一線越えてます風
千夏から引き剥がされた冬馬は、正秋に掴まれた二の腕をさすっていた。
「いってーな。マサさん、勘弁してくださいよー」
「杉崎、お前はそっち座れ。大地さんは杉崎の隣に座って。すいません、お冷やいただけます?」
正秋は強引に冬馬を席移動させ、近くの店員に話しかける。
「なんだよ。奥さんほったらかして浮気してたくせに。ねー、天野先輩、淋しかったんだよねー」
「浮気だなんてちょっと、そんなんじゃないですってば」
楓にはいつものたおやかさはなく、場末のパブ嬢のようにキャハキャハと不快な笑い方をする。
「ハニー、大丈夫かい。はい、お水」
店員が持ってきたお冷を、正秋は芝居がかった仕草で千夏の手に持たせる。
「大丈夫だよ、ダーリン」
千夏もそれに応じて笑い、水をごくごく飲む。正秋はそれを満足そうに眺めてから、冬馬と楓を堂々と無視し、千夏の肩を抱く。千夏は先ほどの嫉妬など潔く忘れ、嬉しくなって素直にニコニコする。周りのテーブル席から冷やかしの声が上がるが、二人とも華麗にスルーする。
「いいな。お二人、羨ましいです」
楓は笑っているが、目が笑っていない。酔いながらもそれに気づいていたが、千夏は知らんぷりして笑い返す。
「はい、大地さん。遅ればせながら入社おめでとうございまーす」
そう言って千夏がグラスをぶつけると、楓はにっこりして頭を下げる。正秋と冬馬もそれに続く。
「ありがとうございます」
「ところで大地さん、最近どうなったんです?」
正秋という居場所を得て、千夏はデカい態度で尋ねる。
「全然、彼氏できないですよ」
楓も調子を崩さず堂々としたものだ。
「合コン、行ってみればいいのに」
「行ってもおばさん扱いされちゃいますよ」
そう言ってマスカラたっぷりのまつ毛をしばたかせ、ここぞとばかりに正秋に色目を使うのを、千夏は見逃さなかった。隣の正秋を見ると、冬馬に勧められて燻製チーズを食べている。正秋は楓のアプローチに気づいているのだろうか。よく分からない。
「おばさんは私も同じ。大地さん、理想高そうですもんね」
千夏は適当に相槌を打ち、巨峰サワーを飲む。
「そんなことないです。私、普通っぽい人が好きなんです」
その普通っぽい人というのは正秋のことか。千夏は軟骨唐揚げを箸でつまみ、口の中でごりごり噛み潰す。これは喧嘩を売られているのだと、千夏は理解する。
「普通っぽい人って、なかなかいそうでいませんよね」
「いますよ。そんなに男、男してなくて、ガツガツしてなくて、ソフトな印象の人」
「そういうのってだいたい、女々しかったりしない?」
「いいえ。そういう人に限って、内面は男らしいってこと、ありませんか」
「そんな人、いるー?」
千夏はわざと下品に高い声で笑い飛ばす。楓はニコニコしながらも、相変わらず目だけは冷たいままでいる。それから千夏ではなく正秋の方に向き直る。
「安田さんは、天野さんのどういうところに惹かれたんですか」
楓は他のテーブル席には聞かれないくらいのボリュームで尋ね、正秋のグラスにビールを継ぎ足す。
「えー…。全部」
正秋の言葉に、千夏は思い切りむせる。冬馬はヒュー、と茶々をいれる。
「いいなあ。でもその中でも、特に好きなところは?」
楓は目を細め、嘘くさい微笑を浮かべる。正秋を横目に見ると、なんと耳まで赤くなっている。その姿に、千夏は胸キュンしてしまう。
「真面目で一生懸命なところ」
「ふーん。営業マンなのに捻りの効いてない回答ですね」
楓が茶化すと、冬馬は思い切り笑う。
「捻り、欲しかった?」
正秋は少し怒って言い返す。
「はい」
「そうだな。じゃあもっとアダルトなこと、言ってもいいかな」
「なんですか、アダルトって」
楓はくすくす笑い出すが、千夏は心臓がバクバクし出す。どうした正秋。変なことは言うな。本当はドMとか変態とか、そういうのは絶対絶対オフレコだぞ。そう千夏が思っていたのに、正秋はふいに千夏の巻き髪をかき上げる。
「ほら。ここの、うなじ。最高にセクシーなんだ。あと、首から肩、腕にかけてのこのライン」
正秋が首筋から肩、二の腕を指先でツーッとなぞる。千夏はビクッとして正秋を脇へ押しやった。
「ちょっと」
「ハハハ。奥さんに怒られちゃった。まあ、そういうとこが死ぬほど好きなんだ」
正秋は豪快に笑うが、楓も冬馬も引きつった笑いを返した。
歓迎会が終わり、正秋は堂々と千夏の手を引き、誰よりも早く店を出た。背後から社員達からは懲りずに冷やかされたが、千夏も元気に手を振った。が、皆の姿が見えなくなった途端、千夏は正秋の二の腕をグッと掴み、自分と向かい合わせた。
「ちょっと、さっきのどういうつもり」
千夏が目を逆三角形にして問い詰め、荒々しく鼻息を吐く。
「どうって何が」
正秋はイタズラ好きな少年のようにひょうひょうとしている。
「変なこと言わないでよ」
「変なことって、さっきのアダルトうんぬんのやつ?」
「そう」
千夏はがなりたてた。
「でもさー、あんだけ言っとけばよくない? 未練タラタラ男もいたしな」
「あー…。うん」
なんだか自分にも落ち度があったような気がして、千夏は少し反省する。そうだ、さっきそう願ったじゃないか。正秋の前で拗ねたくない。優しくありたい。千夏は上目遣いで正秋を見る。
「他の人に、触らせてごめん」
「俺もごめん」
正秋は素直に謝り、顔をポリポリとかく。
「…でも、なんか、私達がもう一線越えてる風に言わないでよ。恥ずかしい」
千夏はそう言葉にすると、余計に恥ずかしくなった。目の前に好きな男がいて、早く愛し合いたいのにそれが叶わない。なのにそれが叶っているかのようにふざけて言う正秋には腹がたつ。でも、憎めない顔をするからそれにも腹が立つ。
正秋は千夏の身長に合わせて首をかしげる。今にも唇同士が触れそうな距離になる。千夏は思わず目を閉じた。
「あれ。千夏は一線越えてません風がよかったの?」
千夏は目を見開いた。ブンブンとバッグを振り回すと、正秋は面白がって駅の方へ逃げていく。二人はワーワー言い合いながら、夜道を追いかけっこした。




