料理教室
翌日、千夏は満を持して、ヒロイン・デザインの階下にできた料理教室「タカコクッキングスタジオ」を見学することにした。
千夏はあえて通うことを公言してみた。後になってから通っているのが社員にバレるのは恥ずかしいと思ったからだ。すると、意外にも楓が興味を示したので、就業後に一緒に見学へ行くことになった。
同ビル五階の「タカコクッキングスタジオ」では会員が他に三人いて、講師の説明に耳を傾けていた。
「出番の多い料理から、自分のものにしていきましょう」
五十代と思われる女性講師、前田孝子が朗らかに言う。今日作るものは白ごはんと鯖の味噌煮、卵焼き、夏野菜の千切りサラダ、オクラと豆腐の味噌汁らしい。
「見学の方もせっかくですし、どうぞ。一緒にやりましょう」
孝子はそう言って微笑み、窓際にあるアイランドキッチンの前へと千夏と楓を呼びつける。そこでは癖毛でメガネをかけた冴えない中年男性が、おぼつかない手つきできゅうりを千切りしている。いかにも料理初心者らしく、きゅうりの幅は太くてバラバラだ。
「すみません、お邪魔します」
千夏が愛想よく笑って頭を下げると、男性は顔を上げ、しばらく千夏を見つめてくる。千夏は不審に思ったが、男性はすぐに愛想のいい笑顔に切り替えた。
「いえいえ。これ、どかしますね」
男性は照れているのか少しぎこちなく言い、千夏のそばにあるサラダボウルを手に取り、自分の前に置く。
「それじゃ、天野さんと大地さんはニンジンの千切りからやりましょうか」
孝子の声かけのもと、千夏と楓は手を洗い、調理を始めた。
孝子は的確な指示を飛ばし、千夏達を指導した。野菜の洗い方から包丁の持ち方、切り方、出汁の取り方など日頃、千夏が日頃いい加減にやっていることを丁寧に、かつ手際よく実演してみせた。流れるような無駄のない動きは、正秋がお好み焼きを作るときのようだと、千夏はほとほと感心した。自分もこんなふうに手早く上手になりたいと、素直に思えた。
千夏は気まぐれに隣を見た。同じキッチンで調理していた男性が、鯖の味噌煮を完成させた。焦げついて煮崩れしたそれは、お世辞にも良い出来とはいえなかったが、親近感が湧いた。
「美味しそうですね」
千夏がお世辞を言うと、男性は少し驚きながらも微笑んだ。
「いやいや、先生に言われた通り、やったはずなんですけど。微妙です」
「美味しそうですよ」
そう言った瞬間、千夏の腹の音が勢いよく鳴る。可愛くグーとか、キューならよかったのに、ゴオオ、とはなかなかに暴力的だ。恥ずかしさでフリーズしていると、男性も楓も声を立てて笑う。ちょうどそのとき、孝子が部屋の正面に立ち、パンパンと手を叩く。
「では、皆さんで一緒に食べましょう」
男性と孝子が手分けして、千夏や楓も食べられるように皿に取りわけてくれ、それをいただくことになった。
「美味しいです。ね、大地さん」
本当は少し生臭いと思ったが、千夏はあえてにこやかに褒め称える。
「はい」
一方、楓は儀礼的なつくり笑いで賛同する。男性は申し訳なさそうに笑い、礼儀正しく頭を下げる。
「いやいや、すみません。おかしいな、ちゃんと『霜降り』の手順はやったはずなのに、臭みがありますね」
千夏はふと、そばのまな板の上に生姜が乗っているのに気づく。さっと立ち上がり、生姜を皮ごとすり下ろす。
「どうしたんです」
楓は少し怪訝な顔で千夏を見上げる。
「ほら、これを少し足しましょうよ」
千夏はすり下ろした生姜の入った容器を、男性と楓の前に突き出す。二人はそれを少しずつ摘み、味噌煮のなかに混ぜ入れた。清々しい爽やかな香りが立ちのぼる。
「あ。こっちの方が断然いいですね」
男性は感心して笑顔を向け、楓も控えめに頷いて同調する。
「へへへ。誤魔化すのは得意なんですよ」
そう、千夏は料理そのものは得意でなくとも、誤魔化すのは得意だ。そこへ孝子がやってきて、海李の味噌煮を味見した。
「生姜がよく効いてていいわね」
「ありがとうございます」
男性は孝子と千夏に向かって、礼儀正しく頭を下げた。
「どうですか、この教室」
孝子がテーブルから離れた後、千夏は料理の続きを食べながら男性に尋ねる。
