうもありがとう」

海李は本当に感動したようだった。


食後は海岸沿いをドライブし、あちこちで休憩した。千夏にとっては地元なので特に目新しさは感じられなかったが、海李は楽しそうにはしゃいでいた。美しい砂浜を見つけ、海李は路肩に車をとめると、千夏と一緒に車を降りた。二人は青空を見上げたり、水平線を見たり、浜辺の貝を拾ったりしながら、海岸を歩いた。


「あー、楽しい。今日は千夏に会ってからずっと、ずっと、ずうーっと楽しい。海は綺麗だし飯は美味いし。千夏がいて、もう最高。僕に絵の才能があったら、千夏の顔を油絵で描くのに」

「楽しんでもらえて、よかったです」

「自分は楽しんでないの?」

「楽しんでます、ありがとうございます」

いつまで経っても敬語を崩さないのが気に食わないのか、楓は眉間に皺を寄せる。

「よそよそしいね、千夏は」

「すみません」

海李は千夏をじっと見ながら、小さく首を傾げる。

「今日。デートしてくれてありがとう」

「いいえ。別に」


泣くつもりはなかった。なのに千夏の両目から涙が噴き出す。ぼたぼたと落ちてきて、とても止められそうにない。海李はそれを黙って見ていたが、ポケットからハンカチを取り出し、それで千夏の頬をぬぐう。ハンカチから海李の匂いがして、千夏は少し安堵する。

「ちょっと、昨日、嫌なことあって。悲しくて。辛くて」

しゃくりあげながら、それだけ言うのがやっとだ。

「そうか。それ、話したい? 話したくない?」

「それは、ちょっと」

「了解」

海李はそれ以上聞かず、穏やかに微笑む。おかしい。いつも一分の隙間もできないように喋り倒してくるのに。千夏は海李の新しい長所を発見する。聞かずにいてくれたことが嬉しくて、感極まった千夏はまた涙を流し続ける。


「あ、テトラポッドがある。あそこ登ってみようよ」

「えー、いいですよ」

千夏は涙を拭き、登りたくなくて首を横に振る。

「ほら」

千夏が何か言う前に、海李は軽々と千夏をお姫様抱っこしてしまう。千夏が驚いて暴れようとするも、がっしり抱き抱えられてしまいどうにもならない。

「ちょっと、おろしてください」

「嫌だね」

海李はそう言って長い足でテトラポッドの上を登り、海面を見下ろす。

「ほら、魚がいるよ」

「いいです、そんなのどこにでもいますから。降りたい」

「カニもいる。生き物がたっぷりだ」

「怖い、降ろして」

「怖いならもっとしっかり、僕にしがみついて」

言われるがまま、千夏は海李の首の後ろに回した手を一層、強く握りしめる。こんな不安定なところから落っこちたくない。

「あー、嬉しい。好きな女にしがみつかれるって最高だな。ハッハー」

「いつまでこうやってるんですか」

「もう少しだけ」

海李はまた口数が減ったが、しばらく降ろしてくれなかった。


日が傾き、二人は海岸から階段を上り、停車した場所に戻ろうとした。

「楽しかったね」

海李がそう言ったとき、千夏は足に違和感を覚える。靴擦れを起こしたらしく、皮のむけたかかとをそっと撫でる。

そのときだった。

「危ない」


海李が叫び、千夏の背中を突き飛ばした。直後、コーナーを曲がってきた乗用車が、海李に激突した。

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