食虫植物
翌日の日曜日は夕方から教習所があると正秋が言うので、それまでの間、二人はデートすることになった。正秋に連れられ、千夏は新しくできたばかりのカフェに入った。まだ新しくモダンな造りの店内で、千夏は嬉しくなってキョロキョロ見回した。
「ここの『丸ごと桃パフェ』が美味しいんだって」
正秋がメニューブックを差し出しながら言う。千夏はそれを注視する。なかなか充実したメニューブックで、女子ウケしそうなドリンクやスイーツがたっぷり載っている。
デートしようと申し出たのは千夏の方だ。だがこの店を調べ上げたのは正秋の方で、ウェブ上の口コミ情報をもとに、ブック内のメニューについてあれこれ説明する。
「コーヒーも結構美味いみたいだから。俺はアイスコーヒーにしよ」
正秋の言葉を受けて、千夏は少し冷静に値段に注目する。このカフェのアイスコーヒーは五百八十円で、前日のエンターコンチネンタルホテルのアイスティーよりは安い。が、普段の自分達が飲むコーヒーよりは高い。普段から無駄金を使わない正秋だが、それについて何も言わない。正秋本人は堅実でも千夏と違って露骨なセコさはないらしい。冬馬と付き合っているときに極端に痩せてしまったのを気にしてか、とにかく食え食えと言う。千夏にたくさん食べさせることに、使命感を覚えているようだ。
千夏がいつまでも注文しないので、正秋が唇を波立たせて笑い出した。
「大丈夫だよ。俺の奢りだから」
正秋の言葉に、千夏は目を光らせる。
「高いけど、いいの?」
「いいの」
千夏は遠慮なく、一杯二千二百円の「丸ごと桃パフェ」を注文する。正秋は満足そうに頬杖をつきながら微笑んだ。
店員がコーヒーとパフェを運んできた。パフェは名前の通り、皮をむいた大きな白桃がパフェグラスの上に乗っかったパフェで、下層には桃のアイスクリームにホイップクリーム、スポンジ、桃のジュレと続き、ボリューム満点だ。千夏はフォークで突き刺し、桃にかじりつく。甘く冷たく、とろけるようだ。
「足りなかったらおかわりして」
正秋はアイスコーヒーだけオーダーして、千夏のその様子を満足そうに見つめてくる。
「こんなすごいのお代わりするの、白井君くらいだよ」
甘党の白井が以前にシュークリームを八個持ち帰ったのを思い出し、千夏はくすくす笑う。その拍子に、勢いよくクシャミした。すると正秋が急に笑みを消し、真顔で千夏を見つめてくる。
「もう、そういうのいい加減にして」
「何が?」
千夏には意味がわからない。
「千夏は、本当に…。今日も可愛すぎてズルい」
正秋はポケットティッシュを取り出し、一枚引き出すと、グッと千夏の鼻をそれで掴んだ。
「何」
「鼻、垂らしてんじゃねえよ。可愛いかよ」
「えー?」
「ほら、フーン、して」
言われた通り、千夏はフーンとティッシュのなかに鼻水を出す。正秋はくすくす笑いながらティッシュを拭い取ると、それを丸める。
「体、冷えちゃったんじゃない」
正秋の指摘した通りだ。店内はエアコンがよく効いているし、バカでかいパフェを食べきった後だし、急に肌寒くなってきた。何気なく窓の外を見渡す。目の前は植物園らしく、夏らしい緑の濃い景色が広がっている。正秋はその緑を指差した。
「ちょっと外、出てみようよ」
二人はカフェから出た。
戸外では強烈な暑気が全身を包み込んでくる。まるでオーブントースターの中のようだ。ゲートで入園チケットを購入し、ゲートをくぐる。目の前にはヒマワリやサルスベリ、各種ランが今が旬とばかりに咲き狂っている。少し先に行くと池があり、大きな噴水が天に向かって水を噴き上げている。水面には睡蓮がいくつもの葉を浮かばせ、白や紫の花弁を惜しげもなく広げている。夏らしく生き生きとした、その瑞々しい情景に、千夏は目を細めてわずかに笑う。
「暑いね」
大量のアサガオの鉢植えに目を奪われながら、千夏は両腕を力強く伸ばす。強烈な八月の陽光で、冷えすぎた胃腸が温まっていくのを感じる。それがとても心地よい。
「うん。溶けそう。見ろよ」
正秋がそばにある屋外型デジタル温度計を指さす。そこには三十八度と表示されている。セミがジージー、ミーンミーンと鳴き、暑さを冗長させるようだ。
「もっと暑いところがあるよ」
正秋が、今度は温室を指さす。千夏は鼻にシワを寄せ、露骨に嫌そうな顔をしてみせる。
「あんなとこ入ったら滅亡するよ」
「滅亡しにいこうよ。千夏はそういうの、好きでしょ」
正秋はくすくす笑って手をひく。
「まあね。嫌いじゃないよ」
千夏は手を引かれながら、諦めて笑った。
温室には人っこ一人いなかった。あまりの暑さのせいか、温室にする必要もないのだろう。そこに植えられているサボテンや椰子の木、バナナの木ですら元気がないのではと千夏は心配になり、苦笑いする。
