前田設計の社長
木曜日は少し残業してから、千夏は正秋のマンションへ向かった。正秋の方が先に帰宅していて、料理しているところだった。
「いい匂いだね」
「鶏のソテー。塩こしょう味と生姜醤油味、どっちがいい」
キッチンに立つ正秋が千夏に笑いかけ、鶏もも肉に包丁を入れる。
「生姜醤油味」
千夏は正秋のすぐ隣に立ち、その手さばきを見学する。どうやら包丁も研いであるのか、切れ味がいい。
「料理教室、どんな感じなの」
正秋はカットした肉をボウルに入れ、手を水道水で洗う。
「すごく雰囲気がいいよ。先生優しいし。生徒さん達もね」
千夏も隣でボウルを洗い、女子らしい可愛い笑顔を送り返す。
「へー。女の人ばっかり?」
「ううん。男の人もいたよ」
「へー。俺と同じ料理男子か」
「正秋みたいに上手じゃないから、通ってるんだよ。今どきは珍しくないって先生、言ってた」
「そうなんだ」
正秋はチラリと千夏を見て微笑み、冷蔵庫から生姜を取り出す。
「ねえ、正秋。今から宣言しちゃってもいいかな」
「何を?」
「私。正秋の誕生日に茶碗蒸し、作るから」
「えー。すっごい楽しみ」
正秋はおろし金で生姜をすりおろしながら、少年のように目を輝かす。その笑い方がとても好きだと、千夏は改めて思う。
「そのために通ってるんだから。待ってて」
千夏も手を洗い台布巾を絞る。それでローテーブルを張り切って拭く。
「うん。期待してる」
「絶対、美味しいの作るから」
千夏は約束した。
翌日の金曜日、千夏と楓は長谷川からミーティングルームに呼び出された。
「悪い。今日だけ外出してくんないかな」
「え? どこですか」
長谷川が両手を合わせてウインクするのを、千夏はためらって少しのけぞる。
「夕方五時から、前田設計。松本さんが今日、ご家族に不幸があったらしくて」
「あー…」
千夏は小さく唸る。松本は普段からヒロイン・デザインが懇意にしているフリーランスの動画制作者だ。前田設計の次の仕事を受注できたら、制作を請け負ってもらう予定になっている。
「でも、それだったらリスケしたら良くないですか」
「そうもいかなくてさ。あ、きたきたマサ君。杉崎君もこっちきて」
長谷川は部屋に入ってきた正秋と、少し離れたところにいる冬馬を手招きする。千夏は二人を一瞥してから、タクシーサイネージのラフを見る。
長谷川の説明によると、どうやら前田設計からは前回の会社案内のパンフレットを気に入ってもらえたらしい。それは冬馬が制作したもので、本人もそれを「過去最高傑作」と言うほどよくできたパンフレットだ。トラブルに見舞われながらも、千夏と冬馬が頑張って印刷屋を探し、クリエイターの日本最大級イベント「クリエイティブEXPO」の本番に間に合わせた大切な作品でもある。
それに続く第二弾として、前田設計は車内のモニターを通じて広告を流す、タクシーサイネージを検討しているらしい。タクシーを日常的に利用するのはビジネスパーソンの中でも富裕層がメインだし、企業内で決定権を持つ人間が大半だろう、だからこそそれを活用したいのだろうと、千夏は想像する。そこへ、正秋と冬馬も遅れてやってきた。正秋は緊迫した様子で千夏と向き直る。
「千夏。こういうのってタイミングが大事でさ。約束通り仕事を任せたいけど、詳しい話を聞きたいって言うんだよ」
約束というのは、レセプションパーティーのときの約束か。だったら絶対にそれは受注しなければ。千夏は正秋を見つめ返す。
「クライアントの気が変わらないうちに、すぐ商談に持ってかないと売り上げに繋がらないんだ。動く金額もデカいし、機会を逃すわけにはいかない。金額的なことは俺が説明する。ビジュアル面の説明は杉崎に頼んである。撮影と動画編集は松本さんにお願いするけど、素材作りとレイアウトは杉崎が担当するから。な、杉崎、頼むぞ」
