物欲
翌日の土曜日、千夏は自宅のアパートで家事に明け暮れていた。
前夜はあんなにいい雰囲気だったのに、勝負下着は吐瀉物まみれになってしまった。それに、本当だったら今日は二人で映画に行く予定だった。だけど正秋は強烈な二日酔いに襲われていて、行くのは取りやめにした。正秋自身はずっと具合悪そうにして、ずっと千夏に謝っていた。謝りながらも、ベッドから起き上がる気配がなかった。
「大丈夫?」
千夏は勝負下着と正秋の衣類を洗濯して干し終え、家の中を掃除機がけをする。
「うーん、ごめん。大丈夫じゃない」
正秋は千夏のスエットを着て横向きになり、両目を片手で覆い、しんどそうに答える。
「胃薬、飲む?」
「うん、ごめん。ありがとう。この埋め合わせは必ずするから」
正秋が少し上体を起こしたので、千夏は水の入ったコップと粉薬を手渡す。正秋はそれを受け取り、一気に口へ流し込んだ。それから千夏の方に背を向ける形で体を横たえ、うずくまる。一体、昨日は何杯飲まされていたのか。
掃除機がけが終わったので、次はトイレ掃除だ。それも早々に終わり、今度はキッチンへ行って麦茶のティーバッグと水をポットに入れ、冷蔵庫のドアポケットに収納する。それも終わってシャンプーやハンドソープの詰め替え作業をする。
「千夏は手際がいいね」
いつの間にか正秋は寝返って、こちらを見ている。少し顔色がよくなったらしい。
「私って面倒くさがりだから、気が向いた時に一気にやっちゃうの」
「そっか。今日ありがとう。一旦帰るから明日、俺のことこき使ってよ」
「ちょっと、それが埋め合わせっていうんじゃないでしょうね」
千夏が正秋の頬をつねると、正秋が力なく笑う。
「まさか。それはまた後日」
「本当? じゃあ明日は、だいふく屋の前に九時半集合ね。そこの角の店舗」
千夏は正秋にチラシを見せつつ、窓の方を指さす。
「だいふく屋? ああ、了解」
「だいふく屋」とは、千夏と正秋御用達の激安スーパーマーケットだ。正秋は何を手伝わされるのか心得た様子でにっこりする。
「それと──」
千夏は部屋の隅を見る。そこには勝負下着と一緒に買った水着が、箱に入ったまま置いてある。
「午後からプール、行きたいな」
「プール?」
「あの。水着、買ったの」
言うだけでなぜか照れてしまう。正秋と目を合わせられない。何となく正秋の胸元あたりをみていると、その胸元が近づいてくる。
「めっちゃ楽しみにしてる」
正秋は千夏に軽くハグし、玄関を出て行った。
翌朝、千夏と正秋はだいふく屋の前の列に並んだ。この日は数ある特売日の中でも「メガ特売日」に指定され、一年の中でも四回しかない最重要日だった。チラシによるとポイントカードを持つメンバー対象に、開店時刻から一時間限定で、全品が二十パーセントオフになるとチラシに掲載されていた。さらに数量限定で目玉商品も用意され、今回は卵ひとパック十円、キャベツひと玉五十円、一キロ入りの豚こま肉が百円など、その他もろもろが破格で売られるというから、節約家の千夏としては絶対に外せない日だった。おひとり様につき一点限りとあるので、正秋を召集したわけだが、千夏は戦々恐々としていた。開店時間は十時で、その三十分前にやってきたというのに、すでに先客が三十人ほど並んでいた。
「あー、買えるかな」
千夏は歯ぎしりしながら、前に並ぶ客の背中を睨みつける。
「大丈夫だよ。何買うの」
楽観的な正秋は鼻歌を歌う。
「豚肉でしょ、卵でしょ、キャベツでしょ。あと調味料とか、お買い得なやつ」
千夏は指折り数えながら鼻息を荒くする。
「お待たせしました、開店です、いらっしゃいませー」
店員の合図とともに、客達が一斉に店へなだれ込んだ。千夏も正秋も流れに任せた。
数十分後、千夏と正秋はだいふく屋のレジ袋を両手に提げ、店を出た。
「ありがとう。これでしばらく食費が浮く」
千夏は正秋に向かってニンマリ笑う。
「どういたしまして」
正秋はそう言いながら、ショッピングカートを片付けている店員のおばさんに手を貸す。
「スーパーって物欲の発散の場でもあるんだよね」
「千夏はそんなに物欲あるの」
「そりゃー、あるよ」
ついでに言えば、性欲を抑えるために物欲が溢れ出てくるというのもある。曲がりなりにも冬馬とほぼ毎日セックスしていた。だから、余計に欲求不満だ。
千夏は正秋と商店街を歩きながら、それぞれの店頭に目をやる。ふと、リユースショップの店頭に目が留まった。ヴィトンやグッチなどハイブランドのバッグや財布が並び、エルメスのバーキンもある。価格は六十万二千八百円とあり、ホワイトレザーにゴールド金具のそれは、存在しているだけで眩しい。千夏の物欲をグイグイと引き寄せる。
「千夏…?」
千夏が足を止めたので、正秋も立ち止まる。
「あ、ごめん。行こう」
千夏はだいふく屋の袋を持っているのが恥ずかしくなり、ずんずんと歩く。
「千夏はエルメスが好きなんだ?」
「別に」
正秋がいくら売上成績ナンバーワンの営業マンといえど、勤めているヒロイン・デザインはしがない中小企業だ。ああいうのを彼女へ気軽にプレゼントしてくれるほど、稼ぎがいいはずがない。千夏はオシアスを解約してサブスクリプションを利用しようかと考えつつ、家路を急ぐ。手前の交差点が赤信号になったので、二人は横断歩道の前で止まる。
「ブランド物を一個も持ってなくて、彼氏にスーパーで激安品買わせるために並ばせる私のこと、どう思う」
千夏は正秋の方を見ず、ふてくされた声で尋ねる。
「最高だよ」
正秋の声は曇りなく、明るい。
「なんで」
最高なはずがないだろ。こんなケチな女は、自分が男でも嫌だ。
「これでお昼、俺に何かご馳走してよ」
正秋は純真そうに笑い、千夏の持っているレジ袋を顎でしゃくる。その中には戦利品の豚肉とキャベツ、卵が入っている。千夏が小さく頷くと、正秋はその袋を取り上げ、千夏のアパートへ向かった。