グラデーション
会社を出て、千夏は真っ直ぐオシアスへ向かった。
「ちなっちゃん、ヒップのラインが綺麗になったじゃん」
マットの上で柔軟体操する千夏に向かい、美穂は感心したように笑いかけてくる。
「本当ですか?」
千夏は思わず顔を綻ばせる。この一ヶ月、脚やお尻を鍛えるマシン「レッグプレス」を主軸に尻強化月間として鍛えた甲斐があったというものだ。先ほど冬馬にゲスく褒められたのと違い、美穂に褒められると素直に嬉しい。
「うん。背中からウエスト、ヒップのライン、すんごく女っぷりが上がったよ。階段の上り下り、楽になったんじゃない?」
そう言われてみればそうだ。尻や脚全体の見た目が引き締まっただけでなく、駅やアパートの階段が楽になった。重いものを持ち上げるのも楽になったような気がする。
千夏は何の気なしに美穂の全身を見つめる。四十キロ弱のその体を、今なら軽々持ち上げられてしまうのではないか。マットから起き上がり、美穂の前に背を向けてしゃがみ込む。
「ねえ、美穂さん。ちょっとおんぶさせてくださいよ」
「えー? 何、恥ずかしい」
美穂は声を立てて笑う。
「いいからいいから。お願いします」
「やだー。笑っちゃう」
優しい美穂はそう言いながら、千夏の背中に覆い被さる。千夏は美穂の尻を支えながら膝をゆっくり伸ばしていく。完全に立ち上がり、難なくおんぶすることができた。
「楽勝」
千夏がぼやくと、美穂はゲラゲラ笑い出す。
「ちなっちゃんの娘になった気分」
「ねえ、本当に軽いんだけど。美穂さん痩せました?」
なんだ。レッグプレスよりよっぽど楽勝ではないか。千夏は急に愉快な気持ちになり、室内を闊歩する。
「変わってないよ。ちなっちゃんがパワーアップしただけ」
大笑いする美穂をおんぶしたまま、千夏はトレーニングルームをゆっくり一周した。
オシアスでのトレーニングを軽く済ませ、千夏は美穂と一緒に沖縄料理屋「ニライカナイ」へ向かった。先に入って待っていたらしい沙耶香が、窓際のテーブル席から手を振り、二人に呼びかけた。春菜は休暇で不在だったので、今回は三人で飲み会となった。
「二人とも元気ー。あ、美穂さん今日、ツインテールだねー。可愛い」
「沙耶香ちゃん、ありがとー」
沙耶香の言うとおりだ。美穂は低い位置でツインテールにしているが、還暦でそれが似合うんだからすごい。千夏が感心していると、沙耶香がタブレットを手渡してくる。
「飲み物、注文しちゃって。ねー、聞いてよ。やっと別れたんだよ」
その後は沙耶香の独壇場だった。不倫相手をさせられていた例の男と妻と修羅場になり、どうにか別れたらしかった。
「沙耶香ちゃん、若いんだからそんなおじさんかまってちゃダメよ」
「若くないですー」
「私よりは間違いなく若い」
「でも私、美穂さんみたく可愛くないしー。歳下には相手にされないしー。ちゃんと自重してますからー」
美穂の年下彼氏を持ち出し、沙耶香はうなだれる。
「千夏はマサーキ君と順調?」
「ああ、うん…」
「歯切れ悪ーい。なんかあった?」
「実はさ…」
千夏は楓と海李のことを打ち明ける。美穂も沙耶香も驚愕して、目と鼻の穴を大きく開く。
「あったま来ちゃって。古株、って何。あんたにとって私は古くないっての。しかも正秋があんな女の味方してんの、マジムカつく」
千夏がガンと音を立ててグラスを置くと、美穂は肩肘をテーブルについてふむふむと頷く。
「その大地さん、曲者だねー。でもほっといたらいいよ。そんなことよりちなっちゃん、海李さんのそれ、本当?」
「はい」
千夏は、美穂に向かって頷く。
「ヤバくない?」
「ヤバいよ」
今度は、沙耶香の方に向かって頷く。
「前田設計って、聞いたことあるよ。結構、有名な会社だよね」
美穂が尋ねると、千夏は気まずそうに頷く。
「そこの社長から? マサーキ君、暗殺されるんじゃない」
沙耶香はさもドラマチックに、狂ったように引き笑いする。
「いや、なんで私なんかに構うのか分かんないんだけど。まあ本命は他にいるだろうけど」
「でも、好きって言われたんでしょ」
今度は美穂が素早く突っ込み、ハイボールをごくりと飲む。
「はあ、よく分かんないけど、そうなんです」
「それ、係長は知ってるの」
「告白されたことは正秋には伝えてません。でも勘づいてると思います。最近、正秋は前より嫉妬するエネルギーっていうか、そういうのがだんだんパワーアップしてきてるように思います」
