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1万2960円のハンバーガー

千夏はオシアスでシャワーを浴び、ロッカールームへ向かった。持ってきた替えの下着がブタのプリント柄のパンツで、ちょっと萎えた。それは太っていた時代に、自虐の意味を込めて買った激安パンツだった。そろそろ買い換えようと思いつつ、洗い替えが足りなくなるのが嫌で捨てずにおいた、しょうもないやつだ。緩くて少し具合が悪いが仕方ない。さっさと着替え、ロッカールームを後にした。


受付前で待っていた海李を見て、千夏はまたしても驚き呆れた。先ほどの全身ジバンシーも似合っていたが、今度のもまた格好良かった。長身の冬馬よりもまだまだ背が高そうで、スレンダーだ。少し光沢のある黒いポロシャツとグレーのハーフパンツ、清潔感のある白いソックスと白いスニーカーを履きこなす海李は、まさに「イケオジ」そのものだった。千夏はカーキ色のワンピース姿の自分より、海李の方が若く見えた。


千夏は海李とともにオシアスを出て、最寄駅から山手線に乗った。浜松町駅で降り、竹芝通りをすたすた歩いていく海李を、千夏は追いかけるようについていった。


「マケドナルドならそっちにありますけど」

千夏は交差点の左の方を指さす。

「マケドナルドのハンバーガーは薄くて食べやすい。出てくるのが早い。時間泥棒に遭うことはまずない。僕が尊敬している外食産業の一つではある。だけどこれから向かうところはまったく毛色の違うところだ」

海李はまたしてもマシンガントオークを繰り広げ、にっこり笑う。千夏はハーンと口を突き出す。となると、ロスバーガーか。それともモッテリアか。なんでもいいが、そろそろお腹がすいてきた。千夏はビルの谷間を歩き、周囲をぼんやり眺める。ゆりかもめの竹芝駅が見えてきた。海の向こうにあるのはお台場だ。


「ついた」

「え?」

海李は長い足ですたすたと建物の中に入っていく。そこにそびえるのは格調高い、エンターコンチネンタルホテルだ。

「ちょっと、どうしてこんなところ」

「いいからいいから」

海李は笑顔で答え、美しいロビーを突っ切り、フロントで用件を伝える。係員がエレベータまで案内し、千夏と海李は地下一階へと降りてゆく。

「ハンバーガーはやめちゃったんですか」

「やめてないよ。はい、ついた。お先にどうぞ」

海李が開閉ボタンを押さえ、先に千夏を下ろす。それから二人は正面にあるラウンジへと歩く。

「ここは全四十卓、すべて本革のソファーだから座り心地は悪くないと思う。接客は僕基準の評価で言うなら五点満点中、四点だ。だがチーフがいる日は六点になる」

海李の解説を聞きながら促され、豪華なソファ席に腰を下ろす。


「あのー…これからお昼ごはん食べるんじゃなかったんですか」

「そうだよ。メニュー、持ってきて」

海李が近くのスタッフに声がけする。スタッフは大股で奥へ引っ込み、メニューブックを持って戻ってくる。海李はそれを受け取り、対面の千夏がよく見えるようにブックを開いた。

「ちょっと。なんですかこれ」

目の前のメニューに、千夏は度肝を抜かれる。「黒毛和牛とフォアグラとトリュフのロッシーニ金箔バーガー紫雲丹ソース添え/一万二千九百六十円」とは、本当にハンバーガーなのか。

「千夏は飲み物、何がいい」

海李は涼しげな声で千夏の問いかけを無視する。

「え? あー、えーと、アイスコーヒーで」

千夏は言いながら、メニューブックのアイスてぃーにも驚く。それは一杯千七百円だ。

「何。ハンバーガーをアイスティーと合わせるのか。僕は絶対にコーラだ。コーラじゃなきゃハンバーガーを食べている気分にならないだろう。それもヘプシコーラではなくゴカコーラでないとダメだ。爽やかさが違う」

