プール
自宅のアパートに到着後、千夏は豚肉とキャベツを使って、オイスターソース炒めを作った。それなりに一生懸命作ったのに、味付けが上手く決まらなかった。なのに、正秋は嬉しそうに完食してくれた。
「ごちそうさま、おいしかったよ」
正秋は食器を手早く集め、流しへと運ぶ。
「いいのに」
「これくらいさせて」
正秋は千夏の静止するのを聞かず、スポンジに洗剤をつけて洗い始める。
「ありがと」
「こちらこそありがとう。それよりお嬢さん、支度は大丈夫なんですか」
支度、と言われて緊張する。これから二人はプールへ行くのだ。ムダ毛の処理も完璧だし、ペディキュアも塗り直してある。
一つだけ問題がある。水着のサイズが、思ったより小さかったのだ。一時期かなり痩せていたからそれに合わせて買ってしまったが、そのときより肉づきが良くなっていたらしい。それでも着られないことはないし、大丈夫だろうとタカをくくり、千夏は正秋と家を出た。
戸外はセミが激しく鳴き競う炎天下だった。区立のプールは千夏のアパートから歩いてそう遠くないところにあった。運動公園に併設する屋外プールで、二十五メートルの競泳用プールと水深の浅い幼児用プール、それらを取り囲む流水プールで構成されていた。盛夏らしく家族づれや若者達で混雑していて、女子ロッカールームも猛烈な人いきれがしていた。千夏はそこで水着に着替え、鏡の前で黒い巻き髪をポニーテールにした。それからロッカールームを出て、待っていた正秋に声をかけた。正秋は太っていないし、ひょろっとした体にハーフパンツ型の黒い水着を着ていた。その正秋は千夏の白いビキニ姿を見て、雷に打たれたような顔をした。
「千夏…」
「どうかな」
千夏は少し照れて正秋の真正面に立つ。ブラもビキニパンツも少し窮屈で落ち着かず、モジモジしてしまう。長年、デブとして生きていたのでビキニ自体が人生初だ。ミニスカートなんて比にならないくらい恥ずかしい。それに、自分はもう三十三だ。それでもまだイケるか。大丈夫か。千夏は悶々としながら、時々正秋をチラ見する。
「ちょっ…。目のやり場に困るよ」
正秋は耳の先まで赤面し、千夏の手をひっしと握ると、流水プールへずんずんと歩いていった。
二人はプールを楽しんだ。浮き輪に乗ってぷかぷか浮いたり、水をかけあったり、潜ったりしながらはしゃいだ。
「よーっしゃ、スピード出すぞ」
正秋は千夏が乗っかっている浮き輪を掴み、水底を勢いよく歩き出す。千夏は浮き輪に揺られながらふと、冬馬と海でずぶ濡れになったときのことを思い出す。あのときは自分が一方的に海へ引き込んだのに、今は正秋が浮き輪をグイグイ引っ張り、楽しませてくれる。
「もっと出して」
「言ったな」
正秋は子どもたちの間を縫うように進み、ますますスピードを上げる。千夏は少し怖くなって悲鳴をあげる。浮き輪はコーナーを曲がりきれず、遠心力に負けて転覆した。
水中に放り出された千夏は、ほぼうつ伏せの体勢で、水底付近でバタバタと暴れる。近くにいる子どもたちの手足にぶつかったり蹴られながら、何とか水面に向かおうともがく。鼻がつうんとして痛い。すると背後から誰かが自分に触れ、力強く抱き上げてくる。ザバアという音とともに、千夏は水面から顔を出した。
「お嬢さん、無事だった?」
すぐそばで正秋の顔が見える。屈託のない笑顔を浮かべ、千夏の背中と膝裏に腕を通し、しっかり抱っこしている。千夏は急に安心して、くすくす笑い、正秋の肩に両手を回す。
「すっごく怖かった」
たっぷりプールを楽しみ、それぞれロッカールームで着替え、二人はプールを後にした。重くなったプールバッグを抱え、二人は途中で沙耶香の働くドラッグストア「スマイル薬局」に立ち寄り、冷たいドリンクを手に取った。ちょうど沙耶香がレジにいたので、千夏は正秋を紹介した。
「わー、初めまして千夏の友達やってます、沙耶香です」
「初めまして、安田です」
二人は少し緊張した様子で挨拶をし合う。
「それで? プールの帰り? キャー、うらやましー」
「へへへ。楽しかったよ」
「ねえ。マサーキ君、写真より実物のが可愛いじゃん」
沙耶香がいきなり千夏の体を引き寄せ、耳打ちしてきたので、千夏はドヤ顔で返す。
「でしょ」
「あ、お客さん来たから。また遊ぼうね」
そう言う沙耶香に千夏は手を振り、正秋とともに店を出た。
二人はアパートにつき、床の上に腰を下ろした。
「あー、しんどかった」
正秋が顔を片手で覆い、ため息をつく。
「はしゃぎ過ぎだよ」
千夏は笑いながら、ペットボトルの水を飲む。
「それもあるけど、それだけじゃない。修行かよ」
「何が?」
「だって…」
正秋は急に恨みがましそうな顔をする。千夏は訳が分からず、その顔を見返す。
「あんな水着、着てくるとか…。反則だよ」
「えー。ねえ、可愛いすぎてずるい?」
正秋の口癖を、千夏が引き継いで言う。
「だよ。想像のはるか上」
正秋は口を波打たせて頷く。
「沙耶香もねえ、正秋のこと可愛いじゃん、って言ってたよ」
「あー。それって褒められてんのかなー、ハハハ。よくわかんないけどありがとう、沙耶香さん」
正秋は目を閉じたまま笑う。それからゆっくりと目を開ける。
「それでも、俺の彼女が一番可愛いの」
正秋の視線は絡みつくようだ。
「思ったより水着がちょっときつくて、肉が食い込んじゃって。でもウエストは鍛えたからいい感じだと思ったんだー。ね、私って正秋のお腹よりよっぽどくびれがあるでしょ」
千夏が機嫌よく笑いながら、正秋の脇腹の肉をTシャツ越しにつまむ。するとその手首は正秋の手ですぐ捕まった。
「俺がどんだけ我慢したと思ってんだよ」
「んー。じゃあ我慢しなくていいよ」
千夏はあっけらかんとしてすぐそばにあるベッドを指さす。
「ちょっと。もー。そんな、堂々と誘惑しないで」
「どうして?」
自分はもういつでも準備万端だ。だから水着姿を見せてる。本当だったら勝負下着だって見せたい。そうだ、昨日洗濯したのが乾いてる。だから今からトイレに行ってそれに付け替えて──。
千夏が想像を巡らせていると、正秋は千夏の手首をさらに引き寄せ、真剣な目を向けてくる。
「分かってないよね。俺、千夏のこと、めっちゃ大好きなんだよ。ほんっとうに、いつも可愛すぎて、ズルい。すっごく大切にしたい。だから…」
泣きそうな声で言って頭を垂れる正秋を、千夏はじっと見つめる。窓の外で車が通り過ぎ、自転車が追い越していく音がする。近くの家からは風鈴の音が聞こえてきた。千夏は窓の外をみる。太陽が泣きそうなほど赤く輝き、徐々に沈もうとしている。
急に幸せな気持ちになった。千夏は正秋を抱きしめ、その背中をポンポン叩いた。
「正秋こそ、可愛すぎてズルい。しょうがないから、大切にされとく」