千夏が困りながら言い、ため息をついた。正直なところ、告白さえしてこなければ海李とはいい友達になれそうだと思ったのだ。あのマシンガントークはわずらわしいときもあるけど、楽しいときもある。
「私もよく分かんないけど、蹴落とすなんて穏やかじゃないよねえ。ドラマのヒロインみたいに言ってみれば。マサーキに何かしたら私がただじゃおかないんだから! め! って」
沙耶香は胸元で両手の指を交互に組み、気色悪いぶりっ子声で言い放つ。
「私、海李さんに一回会ったし。物騒なことしそうなら私から直接、言ってあげてもいいよ」
そう言う美穂は冷静だ。だが、その言い方にはゾッとするものがある。こんなに体の小さい、華奢で儚げな人なのに、形容しがたい凄みがある。
「ねえ。でもちょっとさ、尊敬するよ、千夏のこと」
沙耶香は急にしんみりした口調になる。店員が沙耶香の好きなニンニクの豚肉巻きを運んできた。千夏はそれを受け取り、沙耶香の前に差し出す。
「ありがと。尊敬される覚えはないけど」
「千夏はダイエット頑張って、綺麗になってさ。ピュアピュアで誠実そうな彼氏できてさ。大企業の社長にまで告白されてさ。ねえ、気づいてる? 私、これでも三キロ、痩せたんだよ。千夏を見習って。でも、誰も何も言ってくれない。誰も私を愛してくれない。千夏とはレベチだよ。底辺オブ底辺」
そう言って沙耶香はシクシク泣き出した。千夏はギョッとするものの、黙ってハンカチを手渡すと、沙耶香はそれを上目遣いに見、受け取る。
「目標は何キロなの」
気づけなくてごめんと頭のなかで千夏はつぶやく。だけど三キロくらいだと他人は気づかない。もっと頑張れと、さらに頭のなかでつぶやく。
「あと七キロ。つーか、ありえない。前なんか、あんた、ハンカチすら持ち歩いてなかったじゃん。トイレ行ったらエアタオルがあるから必要ない、洗濯物増えないからいいとか言ってたじゃん。なのに、何それ。女子力、上がっちゃって」
沙耶香は恨みがましそうに千夏を見上げ、さらに声量を上げて泣き出す。美穂は千夏の隣席から立ち上がり、向かいの沙耶香の席へ移動する。沙耶香の方を抱きしめ、頭を撫で始めた。
「美穂さあん。千夏にどんどん置いてかれるう」
「よしよし。沙耶香ちゃん。頑張っててえらいね。飲も飲も」
「私も千夏みたいになるう」
「そかそか。なろうなろう」
美穂は沙耶香をあやしながら、黒糖焼酎のおかわりを追加注文する。千夏はなんと言ったら良いか分からず、苦笑する。そこへ、「ニライカナイ」の店長がお盆にたくさんのカクテルを乗せてやってきた。
「いつもご利用ありがとうございます。こちら、店からのサービスです」
店長はそう言ってカクテルを三つ、テーブルに置く。細長いグラスの上部は濃厚な山吹色、下部は透け感のある青緑色で、そのコントラストがいい。
「わあ、ありがとうございます。綺麗。なんですかこれ」
千夏が尋ねると、店長は嬉しそうに微笑む。
「沖縄特産、タンカンのジュースと、ブルーキュラソーのカクテルです。では」
店長はお辞儀すると、別のテーブルへ向かう。千夏達はそのカクテルをまじまじと見つめる。沙耶香はそれをスマートフォンで撮影してから、一つとって飲む。
「私ね。思うんだけど、海李さんが意地悪だったのに、ちなっちゃんのことを好きになっちゃたのとか。係長が前より嫉妬深くなったのとか。沙耶香ちゃんがつられてダイエット始めちゃうのとか。その大地さんって人がライバル心燃やしてくるのかとか。全部全部、分かる気がするんだ」
美穂はカクテルを見つめ、女っぷりのいい顔で微笑む。
「そうなんですか」
千夏は要領を得ず、首を傾げる。
「うん。ちなっちゃんて、すごくパワーがある。いろんな魅力があるし、いろんな表情する。いろんな気持ちぶつけてくるし、いろんなこと挑戦して、相手の心をすごく揺さぶってくる。だから、そばにいる人がだんだん変わってくるんだと思う。このカクテルみたいに、だんだんと」
美穂が一層優しく微笑み、カクテルを指さす。千夏もそれを見つめる。山吹色と青緑色の境界線が徐々にぼやけ、美しいグラデーションができていた。
その後しばらく飲んでから、千夏は二人と別れ、家路についた。商店街を抜け、大通りの歩道を歩き、歩道橋の階段を上る。そこで、バッグの中のスマートフォンがバイブした。
『デートの誘いだよ』
海李からのメッセージだった。




