目の前にいる人に告白してもいいですか
九月に入り、ヒロイン・デザインを含むビル内のすべてのテナントを対象に、避難訓練が行われた。
「孝子先生」
消防士が訓練の説明をしはじめたタイミングで、千夏が孝子の背中を軽く叩く。
「避難訓練。こういうの、いざというとき忘れちゃうのよね」
「わかります、わかります」
「非常階段、私、降りられるかしら。ほら、この通り、デブでしょ私」
孝子は豪快に笑いながら腹の肉をポンポン叩く。千夏はグッと両手で握り拳をつくり、勇ましい表情に切り替える。
「大丈夫ですよ。いざとなったら私が先生のこと、おんぶして降りますから」
千夏が威勢よく言うと、孝子は嬉しそうに笑った。
その日は比較的仕事がスムーズに進み、千夏は定時で上がった。少し早めに料理教室へ行くと、孝子がレッスンの準備をしているところだった。千夏はおしゃべりしながらそれを手伝った。
「今日、この日を楽しみにしてました。茶碗蒸しのご指導、よろしくお願いします」
「こちらこそ。ちょっと難しいから、頑張ってついてきてね」
「はい」
二人が喋っているところへ、海李や太田原、細江も部屋へ入ってくる。
「こんばんはー。今日は茶碗蒸しですよね」
「こんばんは皆さん。今日も楽しみましょう」
互いに挨拶しあい、海李は他の皆と世間話をしながら、チラリと千夏の方を見る。千夏は無表情でそれを見返し、孝子の方へと早足で近づく。
「先生、そういうの私がやります」
孝子が水を張ったらしい大きな蒸し器を持ち上げるのを見て、千夏が手を貸す。
「ああ。天野さん、私、手足が短いから助かるわ」
茶碗蒸しづくりはなかなか奥が深かった。孝子はいつも、「本気モード」と「手抜きモード」を使い分け、それぞれの作り方を教えてくれたが、今回に限っては「手抜きモード」がなかった。どうやら手を抜くと失敗してしまう料理らしいと、千夏なりに理解した。
孝子の話によると唯一、手抜きしていいポイントは出汁の部分だった。鰹と昆布で丁寧に出汁を取るのが美味しいのは素人でも想像できる話だが、それをすると調理時間が長引いてしまうので、市販の顆粒出汁も代用可能だと説明された。千夏は一つ一つの手順を目に焼き付けながら、段階を追って調理に勤しんだ。
授業が終わり、生徒達が片付けしているところ、孝子が切り出した。
「今度ね、うちの料理教室にやまなかきんに君が遊びにくることになったの」
「え! あのテレビに出てる人?」
太田原が素っ頓狂な声をあげる。
「ええ。あの筋肉ムキムキの人。うちの主人と昔から知り合いでね。いつも筋トレを頑張ってる、トレーニーのための食事をここで作って、動画配信したいって言うのよ」
「先生は芸能人ともお知り合いで、すごいですね」
今度は細江がヨイショする。
「別に大したことないのよ。それで、十月の最後の日曜日なんだけど、よかったらみんなも遊びに来てよ」
「いきますよー!」
即答したのは太田原で、細江も隣でしきりに頷く。
「当日は何作るんですか」
海李が興味深そうに尋ねる。
「まだ決めてないのよ。鶏肉を使ったのがいいって、きんに君は言ってるんだけど」
「僕からリクエストしてもいいですか。大分県名物、鶏天とかどうです? 僕の家、ルーツが大分なんですけど、美味しいんですよ。今ならカボスも手に入りますし、お勧めします」
海李の提案に、孝子はふむふむと頷く。
「なるほどねえ。鶏天は私も好きよ。いいかもしれない。じゃあ海李さんも当日、絶対来てよ」
海李は顎に指をあて、考える仕草をする。きっと脳内で素早くスケジュールを確認しているのだろうと、千夏は想像する。
「了解しました」
海李が快く返事するのを見て、千夏は片付けに戻った。
先に片付けが終わった太田原と細江は、連れだって帰っていった。千夏も少し遅れて帰ろうとしたところ、ビルを出たところで海李に会った。海李は自転車を押しながら、千夏についてきた。
「お疲れ」
「お疲れ様です。あの、こないだのことですけど」
千夏は気まずいながらも話を持ちかける。海李は熟年男性らしい余裕たっぷりの笑みを向けてくる。
「ああ。ハンバーガーデートのこと?」
「デートじゃありません」
「そうかなあ。僕はとっても楽しいデートだと思ってたけど。というか絶対に楽しくなってしまうんだ。相手が千夏だろ。つまらなくなりようがない。ワッハッハ」
海李はわざとらしく腰に両手をあて、夜空を見上げて盛大に笑う。