「この植物、なんだろう」
「さあ、士郎じゃないから。マニアックなのは分からん」
「士郎君、正真正銘の植物博士?」
千夏はくすくす笑う。正秋の弟、士郎は植物園で働いているから、正秋以上に植物に詳しいのだ。
「だよ。あいつ、子どもが秋に生まれるから桔梗か撫子がいいとか言ってる」
「正秋おじさんと同じ、秋はつけないのかな。秋子とか千秋とか」
「『千秋』は、俺と千夏の子どもだろ」
正秋にそう言われて、千夏は思い切り赤面する。千夏の赤面を受けてか、正秋も気まずそうに笑う。結婚。出産。きっと自分たちにも近い将来、それが訪れる。なんだかそれがとても尊く思えて、思わず正秋の手を取った。正秋はその手を優しく握り返してくる。
歩かずとも、止まっているだけでも汗が噴き出る。千夏は持っていたハンカチで額やこめかみの汗を拭き取るも、おさまる気配がない。脇の下や胸の谷間にも汗が滴り落ち、千夏はあちこちハンカチを突っ込む。ただ、これだけ暑いのに、その途方もない静寂のせいで、心が凪のように穏やかになってゆく。
何かに気を取られたらしく、正秋が手を離し、小走りで何かに近づいていった。
「うわっ。すげえのがいるな。見て」
正秋が素っ頓狂な声をあげる。千夏がそばに寄って見ると、そこにあったのは食虫植物だ。棘まみれの二枚貝のような形をしたハエトリソウを前に、千夏は虫が捕まるところを見てみたくなった。
「ハエとか飛んでないかな」
「うーん。いないな」
正秋はキョロキョロ辺りを見回す。
「これって確か、捕まえた虫を何日もかけて溶かすんだよね」
千夏はハエトリソウの前でしゃがみ込む。さらに、子どもの頃、自宅の鉢植えにこれがあったのを思い出す。変わったものが大好きな母が育てていたのだ。そして改めて、その開いた二枚貝のような葉をじっと見つめる。赤くて筋肉のように筋張った繊維質が見え、だんだん卑猥なものに見えてきた。ほぼ無意識に、そこに人差し指を突っ込んだ。当然ながら、ハエトリソウは千夏の人差し指を挟み込む。
「おい、何やってんだよ」
正秋が驚いて千夏の手首を掴む。
「いいの。平気だから」
「溶けちゃうだろ」
「すぐには溶けない」
千夏は気楽な口調で正秋に言い返す。そして妙な気分になってきて、正秋に怪しげな笑みを向ける。
「かなり力があるし、すごい圧迫されてるの。でも痛くない。このトゲ、柔らかいんだよ。包み込まれてるみたいで、気持ちいい」
「えええ。それが? 気持ちいいんだ?」
正秋は信じがたいとばかりに、挟まれた指とハエトリソウを凝視する。
「うん。でも、気持ちいいのって私だけじゃないよ。こんなもの突っ込まれて悦び悶えてる、ハエトリソウもだよ」
千夏は意味ありげに言い、笑ってみせる。そう。自分は女だからこのハエトリソウの気持ちがわかる。変態的で特異な状況に、興奮してしまう。欲求不満だから尚更だ。正秋はどんな反応するだろう? 前日にお預けを喰らわせたばかりだし、爆笑するか怒り出すか、どちらかだと思ったのに、意外にも正秋も同様にしゃがみ込み、その様をまじまじと見つめ続けている。その食いつきぶりをいいことに、千夏はゆっくり、指をハエトリソウから引き抜いていく。わざと気持ちよさそうな顔をして、色っぽく、深く息を吐いてみた。
「…やっぱ変態だよな」
「誰が」
「千夏が」
正秋は呆れながらも、おかしそうに笑う。
「それで指、大丈夫なの」
正秋は少し不安げに尋ね、千夏の人差し指を見つめる。
「うん」
「ケガとかしてないの」
「うん。子どもの時、千絵と何回もやったことある」
心配そうな言葉とは裏腹に、正秋の目はトロンとしてくる。それがおかしい。千夏はくすくす笑いながら、挟まれた人差し指を正秋に握らせる。
「ねえ。今日は健全なデートだったはずだよね」
正秋の言い方は、少し苛立っているようだ。何が言いたいのか分かる。あえて、千夏はすまして頷く。
「うん。そうだったね」
「でも、台無しだ。変態女と健全なデートは無理かもな」
正秋はヤシの木の幹に千夏の背中を押しつけ、激しいディープキスをする。千夏もそれに応え、二人は汗ばんだ体をぴったり寄せあい、無言で唇を貪りあった。
周りに誰もいなかった。このまま不健全な流れになりそうだった。今日は「完璧な」下着をつけてきたので、千夏はそれでもいいと思った。なのに、正秋は腕時計に目をやり、勢いよく千夏の体を引き離した。本人は植物園のゲートを出ると千夏に手を振り、逃げるように教習所へ向かってしまった。千夏もムラムラしたままだったにせよ、なんだか勝ったような気がした。正秋の後ろ姿を見て、千夏は体を二つに折り、激しく笑った。




