裏切り
十月に入り、戸外が少し涼しくなってきた頃だった。特に変わったこともなく、千夏はいつも通り出社した。だけどそれが、嵐の始まりだった。
昼休憩のときだった。千夏は少し午前中の業務が立て込んでいて、いつもより少し遅れて昼休憩に入った。給湯室で温かいお茶を淹れ、弁当箱を電子レンジに入れたとき、隣の休憩室の様子を何気なく見た。そこでは楓と正秋が、そう遠くないテーブル席で向かい合って座っていた。
「安田さん、こちらを」
「どうしたんですか、それ」
千夏がぼんやり見ていると、正秋はその箱を楓から受け取る。
「ちょっと遅れましたけど。お誕生日おめでとうございます」
「え?」
「ごめんなさい。こないだお邪魔したとき、割ってしまったので。そのお詫びも込めて」
正秋は箱を開ける。中から出てきたのは、ライトブルーとブラウンのラインが入ったシンプルなグラスだ。
千夏はその場で足に根が生えたようにフリーズした。それには見覚えがある。さらに、それにまつわるエピソードも。
すべてを理解した。正秋の誕生日の前日、マンションに入れてもらえなかったことも。当日、エアコンの温度設定が高いままだったことも。正秋が浴室を使わせなかったことも。そして、マグカップが一つしかなかったこともだ。
千夏が過呼吸気味に肩を上下させているのに、正秋や楓をはじめ、休憩室にいる社員は誰もそれに気づかない。千夏は言いようのない激情が渦巻くのを感じる。それをどうやって制御すればいいのか分からない。
「これ、耐熱グラスなんです。取手もついてるし、マグカップがわりにもなります」
「あー、ありがとう」
正秋がこちらを向いたが、千夏はどうしたらいいか分からず、黙って見つめ返す。自分の全身が痙攣しているのが分かるが、どうにかそれを悟られないよう、視線を横へずらす。今度は楓と視線がぶつかる。そして、楓はごくごくゆっくり、微笑した。それはとても冷たく鋭く、残酷な笑いだ。空気を切り裂くように、電子レンジがピーッと鳴る。
千夏は急いで弁当箱を取り出し、制作部の部屋へと駆け戻った。
午後はまるで仕事が手につかなかった。だけどサボるわけにもいかず、千夏は頭が真っ白なまま、仕事をするふりをした。そばに楓が座っているのに気づいていたが、視界からシャットアウトした。早く定時になれと、百回は願った。
定時になり、千夏は風のように退社した。楓に煮湯を飲まされ、何をどうしたらいいのか分からず、平静でいられなかった。はらわたが煮えくり返っていて、どこにぶつければいいのか分からなかった。駅に着く手前で、正秋から電話がかかってきた。千夏は着信拒否して、沙耶香に電話をかけた。電話は繋がらず、今度は美穂にかけた。こちらは通話中だった。最後に春菜にかけようと思ったが、ためらったのちにやめた。
改札を通る直前で、誰かに腕を掴まれた。
「千夏」
正秋は走ってきたのか息を切らし、体を二つ折りにしている。千夏は腕を振り払い、その様子を見る。今更何を弁解するつもりだ。
「何」
自分で思った以上に、千夏はきつい声になってしまう。
「ねえ、誤解してるよね」
「何の話」
「大地さんのこと」
正秋は千夏の顔を真っ直ぐ見、自分に言い聞かせるように頷く。
「正秋の家で、話そうよ」
二人は黙って改札を通り、電車に乗った。
正秋のマンションにつき、二人はテーブルを挟んで向かい合った。
「誕生日の前日なんでしょ。なんで家に入れたの」
尋ねながら、千夏は気分が悪くなってくる。何か吐きそうだし、頭がズキズキする。
「引っ越した家の、給湯器が壊れちゃったみたいで。お湯が出ないって、連絡が来たんだ」
「そんなの無視すればよくない? お風呂入りたいならスーパー銭湯でもなんでも、行けばいいじゃん」
「うん、その通りなんだけど…」
「なんだけど、何よ」
正秋は黙りこくり、千夏はそれを厳しい目で見つめる。
「あの日、雷が凄かっただろ」
言われて、千夏は正秋の誕生日前日を思い出す。確かにあの日、雷鳴が轟いていた。だからって、それがどうしたと言うのだ。
「さあ。覚えてない」
千夏は嘘をつく。
「大地さん、雷が苦手なんだよ」
「は?」
「一人でいたくないって言われて。それで…」
