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人のこと言えない

千夏は呆気に取られ、楓を穴が開くほど見つめた。しばらく三人とも黙り込んでいたが、正秋が頭を下げた。


「ごめん。大地さんの気持ちには応えられない」

「…ですよね。わかっていました」

楓は悲しげに頷く。

「行こう、千夏」

千夏は正秋に手を引かれ、店を出た。


正秋のマンションに入るや否や、千夏と正秋は口喧嘩を始めた。

「好きになってしまいました、って何。どういうつもり」

「知らないよ」

正秋は千夏に噛みつかれ、どう言い返したらいいか分からない様子だ。頬をかき、キッチンを横切る。とりあえず酒のおかわりをと思ったのか、冷蔵庫からビールと缶酎ハイを取り出す。千夏は正秋の手から缶酎ハイをひったくり、プルタブを開けると、立ったままグビグビ飲み出す。飲みながら何となくラベルを見る。これは一本いくらか。一万二千九百六十円でないことは確かだ。

「今日一日、ずーっと家具の移動してたわけ? そんな大御殿なの、大地さんちって」

「そういうわけじゃないよ。ほかにも色々、雑用頼まれて。シーリング買いに行って、それの交換とか」

「はー。好きな男とそうやって一日中過ごせたわけか」

千夏はローテーブルの前まで歩いて行き、床の上にしゃがみ込んだ。正秋はすぐ後ろのソファにどっかり座り込み、喉を鳴らしてビールを飲む。


楓はあれだけ男が群がってきて、よりどりみどりなはずだ。なのに、なんで。なんでよりによって、正秋なんだ。

「すっごく嫌」

「うん。ごめん」

「もう絶対関わらないで」

「うん。そうする。家、近くなっちゃったけど」

正秋は気まずそうな言い方をする。が、千夏は目を見開いて振り返る。聞き捨てならない言葉だ。

「近いって何。大地さん、どこに引っ越してきたの」

千夏は正秋の膝に乗っかり、真正面から目を合わせる。正秋は少し顎を引き、千夏の髪を優しく撫でる。

「…うちのマンションの、隣のマンション」


顔面を殴打されたようなショックを受け、千夏は目と口と鼻の穴をおっ広げたままにする。正秋は察して、疲れた顔をしながら、千夏の頬を軽く叩いてくる。

「言っとくけど、俺からはあの人に何も言ってないからね。勝手に向こうがそこに越してきたんだ」

「きっと、バレてたからだ…。冬馬の車に乗ったとき…」

千夏は宙を見つめる。先日の車内での会話が思い出される。正秋が冬馬に住所を伝えていたときのことだ。あのとき楓は助手席に座っていた。カーナビも使っていたし、楓は情報をメモしていたに違いない。

「そうだけど。だからインターホン鳴って出たら、モニターに大地さんが映ってて。そこでじかに頼み込まれちゃったから、突っぱねられなくて」


血の気が引いた。あの女、やはり正秋の住所を完璧に把握していたのだ。ストーカー? まさか、怖すぎるだろう、個人情報なのに。

千夏は勢い余ってそれを言いそうになったが、そういえば千夏自身も過去に占いにハマっていたとき、正秋や冬馬、春菜の個人情報が載った履歴書を、スマートフォンで撮影したことがある。ということは自分も同類だ。あの画像は一刻も早く消去しようと、自分に誓った。


「…やりすぎだよ、あの人」

それだけ言うが、言い足りなかった。この、女狐。女狐ストーカーめ。

「俺もそう思う」

正秋も疲労困憊した様子だ。

「もう絶対、今後、あの人に近づかないで。不安にさせないで」

「分かったよ。ごめん」

正秋は千夏の頭を優しく、丁寧に撫でる。さらに千夏の両手首をひき、自分が座る上に千夏をまたがらせる。千夏は正秋の頬をぎゅっとつねる。

「いたた。そういう千夏は今日、何してたの」


千夏はぎくりとして、正秋をつねる手を離す。正秋は申し訳なさそうな顔をしているが、何かを感じ取っているようだ。いつの間にやら油断のない目つきに切り替わり、千夏をつぶさに観察し出す。掛け時計の針の音が、やけに大きく響く。