「楽しいですよ。難しいときは手伝ってもらえるし。あちらの方達はもう少し早く入会したみたいで」
男性は別のアイランドキッチンの方を指さして言う。そこでは若い女性と中年の女性が、孝子とともに談笑している。
「何を作れるようになりたいんですか」
「僕の場合は完全に息抜きです」
「息抜き?」
「はい。会社と家の往復になっちゃってて。何か新しいことをやりたいなーと思って、たどり着いた先がここでした」
海李はにっこり笑った。
その後、三人は食事をした後、千夏と楓は孝子に入会の意思を聞かれた。楓は見送ったが、千夏は入会を申し込むことにした。先に帰る楓に手を振り、千夏は孝子の説明を聞き、申し込み用紙に記入した。それから挨拶して、教室を後にした。
エレベータの前で、千夏は先ほどの男性と会った。
「先ほどは助けていただいて、ありがとうございました」
男性が礼儀他正しく頭を下げると、千夏もそれに倣う。
「いえいえ。こちらこそご馳走様でした」
「ちな…いや、駅まで行くんですか」
「はい」
「そっか。僕、自転車なんで」
男性は、そばにある自転車を指さす。
「お近くにお住まいなんですか」
「はい」
都心に住んでいるとは、富裕層なんだな。千夏はそう思い、男性をそれとなく観察する。左手の薬指に指輪はないので、独身らしい。喋り方も少し不自然で、ウブな感じがするから、女慣れしていないのだろう。だけどそれには気づかなかったふりをして、千夏は明るい笑顔を向けておく。
「僕、カイリって言います。失礼ですけどお名前は」
カイリは愛想よく尋ねてくる。変わった苗字だな。千夏はそう思いながらも、失礼のないように曖昧に頷く。
「こちらこそ失礼しました。遅ればせながら、初めまして。天野です」
「えー。ああ、初めまして。よろしくお願いします」
カイリは愉快そうに笑い飛ばす。メガネの奥の瞳がいっそう生き生きし出したように見えたが、千夏には何故か分からない。
「料理教室に通われてる旦那様を持って、カイリさんの奥様は幸せですね」
「ははは。僕、独身なんです」
「そうなんですかー。意外」
千夏はわざと驚くふりをして、笑顔を継続する。
「ちょっと会社をやってまして。気づいたらこの歳です」
なんと、会社経営者か。背が高く、髪は天パでくしゃくしゃして、丸メガネをかけていて冴えない印象だ。でも、よく見ればなんとなくオシャレだし、アーティストっぽい感じもする。仕事人間が料理の趣味に目覚めたんだな、きっと週末には高級マンションに独身貴族を集め、高価な食材をふんだんに使い、料理を振る舞っているんだろうと、勝手な想像を巡らす。
「そちらは、ご職業は?」
カイリが質問を返してきて、千夏は頭を振って想像を打ち消す。
「あー、しがない会社員です」
「そうでしたか。偉いですね。仕事の後に料理教室ですか」
「はあ。彼氏の方が料理上手なので。私も上手になりたいんです」
「そんなの、男に任せりゃいいのに」
カイリは大きな口で豪快に笑う。千夏はその笑いっぷりが気に入り、自分も一緒になって笑う。
「ですよね。でも彼、料理上手な女性が好きみたいで」
「自分と同じレベルじゃないと嫌とでも?」
カイリは不快そうに鼻にシワを寄せる。
「そこまでは言ってきませんけど」
「今の時代、共働きが多いでしょ。夫も妻も仕事と家事、分担しなきゃ家庭は回らない。だったら男の方が料理上手だろうが、妻が下手だろうが、家事を回せてれば問題ないんですよ」
カイリはにわかに早口になり、力強く言う。千夏はなんだか力を得て、神妙に頷く。
「まあ、そうですよね、確かに」
「ええ。僕だったら仕事は彼女に全部押し付けて、毎日、キッチンにこもって鯖の味噌煮作っちゃいますけど」
「毎日、鯖の味噌煮なんだ」
千夏はおかしくなって笑う。カイリも一緒になって笑った。
「練習あるのみです。天野さんは来週から正式に入会ですか」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。では失礼します」
カイリは颯爽と自転車に股がると、手を振って去っていった。