「うっす」
堂々とした冬馬に正秋は安心した様子になり、再び千夏に顔を向ける。
「千夏には具体的なスケジュールの話をしてほしいんだ。いつくらいに撮影が入って、初校が上がって、先方にどのタイミングでチェックしてもらうかとか、一連の流れを話してもらいたいんだ」
「なるほどね、了解」
スケジュール管理は千夏の真骨頂だ。対象が紙媒体だろうが動画だろうが、それぞれの制作者の力量からおおよその判断はできる。当然、松本とも何度も仕事をしているから、感覚的に作業時間もわかる。入社まもない楓にはそれはまだ把握できないことだから、そこを補佐しろという話だ。
「ここの広報部の部長がなかなか忙しい人でさ。明日から海外出張っぽくて。今日来てもらえないかって言われてんだ。だから、頼む」
「わかった」
千夏が請け負いながらも、緊張して口をキュッと結ぶ。
「じゃあ天野さん、急遽だけどお願い。俺が行ければいいんだけど別件でこの後、外せなくて。ねえマサ君、営業車、今日空いてるなら使いなよ」
長谷川は階下を指差す。営業車を使う営業は少なく、ヒロインデザインが所有する車は一台だけだ。
「午後は空いてます。でも俺、免許持ってないんですけど」
「そっか…」
長谷川が顔をポリポリかいているところへ、冬馬が手を挙げ、笑顔で申し出た。
「俺、運転しますよ」
その日の午後四時半に、冬馬が運転する車に千夏と正秋、楓は乗り込んだ。浜松町駅からほど近いそこは、大手設計事務所らしく、自社ビル自体もデザイン性が高く、鉱石や何かの天然繊維など、壁や天井に様々な素材をあしらった個性的なエントランスに千夏はしばし見とれた。少し経ってから若い男性社員が受付に現れ、四人は応接室へ案内された。数分後、五十代くらいの男性が部屋に現れた。
「ご足労いただきありがとうございます。広報部部長の浜口です」
浜口が千夏と楓に向けて名刺を差し出す。ハッと我に帰り、千夏も名刺をケースから取り出し、慣れない手つきで差し出す。正秋と冬馬はすでに一本、仕事をしているから、名刺交換が済んでいるらしい。
そのとき、ドアをノックする音が聞こえてきた。浜口がドアへ歩み寄って顔を出すと、何やら慌ただしい様子で会話をし始める。話しぶりから言って、相手は浜口の上司のようだ。
「すみません、邪魔はしませんので、同席させていただいてもよろしいでしょうか」
別の男性の丁寧な声が、部屋の外から聞こえてくる。
「あ、はい」
正秋が緊張気味に返事すると、浜口に連れ立って別の男性が入ってくる。男性は四十代くらいで天パの髪、丸メガネをかけている。正秋も冬馬も頭を下げるが、千夏は思わず口をポカンとあけた。楓も彼に気づいたようで、あっと小さく声を上げる。
「やっぱり」
浜口のすぐ横に立つカイリが微笑み、何か納得したような顔をする。
「カイリさん」
千夏は当惑しながら、目を丸くする。そんな千夏にはお構いなしで、海李は真っ先に名刺を差し出す。
「はい。代表の前田海李と申します」
他の四人が驚いて見つめるなか、海李は早口で挨拶し、千夏はそれを受け取る。名刺には「代表取締役CEO 前田海李」とある。そうか、カイリというのは下の名前だったのか。千夏も自分の名刺を海李に差し出す。海李は他の三人とも名刺交換した後、千夏の名刺をまじまじと見つめ、読み上げる。
「ヒロイン・デザイン、制作部、進行担当の天野千夏さん。ご訪問、嬉しいです」
「社長、お知り合いなんですか」
浜口が興味深そうに海李と千夏を交互に見る。海李はニコニコして、メガネを外す。その素顔に、千夏は二度驚く。
「ああ。レセプションのときにも。料理教室でも会ったね」




