マシンガントーク再び
その週の土曜日、正秋は教習所へ出かけた。それが終わった後に会うことにして、千夏はオシアスを訪れた。美穂とおしゃべりしながらマットの上にしゃがみ、スマートフォンを眺めた。
「これ。いつか欲しいなーと思ってたら、サブスクであったんですよ」
千夏はそう言って長座したまま、手を足の爪先の方に伸ばす。千夏は膝の裏とふくらはぎが硬いので、運動前に柔軟体操を念入りにやることにしているのだ。美穂も同じ体勢になったまま、画面を覗き込んでくる。
「わあお。エルメスじゃん。サブスクってなんだっけ?」
「サブスクリプション。定額制でレンタルできるサービスです。これはバッグのサブスク」
「えー、いいなあ。グッチもある?」
「ありますよ。人気があるとすぐ借りられちゃうっぽいんですけど…」
「月額いくら? 私も利用してみよっかな」
二人で開脚しながら盛り上がっているところへ、誰かの二本足が千夏の目の前に映った。
「ちーなーつー。こんにちは!」
「…こんにちは」
見上げると、そこに立つのは海李だ。オフだからか髪はくしゃくしゃの癖毛のままだが、メガネではなくコンタクトレンズを入れているらしい。着ているウェアはシンプルなモノトーンだが、どうやらTシャツもパンツもスニーカーもジバンシーで揃えているようだ。途方もなくかっこいいその姿に、うっかり見とれてしまう。
「どうしたんです?」
我に返り、千夏はぶっきらぼうに尋ねる。
「君がここに通ってるっていうから。体験入会したんだよ。ここはまだ築浅みたいだね。うん、これなら振動や騒音にも十分耐えられる。耐久性も高い。特にあのレッスンルームのドアが素晴らしいね。あれだけ遮音性が高いのにそこまで重くないし、開閉しやすいのが大変よろしい」
海李はいかにも設計会社の人間らしく、壁に触れたり、しゃがみ込んで床材に触れたりして、その性質を確かめている。
「相変わらずおしゃべりですね」
千夏はため息をついて半眼になる。
「ごめんね。僕、生まれた瞬間からせっかちでしゃべらずにいられないんだよね。だけど僕の祖母はもっとすごいんだよ。あの人は朝五時には起きて八時の朝食までの三時間、飲まず食わず延々としゃべり続けられるんだ。その間、洗濯物を干したり孫の僕に食事を作ってくれたり掃除したり、手は休まず動いているんだ。それなのに声も枯れず朝食後もまたしゃべり続けてそのまま昼食の時間まで──」
「教室だと静かなのに」
「あれは慣れない作業だから集中してるんだよ。喋っていたら指を切り落としてしまう。刃物を持って板の上で素材を切る、しかもその素材は非常に硬かったり表面がツルツルしていたりヌルヌルしていたり実に多種多様だ。この行為だけでもいくつ気をつけねばならないポイントがあると思う? 僕が思うに──」
「その髪、くしゃくしゃだったり真っ直ぐだったりするんですね」
「ああ、僕はこの癖毛が割と気に入っているんだ。自分らしくていいだろ。だけど父に言われたんだ、清潔感がないって。だから仕事の時は大抵ヘアアイロンを使ってる。僕は料理と違ってアイロンは得意なんだ。まず、毛束を二、三センチくらいとる。アイロンで毛の根本で挟んで、半円を描くようにかけていく。アイロンの温度は高ければいいってわけでもなくて──」
「ちなっちゃん…」
海李のトークが炸裂しているところ、美穂がちょんちょんと肩をつついてくる。
「ああ、美穂さん。こちら、同じ料理教室に通ってる──」
「前田海李と申します。天野さんにいつもお世話になっております」
海李は礼儀正しく美穂に頭を下げる。美穂も同様に下げ返す。
「ねえ、ところで千夏。この器具はどうやって使うの? ハッハッハ。なんだか鉄棒みたいだ。鉄棒といえば僕が逆上がりができるようになったのは小学二年生の頃で、逆上がりだけでなく後ろ周りもセットでできるようになってしまって──」
