宿
鳥取砂丘をたっぷり堪能した後、二人は土産物屋に入った。そこでラクダのイラスト入りのペアのマグカップを買い、イートインコーナーで鳥取名物の梨のかき氷を食べた。それから自転車へ乗り、宿へ戻った。
千夏が予約したのは市街地にある温泉旅館だった。この日のために数ヶ月前から貯金していたので、千夏はここで豪遊すると決めていた。急遽、旅行に参加した正秋が泊まれるのかと心配だったが、たまたま空室があったので、別の部屋と交換してもらった。二間続きの和室になっており、大きな窓からは日本海を見渡せた。さらにその窓を開けると、バルコニーには岩づくりの露天風呂があった。すでに湯は沸いていて、湯気が立ち上っていた。千夏は近づいて湯船を見下ろし、顔に湯気を浴びた途端、急に緊張しはじめた。
「正秋、ハイシーズンなのに。こんなに高い部屋、いいの」
「いいよ」
部屋代は正秋が払うと申し出たので、千夏はそれに素直に従ったのだ。一杯百円のコーヒーを無駄にせず、激安スーパーで食料品を買う正秋は、出すところでは出すタイプなんだなと、千夏は少し感心する。だけど考え方を変えれば、正秋にここで何をされても文句は言えないということでもある。当の正秋は千夏の隣に立ち、肩に手を乗せてくる。千夏はビクッとして肩をすくめる。
「千夏が何、考えてるか当ててみよっか」
今度は正秋が千夏の肩に顎を乗せ、声をひそめて笑う。
「いい。当てなくていい」
千夏が必死で突き放すと、正秋は堰を切ったように大笑いする。千夏はとっさに正秋の家に泊まった日のことを思い出した。一晩中眠れなかったあの日だ。同時に、正秋に犯されかけた別日のことまで思い出してしまう。
「夕ご飯。楽しみだなあ」
千夏はわざと話題を変え、不自然に笑いながらベランダチェアに腰を下ろす。正秋ももう一脚のベランダチェアに座り、真横から千夏の顔を覗き込む。
「俺はその前に汗、流したいんだけど」
「うん。お先、どうぞ」
千夏はそっぽを向いたまま、露天風呂を指さす。
正秋はニコニコして部屋に入る。少し経って、着替えを抱えてバルコニーへ戻ってきた。千夏が部屋へ入ろうとすると、正秋がすれ違いざまに千夏の腕を掴む。
「どうしても俺の背中を流したくなったら、おいで」
正秋の言い方、その流し目は明らかに挑発している。負けたくなくて、千夏は泰然自若としたまま、鼻から勢いよく息を吐く。
「そういうセリフは、お腹を洗濯板にしてから言いな」
「洗濯板?」
千夏は意地悪く笑い、窓と障子を勢いよく閉めた。
正秋が入浴した後は、千夏が入れ替わりに入浴した。二人は浴衣姿になり、宴会場へ向かった。夕食の内容はなかなか豪華だった。前菜から始まり、小鉢、焼き物、お造りと続き、千夏は透明なケンサキイカの刺身に舌鼓を打った。
「あー。家じゃ、絶対作れないやつ」
千夏が料理を口いっぱいに含んでとろけそうな顔を向けると、正秋も柔らかい笑顔を浮かべる。
「だね」
「美味しい」
「何これ。バカうま」
正秋は目を見張り、小ぶりな椀に入った料理をスプーンですくう。
「何、それ」
「冷たい茶碗蒸し。あー、好きだな、これ」
千夏はお品書きを見る。どうやらこの茶碗蒸しにもケンサキイカが使われているらしい。
「よかったね」
「千夏も食べなよ」
「正秋がそんなに食いつくのって、なんか珍しいね」
「あー…。俺、茶碗蒸し党でさ」
そうだったのか。だったら作ってあげようかと言いたいが、あいにく茶碗蒸しは苦手だ。というか料理全般、正秋より下手なのだ。千夏は情けなくなって口をすぼめる。
「私、料理教室にでも通おうかなあ…」
「えー? そんなの必要ないよ」
「でも、前から思ってたことなんだよね」
千夏は、かつて冬馬に作って笑われたあんかけ焼きそばを思い出す。
「料理教室なんか行かなくたって、ウェブ上にいろんな料理動画、上がってるじゃん」
「まあ、そうなんだけど。正秋は茶碗蒸し、そんなに好きなんだ」
「うん。俺の前世、茶碗蒸しだから」
「ウケる。でもそしたら共食いじゃん」
千夏は笑って自分の蒸し椀をスススと差し出す。
「食べないの? 絶品だよ」
「いいの。あげる」
正秋は交換条件とばかりに、自分の分の刺身を千夏に差し出す。それからすぐさま茶碗蒸しへと手を戻す。なんというか、正秋の子犬のようなホワホワした感じと、茶碗蒸しのホワホワした感じがマッチしていて、とてもいい。がっつきぶりが幼くて、それが妙に笑えて、千夏の笑い声はボリュームアップしてゆく。
「ね。これも結構、口あたりがいいよ。千夏もどうぞ」
正秋は冷酒を頼み、ガラスのとっくりを千夏のお猪口に注いだ。
「私、日本酒は苦手なんだけど」
「ちょっとだけだよ」
「じゃあ、本当にちょっとね」