「ジムトレした後、料理教室の仲間とランチ」

嘘は言っていない。ただ、正秋が嫌がる相手というだけだ。

「へえ。ランチってどこへ」

正秋は千夏の肩から腕、肘のあたりに手を這わせてくる。

「竹芝…」

「ふーん。そこからわざわざハイヤーに乗って、飲み屋まできたんだ」


千夏の挙動不審ぶりに、正秋は疑わしげな顔をする。千夏は目を逸らし、髪を振り払う。そうか、あの車こそがハイヤーというものなのかと、正秋の言葉で納得する。ふいに正秋が両腕を伸ばし、千夏の上体を抱き締めた。

「それにさ。なんか今日、いい匂いがするな」

正秋は千夏の鎖骨あたりに鼻をこすりつけ、急に探りを入れてくる。千夏はビクッとしてしまう。

「えええ。酎ハイの匂いじゃないの」

「それと違う。もっと甘い感じの」

正秋はまだクンクンと嗅ぎ続ける。その嗅ぎ方がなんだかいやらしい。ああ、それはきっとオイルの香りだ。ボディトリートメントのときに、全身にたっぷり塗られている。だけどそれは言わない。ややこしくなるのは勘弁だ。

「気のせいじゃない?」

「気のせいじゃない。肌もすべすべだな」

正秋は黙って千夏の首筋を舐める。千夏はゾクッとして体を震わせた。


「正秋…」

正秋は、今度は千夏の唇を自分の唇で塞ぐ。甘くてとろけるようだ。

「ハイヤー呼んだの、前田社長?」

「うん…」

千夏は観念し、正直に頷く。

「他の人のハイヤーも、呼んだんだ?」

「えーと。ああ、うん」

千夏は、今度は嘘をつく。正秋は目を細め、何かを嗅ぎ取ったようだ。

「千夏も人のこと言えない」

「な、何が」

「そうやって俺のこと、不安にさせてるじゃん」

「ごめんなさい」

だけど今日のことは不可抗力だ。海李はかなり強引に誘ってきた。でも、本気で断れば、海李も無理強いはしなかったであろうことは、さすがに分かる。


「なんか俺、もう全部、どうでもよくなった」

どうでもよくなったって…。千夏の怪訝な顔を見て、正秋は急にエロティックな笑みを浮かべる。千夏はその笑いにゾクッとした。

「決めた。シよう」

正秋はそう言って千夏の手を強引に引き、ソファに押し倒した。千夏は唇を噛み、急激に心拍数が上がるのを感じる。そしてすぐに目をつむり、思考回路をめぐらす。今日の下着はなんだったか。勝負下着でないのは確かだ。思い出せずモヤモヤしているのに、正秋が貪るようなディープキスをしてきて、冷静に思考できない。このまま快楽に身を任せてしまいそうだ。でも、思い出さないと。


正秋は千夏の上にまたがり、体のあちこちを愛撫する。千夏が着ているワンピースのファスナーに手をかける。

「あ!」

千夏の脳内で豆電球が点灯する。やばい。今日の下着はやばいんだ。

「大丈夫。優しくするから」

「ま、正秋、そういうことじゃなくて、やばいの」

千夏は青ざめる。そうだ。たった今、思い出したのだ。今日はブタのパンツだ。しかもこのブタは身の程知らずなことに、ウインクしている。絶対絶対、こんな無様なもの、見られたくない。冗談じゃない。やめろ、脱がすな。殴るぞ。

「何が?」

「いい。中止。中止にして」

千夏はパニクッて抵抗する。

「やだよ」

正秋は力づくで千夏をベッドに押さえつける。

「我慢して、今日だけは」

「無理」

「嫌」

「俺だって嫌」

「だったら帰る」

押し問答の末、千夏は絶叫した。この大バカ野郎、察しろ。最初が肝心なんだから。大切な「初めて」は完璧でいたい。恥はかきたくない。正秋はむっつりして半裸になった千夏から手を離し、自分はベッドにどすんと寝転がる。その様子を見て、千夏は必死でブタのパンツだけは隠し、胸を撫で下ろす。それからまるで子どもをいなす母親のように、適当な笑みを顔に貼りつける。

「ねえ、正秋。明日、ちゃんとデートしようよ」

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