第10話:古都への旅立ち
橘との屈辱的な契約から、数日が過ぎた。
俺の日常は、まるで何事もなかったかのように進んでいく。
学校では、友人たちと修学旅行の班分けや、お土産の話で盛り上がった。その、賑やかな教室の喧騒が、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
俺の心は、重い鉛のように沈んだままだった。
詩織とはあれ以来、学校で会っても当たり障りのない挨拶を交わすだけだ。
俺は、彼女の真っ直ぐな目を見ることができなかった。彼女は、俺が橘と取引したことをまだ知らない。
知ったら、彼女はどう思うだろうか。仲間を人質に取られ、敵の軍門に下った卑怯者だと軽蔑するだろうか。
あるいは、守れなかった自分の無力さを、責めてしまうだろうか。
どちらにしても、彼女をこれ以上巻き込むわけにはいかなかった。彼女の誇り高い魂を、俺の問題で汚すわけにはいかない。
†
そして、修学旅行の当日を迎えた。
東京駅のプラットホームは、同じ制服を着た生徒たちの興奮と期待の熱気で、むせ返るようだった。
新幹線は、滑るように京都へと向かう。
一日目はクラスごとのバス行動で、金閣寺や清水寺を巡った。煌びやかな歴史的建造物も、友人たちの馬鹿話も、今の俺の心にはほとんど響かなかった。
詩織とは、意識的に距離を取っていた。
彼女もそれを察しているのか、友人たちと静かに談笑している。その横顔が、どこか寂しそうに見えたのは、きっと俺の気のせいだろう。
そして二日目。
この日は、班ごとの自由行動だった。
俺たちの班は「とにかく、映える写真を撮りまくる」というテーマの下、最初の目的地として伏見稲荷大社を選んでいた。
朱塗りの巨大な鳥居をくぐる。
どこまでも続く、千本鳥居の赤いトンネル。木漏れ日が、幻想的な光と影の縞模様を、地面に描き出している。
友人たちは、はしゃぎながらスマートフォンで写真を撮り始めた。
俺は、その輪からそっと離れた。
「――悪い、ちょっとトイレ。先に行っててくれ」
簡単な嘘をつき、俺は一人、千本鳥居の奥へと足を進めた。
俺には、確かめなければならない事があった。
詩織が警告してくれたこの場所。
国津神の気配。
そして、橘が俺をここに送り込んだ、本当の意味を。
一人で全てを背負う。それが、俺が自分に課した罰だった。
鳥居の列が、途切れ少し開けた場所に出る。
そこは、観光客の喧騒も届かない、静かな空間だった。古びた祠の前に、一人の少女が立っているのが見えた。
詩織だった。彼女もまた、班から離れ、単独で調査に来ていたらしい。
俺たちの思考は、まるで合わせ鏡のように、同じ結論に辿り着いていたのだ。
俺たちが顔を見合わせた、その瞬間。
「……宗佑」
先に口を開いたのは詩織だった。
その声は、少しだけ震えているように聞こえた。
「……なぜ、何も言わなかったの。橘局長とのこと」
「……!」
「あなたが一人で局長室へ向かったこと。そして、黒鉄君を人質に、あの人の『駒』になることを承諾させられたこと。……私にはお見通しよ」
彼女は全てを知っていた。おそらく、局内の協力者から情報を得たのだろう。
「……悪かった」
俺は、それしか言えなかった。
「お前を……巻き込みたくなかったんだ」
「馬鹿ね」
彼女は、俺を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、怒りでも軽蔑でもなく、深い悲しみの色が宿っていた。
「私はあなたの戦友じゃないの? 一人で全部背負い込むなんて許さない。……あなたの痛みは、私の痛みでもあるのよ」
その、あまりにも真っ直ぐな言葉。
俺の心の、一番弱い部分が震えた。
俺が一人で背負おうとしていた、重い重い鎖。
その半分を、彼女が黙って持ち上げてくれたような気がした。
「……詩織」
「もう二度と、私に隠し事はしないで。約束よ」
「……あぁ。約束する」
俺たちは頷き合う。
その瞬間、俺たちの間にあった、最後の壁が確かに取り払われた。
俺たちはもう、ただの戦友ではない。
互いの魂を預け合える、唯一無二のパートナーになったのだ。




