自動車免許
千夏は正秋肩をグッと引き寄せられたまま、歩調を合わせて早足で歩いた。
「ねえ。正秋、なんか誤解、してない?」
千夏は頑張って同じ歩幅で歩こうとする。が、正秋の方が背が高いので合わせるのが大変だ。
「してない」
「海李さんと何もないよ」
「ああ」
「あんなセレブに、私なんかが相手にされるわけないじゃん」
「分かってるよ」
正秋はムキになって声を荒げる。千夏は正秋の横顔を見つめるも、正秋は見返してくれない。明らかに機嫌が悪い。正秋が嫉妬するのは今回が初めてではないが、こんなにご機嫌斜めだと千夏は幾分、動揺する。
千夏は数時間前に下見した、前田設計の公式ウェブサイトを思い出す。以前の千夏はそこそこ大きな会社だという認識だったが、サイトをじっくり見たところ、実態はそれ以上だった。
前田設計は四百人の従業員を抱え、都心の一等地に事業所を構え、前年度の売上は八十億円を突破し、今なお右肩上がりで成長している。近年は都内だけでなく、全国各地の商業施設やオフィスビル、ホテル、大学、劇場、高層マンションなどを設計し、数々の建築設計アワードを受賞し、この頃は東アジアを中心に海外にも徐々に事業展開しているらしい。設計事務所の国内売上ランキングで常に上位をマークしており、一流企業以外の何者でもない。海李本人は先代社長の長子らしく、社長に就任してからまだ日は浅いようだった。千夏はそうとは知らず、同じ料理教室へ通う仲となったのだ。
「じゃあ、お願い。怒んないで」
千夏は弱々しく言って歩みを止め、地面を見てうつむく。正秋は千夏を振り返り、バツが悪そうな顔をし、頭をガリガリ掻く。
「ごめん…」
千夏が少しためらいがちに見上げると、正秋は申し訳なさそうな顔になる。
「千夏は海李さんって呼ぶし、向こうも千夏、って仲良さそうに話しかけてくるから、ムカついたんだ」
「ごめん。たまたまだよ」
とはいえ、なんで千夏と呼び捨てされるのか。千夏はパーティーのときどんなことを話していたか思い出そうとするが、酔っていたから断片的にしか思い出せない。
「それに、杉崎。あいつ、なんなんだ。露骨に俺のこと怒らせようとしただろ」
「さあ…」
「あいつこそ、千夏に未練ありそうだよな」
正秋は千夏の両肩に手を置き、イラついた様子で千夏の顔を見つめる。
「大丈夫だよ。何もない」
と言いつつ、図星だ。冬馬からはそれとなく、楓のいる前で口説かれた。が、余計なことを言って、正秋とややこしくなりたくない。私が好きなのは正秋だ。
「俺からもお願いしてもいい?」
「何?」
「他の男にあんま、ニコニコしないで…」
正秋はどうにか声をしぼり出し、千夏の肩にしがみつく。正秋が子犬の目をして懇願する姿は、地球上の誰よりも何よりも、どんな犬よりも可愛げがある。愛しい愛しい私の彼氏だ。だが千夏は勇ましい顔になり、ビシッと前方を指差す。夕闇の中で、煌々と光るそれは、おなじみ激安スーパー、だいふく屋の看板だ。
「分かった、正秋以外にニコニコしない。ね、今夜は私にご飯作らせてよ。復習したいんだ」
千夏は笑顔をつくり、だいふく屋へ正秋を引っ張った。
二人は買い物を済ませ、正秋のマンションへ帰った。千夏がキッチンに立ち、買ってきたゴマサバの切り身をボウルに入れ、ポットから熱湯を注ぐ。まずは生魚の汚れや臭みをとる作業「霜降り」からだ。
「ねえ千夏。それでさ」
室内着に着替えた正秋が、こちらに近づいてくる。千夏が見ていると、千夏の後ろから手を回し、優しく抱きしめてきた。機嫌は直してくれたらしい。
「どうしたの?」
「先週の埋め合わせ、したい。映画、行こう」
正秋は千夏の肩に顎を乗せ、困ったような顔で笑いかける。
「あー。別にもう、いいよ」
千夏は苦笑しながら、菜箸でボウルの中をかき混ぜる。特に見たいと思った映画ではない。なんとなく二人で映画デートをしてみたかっただけだ。
「本当に? じゃあ何か欲しいもの、ある?」
マジか。給料が良くないと、こんな質問はできない。こういうとき、ここぞとばかりにエルメスのバーキンをねだれたらいいのに。長年の節約生活が根付いてしまい、千夏にはとても言い出せない。
「うーん。そういうのはない」
「本当? バーキンじゃなくていいの?」
まさかのバーキンが正秋の口から飛び出してきて、千夏は激しく吹き出す。正秋もくすくす一緒になって笑ってくる。正秋の言うことは本気なのか、冗談なのか。分からないことがとても多い。いずれにせよ、価格が普通車一台分と大差ないバーキンなんぞ自分には見合わない。どうせなら、モノじゃない方がいい、どこかに出かけたいと思いかけた時、先ほどの車内を思い出す。
「バーキンよりどこか出かけたいな」
「おでかけ?」
「うん。一緒にしたいことがあるから」
「どんなこと?」
正秋は首を傾げ、千夏と目を合わせてくる。
「車に乗っていろんなところ、出かけたい。絶景、見るのが好きだから」
千夏はボウルに差し水をしながら、鳥取砂丘で見た素晴らしい眺望を思い出す。あの何もないのに何もかも満たされる世界観が、急に恋しくなる。車があればもっと自由に、気楽に旅ができる。それから、先ほど冬馬が運転していた姿や、釣りや海へ連れて行ってもらったことまで思い出す。もろもろ苦い思い出となったが、車で出かけること自体は楽しい。田舎では車移動が基本でも、都内に住んでいると疎遠になる。正秋とはいつも電車移動だ。だからこそ、やってみたい。
「車で、かあ。この前も絶景に目がないって、言ってたよな」
正秋は急に大真面目な顔になり、腕を組む。
「うん。私、これでも一応、免許持ってるし。ペーパードライバーだから練習しなきゃだけどね。レンタカー借りてドライブもいいかなー、なんて」
千夏はサバの鱗をゴシゴシ擦り洗いしながら、緊張気味に笑う。正秋はそれにつられず、まだ真面目な顔を継続している。
「そうそう、でも、車持つと出費が増えるよね。うちら一人暮らしだし。貯金できなくなっちゃう。冬馬はね──」
カーシェアしてるんだって、うちらもそうしようよと言いかけて、千夏は慌てて口を塞ぐ。だが、正秋はそれに反応するどころか、何やら考え込んでいるようだ。
「正秋、どうしたの」
「千夏も料理教室で頑張るってことだし…」
「正秋?」
「俺も前から欲しかったし…」
「うん…?」
「頑張ろうかな」
正秋はぶつぶつ言い、顎に手を当てる。そんな姿を怪訝に思い、千夏は眉間にシワを寄せる。
「何を?」
「よし、決めた。俺、ひとまず教習所に通うよ」