「ちょっとスタッフの人、呼んできますね。あの、すいませーん…」
千夏は海李の言葉を遮り、すぐそばの男性スタッフに声がけした。だが、そのスタッフはいつの間にやら美穂と談笑している。彼は美穂が前に言っていた、新しい彼氏だ。海李と同世代のようだが、還暦の美穂に夢中なのが傍目に見ても分かる。海李もそれを察したのか、千夏の方に笑いかけてくる。
「なんだかあの二人を邪魔するのも悪いし。千夏が使い方を教えてよ」
海李は楽しそうだが、千夏は居心地が悪い。上っ面は礼儀正しくても、このマシンガントークに付き合う気はない。だけど無邪気な海李を見ていると、四歳くらいの女の子が母親相手にひっきりなしにしゃべっているようにも見え、なんだか許せる気持ちになってきた。
「いいですよ」
それからしばらく海李に付き添い、あれこれとマシンの使い方を教えた。海李は説明を聞いているときは途端におしゃべりをやめ、静かになる。そこが健気で、見てて面白かった。千夏は美穂達がいる方を振り返った。いつの間にか、二人の姿はなかった。
「えー? 美穂さん、帰っちゃったの?」
千夏が一人でぶつぶつ言い、今度はスマートフォンをズボンのポケットから取り出す。正秋からメッセージが届いていて、用事ができたから夕方から会おうとのことだ。千夏が自然とふてくされていると、海李が嬉々としてルームランナーを指さす。
「ねえ、一緒に走ろうよ。僕はハーフマラソンの大会なら出たことはあるし、結構、走れる方だけど。千夏はどうかな? 年は食ってても僕と並んで走るのは君の方が苦労するかもしれない。それに──」
「はいはい」
千夏と海李は隣り合うルームランナーに乗り、それぞれ電源を入れる。海李はゆっくりしたスピードで走り出し、千夏は手すりにつかまって歩き出す。
「いいねえ。あの二人、ジムデートか。ずいぶん歳が離れているみたいだけど、二人の恋人オーラはすごかったね。高校生カップルのような瑞々しさもあるのに、長年の愛を培ってきた熟年夫婦のようでもある。まるで僕の父親と母親のような──」
「彼氏さんの方はここのスタッフですけどね」
「彼女にぞっこんって感じだったね。つまりは美穂さんがたゆまぬ努力をしているわけだ。いいね。僕はね、努力って言葉が好きだ。そして努力は人を裏切らないだろ。こんなに美しい日本語は他に──」
「ですね」
千夏はいい加減な相槌をする。
「海李さん。社長業って、暇なんですか」
「あはははは。そういうわけでもないんだけど。うちには優秀な社員がたくさんいるからさ。千夏もきっと驚くよ。たとえば僕の秘書なんだが、五カ国語を喋れる。さらに護身術とか剣道、カポエラとまあ、色んな武術を心得ているんだ。政治家のSPにでもなった方がいいと思うんだけど、なぜか僕の秘書でいいって言うんだ。免許証もすごくてね、普免に大型、大型特殊──」
「仕事丸投げですか?」
「うん、だね。僕は経営者だし。一番無能なんだ」
経営者というものは気楽に見える。雇われている側はいつも必死で働いているというのに。なんだかムカムカしてきて、千夏はルームランナーの速度を上げる。
「こんなところで油売ってて、社員に怒られませんか」
バンバンと音を立てながら千夏はベルトの上を駆け出す。海李もそれを受けてか、スピードを合わせて並走する。
「土曜日だよ? リフレッシュしないと。遊びには本気で取り組むのが一流。伊達に遊んでないからね僕は。ちなみに先週はピアノコンサートに行ってみたんだが、そこのピアニストの挨拶がまた大変よろしかったんだ。僕はピアノを弾くことは渾身の遊びだと言っていて──」
何を勝手なことを。遊びどころか、海李が仕事にも本気なのは知っている。先日の打ち合わせで見せつけられた仕事モードの顔を、千夏は未だ忘れていない。海李は仕事ができる。だからこそ、社長の椅子に座っていられるのだ。
「ねえ、この後のご予定は?」