千夏は少しだけ口につけてみる。正秋の言う通り、意外にも匂いは穏やかで、口当たりが良い。
「なんか美味しい。飲みやすい」
「じゃあ、もっと飲もう。イカに合うよ」
二人は楽しく酒を酌み交わした。
すっかり出来上がった千夏は正秋と腕を組み、宴会場を後にした。とても良い気分だった。しっとり一人旅のはずが、愉快な二人旅となってしまった。これはこれで最高だと千夏は機嫌良く笑った。廊下を通り、部屋のドアを正秋が開け、中に入った。座卓のある部屋の右手には続き間があり、そこには真っ白な布団が二つ、ピッタリ並んで敷かれていた。
それを目にした瞬間、千夏は急に酔いが覚めた。正秋と組んでいた腕を離し、布団を見下ろしながら、その場に立ち尽くした。
「もう寝る?」
正秋が千夏の肩に腕を回し、くすくす笑いながら尋ねる。
「えっ。ああ、もっ、もう少し飲みたいな」
まるで小動物のように、千夏はワタワタと手をばたつかせる。
「オッケー」
正秋は備え付けの冷蔵庫からビールとおつまみを取り出す。千夏は音も立てず、素早く座椅子に座る。
「テレビ、つける?」
「うん」
正秋がリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。地元のニュース番組がやっていて、アナウンサーが「今日は日中三十八度を超えました」と報じる。さらに、鳥取県内の情報番組へと移行していく。その賑やかな音に、千夏の緊張の糸が再び弛みだす。深呼吸して、ビールの栓を開けてみる。
「今日、ありがとう」
正秋は言いながらビールを飲む。
「何が」
「俺がついて行きたいって言ったら、いいよって言ってくれたから」
「うん。だって、まあ」千夏はおつまみのなかから、柿の種の袋を開封し、照れ隠しでそっぽを向く。「旅は一人より、二人の方が楽しいし」
「うん。それでもごめん。本当にありがとう」
千夏の使い古された言葉にも、正秋は頬杖をつき、満足そうに微笑む。その目は昼間見たときと違う目だ。少し腫れぼったく、やけに色っぽいので、千夏は猛烈にドキドキしてしまう。
「私こそ、ありがとう」
千夏は事務的な声で言い、柿の種をポリポリかじる。なんだこの空気は。気まずすぎだろ。早くどうにかなれ。リモコンを手にしてチャンネルを回すも、こういうときに限ってテンション高めのお笑い番組はやっていない。それどころか、ドラマの色っぽいシーンが流れてしまう。急いでチャンネルを回してテレビショッピング番組にたどり着いたところで、千夏はリモコンを放り投げる。リモコンは音を立てて畳の上で転がった。それを見て正秋はさらに笑い、今度は背後の布団を振り返り、激しく笑い続ける。
「し、新婚旅行に来た、し、新婚夫婦、み、みたい」
千夏がどもると、正秋は笑いをボリュームダウンさせる。
「リアルにそうなってもいいんだよ」
その言い方はとてもナチュラルだ。
「だから婚姻届まで持ってきちゃったんだよね。ほ、本当にバカなんだから」
「そう。バカなんだ俺」
正秋はそう言って立ち上がり、千夏の真横に座る。千夏がますますドキドキしながら見ていると、正秋は千夏の両手を握る。さらに顔を近づけ、そっとキスする。千夏は心臓が飛び上がりそうになり、脳内で激しいおしゃべりが始まった。
ねえ。ちょっと、いくらなんでもやりすぎじゃない? 昨日、付き合い始めたばかりで。正秋もどうかしてる。普通、ありえないよね。いきなり有休とってきちゃって。で、同じ部屋に泊まって。このままエッチしちゃうの? いやいやいや。無理でしょ。でも。正直、全然嫌じゃない。てか嬉しい。そうだ。何言ってんだよ私。嬉しがってんじゃん。お互いWin-Winじゃん。
正秋がそっと唇を離す。千夏は目を伏せ、全身を小刻みに震わせ、肩で息をし始める。すると、それを見た正秋は意表をつかれたのか、激しく笑い出す。
「何、笑ってんの」
千夏が怒って睨みつけると、正秋は目元を手で拭う。
「あーあ、千夏、可愛すぎてずるい」
「何それ」
「ごめんごめん、怖がんなくて大丈夫だよ。俺、前科があるだろ。ちゃんと反省してるよ」
正秋はおかしくてたまらないらしく、手を叩いて笑い続ける。
「え…」
千夏は意味が分からず、眉を寄せて口を半開きにする。
「何もしない。こうしよう」
正秋は千夏の手を離して立ち上がると、続き間へ入っていく。布団を一組掴むと、座卓がある方の居間へずるずると引きずっていく。千夏は拍子抜けして、それを見つめる。
「こっち、俺の部屋。千夏はそっちの部屋」
狐につままれた思いで、千夏は口を半開きにし、正秋を見上げる。
「おやすみ」
「あー…」
「何?」
正秋は千夏を優しく見つめ返す。
「ううん。別に」
千夏は首を横にふる。
「ゆっくり休んでね」
正秋は笑顔で手を振り、襖を閉めた。