なんだと。一人でいたくない気持ちになると、人の家に上がり込むことが許されるのか。たとえそれが彼女持ちだとしても。正秋もどうかしている。千夏に変な誤解を与えたくない、用があるときは他の人間に頼めって以前、楓に言ってたじゃないか。
「一人でいたくないなんて理由になるの?」
「ねえ、千夏。ちょっと矛、納めようか」
「はい?」
「そこまで大地さんのこと、目の敵にする必要、なくないか」
必要ありまくりだろ。千夏の中で怒りの炎がメラメラと大きくなっていく。あの女は嘘つきだ。あんなに親しそうに接してきて、最近は一緒にお昼を食べるまでになったのに。堂々と千夏に嘘をつき、騙したことを嗤っている。
「目の敵になんてしてないし」
「俺ははっきりあの人に付き合えないって言ってあるし。だから千夏がそんなに構うことないじゃん」
「意味、わかんない。全然構ってないし」
「そうか? 仕事にも私情を挟んでるだろ」
「何、それ」
ますます意味がわからない。自分がいつ私情を挟んだというのだ。千夏は頭を掻きむしりたい衝動に駆られるも、必死で堪える。
「ねえ。大真面目に言うけど。私情なんか挟んでない」
「でも大地さん、言ってた。こないだデザイナーに仕事頼んだだけなのに、天野さんが割り込んできて、もっと業務量減らせって言ってきたって」
「はあ? だってあの人が無茶振りしてるから。無理させられないよ。って何でそれが私情挟んでることになっちゃうの」
「天野さんはすごく良く気がつく人だからしょうがないんでしょうけど、指示が細かいからどうしたらいいか分からないって言ってた。あんま口出しすんのはやめろよ」
「口出しするしかなかったの。細かい指示なんて出してない。あの人が無理難題押し付けてるから、業務量減らせって言っただけ」
千夏は無性にイライラする。何よりも楓の言うことを素直に聞き、楓の肩を持ち、千夏本人の言うことを正秋が信じてくれないことに対してだ。
「大地さんも、自分が至らないところはあるって、非は認めてたよ。私も尊敬している天野さんみたいに上手く管理できるようになりたいから、頑張りたいって。そういう姿勢は理解してあげるべきだろ」
ああ、なんていやらしい言い方だろう。そうやって健気な女をアピールしたいのだ。あの女は絶対に私を尊敬などしていない。自分の非だって認めちゃいない。正秋の前だから、そう言ってるだけだ。
「でも、デザイナーに少しくらい無理させんのは当たり前だろ。ダラダラやらせてたら赤が出る。デザイナーのケツ叩きはしていかないと」
「あんた、マジで言ってんの」
ああ、こういう営業らしい発言は本当にムカつく。いつ、どこであのデザイナー達がダラダラやっていたというのだ。まるで制作の現場が見えていない。見えてないから平気で怠け者扱いする。
「何が」
「営業マンのそういうところ、嫌い」
「しょうがねーだろ。俺、営業だし」
開き直る正秋が、ますます憎たらしい。事情をわかろうとしない人間の典型だ。
「ダラダラなんかしていない。三人ともすごく頑張ってるし、いっぱいいっぱいなの。でも、それを説明するのが上手じゃないだけ。だから私が間に入ったの。それぞれどれだけの業務量があって、それを時間内に片付けていってるか、新しいデザインの閃きに時間がいかに必要か──」
「ねえ、千夏。そういうところだよ」
「何がよ」
千夏は吠えるように言い返す。
「彼女、すごく悩んでたし、泣いてたよ。大地さんだって、憧れの天野さんみたいにテキパキ動けるようになりたいって言ってたよ。だけど千夏ほど、大地さんは器用じゃない。強くもない。進行担当以上にディレクターの業務範囲は広いし、細かなところまで追いきれない。そんなガーって言われたら彼女、参っちゃうよ」
千夏の中で何かがプツンと切れた。ああ。そうなんだ。泣き落としに負けたんだ。楓はとことん性悪だ。一見、私を立てているようで、実際には強く非難している。そして正秋はそれに気づかない。もう味方じゃない。私の話なんて、聞く耳持たずなんだ。ついさっきまで涙が出そうだった。なのに引っ込んでしまった。
「へえ…。それが、正秋が大地さんを家にあげる理由になっちゃうんだ」
「それは違うけど、でも──」
「一つ、確認させてよ」
「──?」
「ちょっと、立って」
正秋は不服そうだがその場に立った。
「ズボン、下ろして」




