オフィスラブ
翌日の午前中のことだった。千夏は制作部の自席に座り、社外のビジネスパートナー達とチャットをしていた。
『お疲れ様です、ヒロインデザインの天野です。内村レディースクリニックの件ですが、裏表紙の修正入りました。ご対応お願いいたします』
『はい、今週中に戻していただけると助かります』
『そうなんです、すみません。助かります、いつもありがとうございます』
一方、別画面で正秋とのチャットも並行していた。
『正秋、今日は外? 帰社するなら一緒にお昼食べようよ』
『よかったあ。昨日言ってた手伝い、今日の午後ならいいよ』
『えー。私も愛してる(ハート)』
千夏の会社員生活は灰色から、急に色彩豊かになった。もう単なる社畜ではない。彼氏のいる社畜だ。正秋はいつだって自分を愛してくれる。ずっとそばにいると言ってくれる。
唯一、気になるのは新参者の楓だが、本人はどうか。気まぐれに楓の席の方を見る。本人は何かの作業に追われているのか、高速でキーボードをタイピングする。千夏は周辺も見回した。長谷川はしんどそうに肩をぐるぐる回し、黒岩は渋い顔で画面に張りついていて、ディレクターの住谷はやたら頭を掻きむしっている。瞬間、千夏は全世界に勝利した。
気分がいいので、席を立って給湯室へ向かった。そこで鼻歌を歌いながら、熱湯に紅茶のティーバッグを入れる。茶葉が抽出される間、千夏はスマートフォンを開いた。こちらからも社内チャット画面にアクセスできるので、千夏は正秋からの文面を見てほくそ笑む。
「楽しそうですねー」
ひそやかな声が背中に降ってきて、千夏は慌てて振り返る。そこにはニコニコ笑顔を貼り付けた社内一の美女、春菜が立っている。
「あー、お疲れ」
千夏は急いでスマートフォンを引っ込め、いい加減に笑って返すと、春菜は流し台の下の引き出しから洗剤を取り出す。
「で。いつからなんですか」
「何が」
春菜がコップを洗いながら話しかけるも、千夏はしらばっくれる。どうせチャット画面を盗み見されたに決まっているが、あえて口にしたくない。
「係長と」
「…つい最近」
そうだ。自分達が付き合い出したのはほんの十日前だ。なのに、もう何年も前のことのような気がしてくる。
「フーン。やっぱそうなるんだろうなって思った」
そういう春菜の言葉を千夏は真正面から受け取る。春菜はまだ正秋のことが好きなのだろうか。
「ごめん」
「謝ってもらう筋合いはないです。私もう、未練ないですから」
そう言って笑う春菜の笑顔は力強い。千夏はなんだかその笑顔に励まされた気分になり、小さく頷く。
「そうなんだ」
「係長、この短期間で変わりましたよね」
「そう?」
千夏は腑に落ちなくて春菜を見返す。
「はい。前はもっと私達『エトセトラ』にはドライだったのに」
「エトセトラって何」
「千夏さん以外の女のこと。全然、つれなかったのに、最近ニコニコしてるし優しいです。なんかあったんだなーって係長見て、すぐ分かりました」
春菜は皮肉って笑い飛ばす。
「えー、そうなんだ」
「そうですよー。女は男で変わるって言いますけど。男も女で変わりまくりですよ」
そういうことか。正秋にそういう変化があったとは、なんだかおかしい。でも嬉しい。ニヤニヤしすぎて、顔を手でブンブン仰いだ。通りがかった生野の頭に触れ、そのヅラが床に落ちた。
「千夏さん、今日もお弁当なんですか」
「うん」
そう、今日は正秋と一緒にお昼だ。しかも午後からは営業部の手伝いという大義名分のもとの、事実上の社内デートだ。
「私、これから外出なんで。明日、一緒にランチに行きましょうよ」
千夏はふいに、以前、一緒にランチ行こうと言ったまま約束を果たしていないことを思い出す。さらに、翌日に沙耶香と美穂を居酒屋に呼び、引き合わせるつもりでいることを思い出す。
「うーん。それもいいけど、明日の夜、女子会なんだ。春菜もおいでよ。メンツは私とタメの社会不適合者と、六十歳の淑女だけど」
「えー? なんですかその集まり。絶対、行きます」
春菜は誘われたのがよほど嬉しいらしい。春菜本人は二十代半ばで若く、美人だ。その美しい顔をさらに輝かせ、部屋を出ていった。
昼休憩になり、千夏は休憩室へ向かった。空いているテーブルを陣取って弁当を広げたところへ、正秋が部屋に入ってきた。
「お疲れー」
「お疲れー」
二人は意味深に笑う。すると早速、こちらをニヤニヤしながら見てくる社員がいる。
「安田ご夫妻は仲良く一緒にお昼ですか」
「おー。分かってんなら邪魔すんな」
正秋は鬱陶しそうに部下達を一喝する。だがその言い方はとてもソフトで、迫力がないのが千夏には笑える。
「いいなあ。天野さんの愛妻弁当」
「えー? これが?」
今度は千夏が適当に笑ってダイエット弁当を見せる。