千夏は海李の言葉が頭に入らない。わなわなしながらメニューを置くと海李が手を上げ、スタッフが歩み寄ってきた。海李はハンバーガーと飲み物以外にもフライドポテトやらサラダやらあれこれ注文し、それを受けたスタッフが下がっていく。貫禄たっぷりな海李の様子に、千夏は呆れて深くため息をつく。


「ホテルのラウンジでハンバーガーなんか頼む人、初めて見ました」

「そう? ここ、寛げるから好きなんだ」海李はラウンジ内を見渡しながら機嫌よく微笑み、長い足を組む。「僕の祖父が設計したホテルなんだ。美しいだろう? 祖父は昔から『なぜそれは美しく見えるのか』ということを常に、念仏のように唱えていてね。絶妙な見せ方をさせるプロフェッショナルだったんだ──」

そう言って微笑む海李は、いつにも増してイケメンだ。家族を大切にできる人なんだというのは十分伝わってくる。だからそろそろ、黙ればいいのに。

「いつもお昼ご飯はここなんですか」

千夏は地味で真面目な声を出し、あさってのほうを向く。

「いつもってわけじゃないよ」

「昨日のお昼ご飯は何だったんですか」

「んー。おにぎり」

「具はキャビア? アワビ? あ、もしかして天然物のウナギとか」

千夏が白けた顔で言うので、海李は声を立てて笑う。


「その顔。パーティでも見たな。すごいブスだよね。ああ、ちなみにおにぎりの具は鮭と梅だ。それとほうじ茶」

「もっとブスい顔もできますよ。はい、『シャインマスカットを美味しく食べていたのに腐った実をうっかり食べちゃった人の顔』」

千夏が目を細めて唇を突き出し、顔面を痙攣させると、海李はショックを受けた顔をする。直後、腹を抱えて笑う。急に得意になって千夏がさらに変顔をしようとするも、海李に両手で頬を押さえつけられてしまう。

「はい、ストップ。もういいよ。君は可愛いのにエンターテイナーでもあるんだね。素晴らしい。チップを弾まないと」

「私、大道芸人じゃありませんから要りません。超絶つまんない人間です」

そう言ってふてくされるも、海李の長い指に頬を押さえつけられ、千夏は心臓がバクバクする。

「うん。変顔もいいけど、可愛い顔の方が断然好きだから。いいねえ、その顔。ずっと見ていたい」

唐突に優しげな目を向け、海李が微笑んでくる。千夏は改めて、その男前な顔を見て、頭のてっぺんから湯気を噴き出す。そこへ、スタッフが料理を運んできた。

「食べようか」

金箔が乗った立派なハンバーガーを、海李がナイフとフォークで切り分けた。


二人は時間をかけてゆっくり食事を楽しんだ。千夏はあまりの美味しさに美味しいです、を連呼した。食べ終わる頃、海李はポケットからスマートフォンを取り出し、立ち上がった。千夏の前に手のひらを向けて軽く謝り、廊下へと出ていった。喋り口調から仕事の電話だろうと察し、千夏も軽く頷いてアイスティーを飲んだ。


妙な気分である。ファーストフードなのに、全然ファーストフードじゃない。このアイスティーだって紙コップにストローが刺さってるやつじゃなくて、薄くて透明度の高い、上品なグラスに入れられて、ストローはない。なんの茶葉だか知らないが、豊かな香りがたっぷりして癒されてしまう。ハンバーガーも他の料理も絶品すぎて、舌がとろけてしまった。一万二千九百六十円のハンバーガーってなんだよ。それをハンバーガーと呼んでいいのか。


海李のマシンガントークに開放されたからか、急に疲れを覚え、千夏は背もたれに首を豪快に乗っけてみる。真上にある高い天井には、繊細な美しいガラスブロックの照明が、S字状に敷き詰められているのが見える。そばでオーガンジーだか何だかの、透き通った布がエアコンの風にゆらゆらたなびいている。遠くからは癒しのピアノの旋律が、小川のように流れ込んでくる。ここはきっとおとぎの国だ。その夢を見ているんだ。夢から覚めたらいつもの汚いアパートになるんだろう。私はスーパー庶民だ。王子様が連れてきてくれた別世界にうつつを抜かしているだけの、下級市民だ。