「私はデートです」
そうは言ってもまだ昼だ。正秋が会ってくれるまで、あと数時間は暇だ。
「何時から?」
「時間、まだ決まってませんけど…」
「ふーん。彼氏から連絡待ちなの」
「そうです」
千夏ははあはあと息をあげながら前を見る。連絡待ちというのは焦らされるものだ。早く会いたい。この一ヶ月、ずっと一緒にいたから、離れていると落ち着かない。
「じゃあ昼ごはんは僕と行こうよ。僕は全く食通ではないんだが、仕事柄色んな店で食べる機会だけは豊富でね。きっとごく平均的な女性が満足のいくくらいの店には、連れて行ってあげられると思う。和洋中華以外でも色々ある。東京という街は世界で一番グルメな街だ。とても寛容で──」
「えー? だめですよ」
千夏は冷たく笑ってかわす。
「どうして」
「決まってます。私、ウニクロかディーユーかいまむらの服しか持ってない貧乏人ですから」
千夏は、パーティーでバカにされたときの言葉をそっくりそのまま返す。海李はきょとんとしてから、急に合点がいったような顔をする。それから困ったように笑う。
「ごめん、ごめん。僕って子どもの頃からいじめっ子でさ。なんでかっていうと相手を観察しているのが好きで。あー、この人はこういう嗜好性があるんだなとか、色々観察しちゃうんだ。それで──」
「でしょうね」
千夏は話を遮り、プイッと顔を背ける。
「ごめん。怒らないで。本当はあのとき、君が本当に綺麗だったからナンパしたつもりだった。だって仕方ないだろう。気づいたら話しかけていたし、君の着ていたピーコックグリーンのドレスと同じ色の酒を作ってしまっていたんだ。ほぼ無意識だからこれは不可抗力で──」
「へー。ナンパの仕方、もっと勉強した方がいいですね」
千夏は白い目でみる。
「いやはや、実はその通りなんだ。僕という人間は黙っていればいい男なのにと、出会う人出会う人、口を揃えて言うんだ。だから女性からは一分でいいから黙ってって言われるし、この年になっても結婚できないわけなんだけど。あ、また喋りすぎたな。ねえ、ごめん。機嫌直して」
「いじめっ子は嫌いです。そういうのは成敗してきた側なんで」
千夏は何やらだんだんおかしくなってきた。だけどここで笑ってしまうのはもったいない気がして、まだ仏頂面を続ける。
「かっこいいね、千夏は。僕も成敗されてみたいなあ」
ルームランナーの上だというのに、まるで忍者にでも斬られた悪党のようなふりをする海李を見て、千夏は口角をヒクヒクさせる。海李はそれに気づかないのか、とびきり男前な顔で清々しく笑う。
「そう言ってバカにしてんでしょう」
「うわー。君って人は、怒るとますます色気が出るタイプなんだね。そういう女性は日本人女性だと稀有だよね。怒ると可愛いタイプは多くても、ドキッとするタイプは少なくて──」
「は?」
千夏は半ばキレて話をぶった斬り、鼻息を吹きかける。
「褒めてるんだよ。それでさ、本当にお昼、一緒に食べようよ。パーティーのとき、千夏はハンバーガーばっか食べてたよね。小さいハンバーガー。四個は食べてたよ。そんなにハンバーガーが好きなの?」
海李おしゃべりは止まらない。興奮すると、どうもそうなってしまうらしい。それにしてもこの人は記憶力がいいんだなと、千夏はますますおかしくなってきた。頭の回転が良すぎて、知っていること、覚えていることを口に出さずにはいられないらしい。それがどうしようもなく笑えてくる。
「ええ、まあ」
「君があのハンバーガーを食べているシーンを僕は覚えてる。いい食いっぷりだなって思ってて。僕も一つ食べたけど確か中身はビーフパティとレタスとトマトとピクルス。少し辛めのマスタードも入っていた。ねえ、ハンバーガー食べに行こうよ」
もう我慢の限界だ。千夏はついに吹き出し、ルームランナーの電源を切る。手すりにつかまりながら、海李を見上げた。
「ポテトもつけてくださいね」