「うわー。何すか、それ。すげー貧相」
「うちの奥さんは意識高い系だから。だからこんなに美人なんだろ」
正秋は真面目な口調でふざけつつ、千夏自身と弁当をフォローする。
「へえ。じゃあ、夫にはアーンしてやんないとっすよね」
「うん。そうだね。はい、あなた。アーン」
調子に乗った千夏が箸でご飯をすくい、正秋の口の前へ突き出すと、正秋は男らしくガブっと食べる。それを見て正秋の部下達は拍手した。
「あざーす」
「邪魔すんな、シッシッ」
正秋がこれみよがしに千夏の肩を抱き寄せて手を振り払うと、今度こそ部下達は冷やかしをやめた。千夏はくすくす笑いながら正秋を横目に見て、その手をどける。すると正秋も千夏に向き直り、愛しそうな目で笑いかけてくる。
「社内でそういう目はしちゃダメです」
千夏は鶏胸肉を食べながら、周囲の雑音に紛れるくらいの声量で小言を言う。
「別にいいんじゃない。バレても」
正秋も同じくらいのボリュームで返し、頬杖をついて微笑む。いつの間にかテーブルの上には千夏の弁当だけでなく、コンビニの中華まんにコロッケにメンチカツと、ボリューミーなホットスナックが並んでいる。
「やだよ。やりにくくなるじゃん。てか、何これ。太るよ」
千夏はそう言って中華まんを凝視する。久しく食べてないものだ。
「そうなんだ。俺はバレてもいいけど。ね、千夏にはもっと太って欲しくて買ってきたんだよ。食べてよ」
「私はバレたくない。太りたくもない」
「まあまあそう言わず」
正秋はさっと中華まんを半分にちぎる。どうやら中身は肉まんのようだ。
「正秋がデブ専なのは知ってたけどさ」
千夏は諦めたように笑い、差し出されたその肉まんをもぐもぐと食べる。そこへ、誰かがわきを通りかかった。
「お疲れ様です」
千夏はぎくりとして見上げる。楓だ。
「お疲れ」
千夏は平静を装いつつ、正秋の様子を伺う。正秋は一瞬だけ楓を見つめたようだが、何も口にせず、軽く会釈だけする。千夏はドキドキしながら見守るも、楓と正秋は特に言葉を交わし合うことはなく、楓は別テーブルの方へ行ってしまった。
昼食を食べ終わり、千夏と正秋は営業部の打ち合わせスペースへと向かった。
「じゃ、今日はこの訂正シール貼り、手伝って」
「了解」
どうやら制作した印刷物に誤植が見つかったらしい。二人はテーブルの前に並んで座り、訂正シールの束からシールを一枚ずつ剥がし、誤植部分に丁寧に貼っていく。打ち合わせスペースは営業部の部屋と仕切られているものの、ドアはないので話し声はこちらへ伝わってくる。だが、誰かがこちらへくる気配はない。
「新しく入ったディレクター。どう思う」
千夏はなるべく自然体で、楓の第一印象を正秋に尋ねる。心中はあまり穏やかではない。
「どんな人だっけ」
「さっき休憩室で挨拶してきたじゃん」
「あー…」
あー、の声が白々しい。本当は見とれてたんだろ。
「別に、なんとも」
正秋はシールを貼り続ける。
「正秋のモロ好みでも?」
「ハハハ。なになに。妬いてんの」
正秋は顔をあげてニヤニヤする。
「別に」
千夏は思わずふてくされる。それを言ったら私だって正秋がモロ好みというわけではない。自分の好みのタイプは冬馬が一番近い。背が高くスラリとしていて、だけど冬馬のような切れ長の目ではなく、もう少し大きい目の方がいい。さらに言うと顔が小さい割に喉仏が大きく、指は長いのに関節が太い男がタイプだ。
ふいに正秋がキスしてきた。両頬を両手で押さえられ、抵抗はできない。パーテーションを隔てた先には、営業部の人間がいる。千夏はハラハラしながら目を閉じた。声の感じから察するに十人はいる。なのに、自分達はキスをしている。それも、とても情熱的に。
「んんん」
少し抵抗してみるが、本気でしない。ずっとこうされていたい。いつでもどこでも愛されていたい。他の女なんか見るな。私だけを見て。欲望には際限がないんだと、千夏は目をつぶったまま、自分自身に驚く。パーテーション越しに誰かが椅子をひき、勢いよく立ち上がって歩く音が聞こえてくる。千夏は力づくで正秋を引き離し、作業に戻る。その二秒後、正秋の部下が書類を手に顔を出した。
「係長。これに承認印、欲しいんすけど」
「ああ、了解」
正秋は涼しい顔を取り繕い、書類に押印する。
「あざす」
部下は何も気づいた様子もなく、再びパーテーションの向こうへと戻っていく。千夏は正秋に向き直り、思いきり頬をつねる。
「イタタタ。ごめんって」
「見られたらどうするつもりだったの」
千夏はさらに指に力を込める。正秋はつねられて涙目のまま笑う。
「いいんじゃない」
「いいんじゃないって何」
「そんなの見た方が察して、黙っていなくなるだけだろ」
「バカ」
「バカでごめん。愛してる」
正秋はそう言って切なそうに微笑み、キスの続きを始めた。