千夏はふと、足がずっしり重くなるのを感じた。先ほどオシアスで気合を入れて走りすぎたせいか、ふくらはぎがしんどい。今度は前屈みになってふくらはぎをもみながら、大あくびをする。


「ただいま。ごめんね」

頭の上から声がして、千夏は顔を上げる。

「ああ、いえ」

千夏は慌ててあくびを飲み込み、足を揉むのをやめた。

「悪いけど僕、この後、出なくちゃいけなくなった。こうやって土曜日も仕事をするあたり、やはりまだまだ僕は三流だね。このままではダメだ、精進しなければならない。千夏の彼氏からは連絡、きた?」

「いや、まだですけど。じゃあ解散にしましょうか」

千夏が席を立つと、海李は千夏の顔をじっと覗き込む。それから何かを思い立ったように、にっこり笑う。

「待ち合わせ、夜とか言ってたよね」

「はい」

「まだ時間あるんでしょ。ついてきて」

海李はそう言ってラウンジを出る。

「えっ。あの、お会計は」

「もう済ませた。おいで」

海李に言われるがまま、千夏は再びエレベータに乗り込んだ。


エレベータは三階でとまった。ドアがあいた瞬間からエキゾチックな甘い香りがふんわりと千夏の鼻をくすぐった。目の前の空間に南国風の調度品が飾られ、観葉植物の鉢植えがバランスよく配置されている。背の高い女性がカウンターからこちらを見、行儀良く頭を下げた。

「こちらの女性、疲れが溜まっちゃってて。癒してあげてよ」

海李がそう言ってカウンターにクレジットカードを差し出し、千夏の肩をポンポン叩く。千夏はカードの色を見て目を見張る。過去に一度も見たことのない、ブラックカードだ。

「かしこまりました。どうぞこちらへ」

女性スタッフは美しい笑顔を浮かべ、奥の部屋に手をかざす。千夏は意味が分からず、その笑顔に見惚れてポカンとする。

「え? え?」

「じゃあ、お姫様。どうぞゆっくりしていって。また連絡するね。僕は君となら徹夜で喋り続けられる気がする。いや、三日はいけるな。おっと、そんなことを言っているから僕は女性からうんざりされるんだ。お名残惜しいけど今日はさよならだ。またね」

海李はエレベータに再び乗り、千夏に向かって何度も手を振ると、ドアがしまった。台風のように騒々しい海李がいなくなり、千夏はほっとしたのと同時に、少し寂しさを覚える。その場に突っ立っていると、女性が歩み寄ってきた。千夏は個室へ案内され、裸になって施術台に寝かされ、贅沢なボディトリートメントを受ける羽目になった。


夕方になってトリートメントが終わったので、千夏はホテルの正面玄関へ向かった。すると、そこへ運転手らしい制服を着た男性が早足で歩み寄ってきた。

「天野千夏様、でいらっしゃいますでしょうか」

「はい」

「お迎えにあがりました。どうぞ」

今度はなんだ。千夏は乾いた笑いをあさっての方角に向けながら、男性の後へつづく。すぐそばに名前のわからない真っ白な高級車がとまっていて、彼はその後部座席のドアを開ける。

「ご乗車ください」

「え? 何ですか、これ…」


動揺したまま千夏は革のシートにお尻を乗せ、脚をしまう。これも海李の差金か。それにしても、タクシーにしては内装が豪華だ。先ほどの制服を着た運転手が運転席へ乗り込み、ドアを閉めた。

「どちらへ行くんですか」

千夏は恐る恐る尋ねる。

「どちらへでも。お申しつけください」

運転手が振り返り、軽く微笑む。そう言われて千夏は挙動不審になり、周りをキョロキョロする。確かここは竹芝のすぐそばだった。家まで運賃はいくらかかるのか。

「あの、料金って…」

「前田様から申しつかっておりますので、結構です」

「そうなんですか」

やっぱりそういうことか。千夏は頷き、正秋との待ち合わせ場所を伝えた。

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