「先日はご馳走様でした。すごく美味しかったです。あと、ボディトリートメントも気持ちよかったし、送迎もありがとうございました。でも」千夏は言葉を切る。「困ります。誤解されたくないんで」
「誤解って、どういう誤解?」
分かってるくせに。それを私の口から言わせて喜びたいんだな、このオヤジは。千夏は忌々しく思いながら深く息を吐く。
「お付き合いしている人に、男遊びしてるって誤解されたくないんです」
「えええ。まさか、あれごときで? 僕は遊ばれたのか」
まるで被害者ぶった言い方をしてふざける海李を、千夏は白けた目で見る。
「車で送られたの、彼氏に見られちゃったので」
「見られると何が困るの?」
海李は悪びれた様子もなく、相変わらず堂々として千夏を見つめ、微かに笑ってくる。こういう余裕しゃくしゃくなところが、なんとなく正秋の姿と重なった。だが二人には明確な違いがある。社会的地位が高いか低いか、背が高いか低いか、俳優顔か犬顔かという点だ。
「もういいです。お先です」
「待って」
急に腕を掴まれ、千夏はビクッとして立ちすくむ。
「僕はそんなに怒らせるようなこと、したかな」
海李の問いかけに、千夏は黙り込む。この雰囲気はやばい。早く逃げ出したい。
「分かってると思うけど、正直に言うよ。僕は目の前にいる好きな人に告白したいんだ。だから、デートに誘ってもいいのかな」
それはすでに告白じゃないか。千夏は脳内が沸騰しそうになり、唇を噛んだ。それから地面に目線を落とす。少し沈黙してから、千夏は顔を上げた。背の高い海李の顔からは、笑みが消えている。
「料理教室で初めて会った日。パーティーでうちの社員と飲み比べやって勝った人だって分かって、嬉しかったよ。また会いたいなって思ってたから」
「そうですか」
「うん。色っぽくて綺麗な子だなと思った。気が強そうで、会社のお局様みたいで。なのに笑わせてもくれる。魅力的な子だなって」
「お局なんで魅力はありません」
千夏は顔をしかめる。
「広報部がヒロイン・デザインと打ち合わせをするっていうから、僕はそこに顔を出してみた。千夏はいないかもしれないけど、千夏と一緒に働いている人間がどんなのか興味もあったから。そしたら君はいた。嬉しくて興奮したよ」
海李は優しい目で千夏を見つめる。千夏にはそれが居心地悪い。
「だからってデートはだめです」
千夏は噛みつくように言って手をかざし、海李がそれ以上近づいてくるのを制する。
「なぜ?」
「決まってます。彼氏がいますから」
「でも、僕の方がいい男なんだろ」
なんだと。図々しいにも程がある。何を言っているんだこの男は。千夏が呆れて口をパクパクさせていると、海李がそれを見て大笑いする。
「鯉みたいだね、千夏は。だけど僕にはわかるよ。千夏も僕のことが嫌いじゃない。おじさんだけど悪くないって思ってるだろ。その顔を見てればわかるよ」
そんな言われ方をして腹立たしいのに、腹立たしくない。懐に入ってくるのが上手な海李に、千夏は動揺を隠せない。
「ちょっと、本当になんなんですか」
「あー、照れてるのかな。ハハハ。それにさあ」
「はい」
「前にも言ったけど僕、記憶力はいいんだ。この前言ってくれたじゃない。『彼氏は営業マンで、海李さんと違って背も高くないし、全然イケメンじゃないし、イケボでもない』って。それって僕は背が高くてイケメンでイケボってことになるよね」
「え? あー…、うー」
「彼氏は打ち合わせのときに来てた営業か? なんて言ったっけ。あの無害そうな彼。えーと」
「違います」
あまりにも勢いよく否定して、逆に肯定になってしまった。千夏はもう弁解できず、赤面して黙りこくる。
「あの彼か。ふーん、後で名刺、確認しとくよ」
「しなくていいです」
「でも僕のライバルだからな。蹴落とすのみ」
海李の冷たい笑顔を見て、急に怖くなった。蹴落とす? 大企業の社長が? 中小企業の一営業マンを? 千夏がわなわな震えていると、海李は再び笑顔に切り替える。
「イケメンだとかイケボだとか。僕は千夏にあそこまで褒められて、告白されたと思っちゃったんだけどなあ」
「違います」
「でも嫌いじゃないよね」
「さあ」
「ならチャンスはあるね」
「ないです」
「よかった。じゃあ決まり。また連絡するね。千夏、おやすみ。気をつけて帰って」
海李は千夏の言葉を無視し、素早く千夏の頭をポンポンと軽く叩く。いつの間にかもう駅の改札前で、それとなく送られていたらしい。千夏がポカンとしていると海李は自転車にまたがり、颯爽と夜の闇へ消えていった。




