第9話:悪魔の取引
第二章:京都修学旅行編
橘からの電話が切れた後も、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。夕暮れの風が、やけに冷たく感じる。
受話器の向こうから聞こえた、彼の楽しそうな声。俺が断れないとわかっていて、この残酷な選択を突きつけてきているのだ。
――黒鉄の命と、俺の自由。
考えるまでもない。
俺が、黒鉄を見捨てるなんてことできるはずがなかった。たとえそれが、橘の仕掛けた卑劣な罠だとしても。
俺は、その罠に乗るしかない。
『――我が主。これは、明白な脅迫です。彼の要求を呑むことは、我々の独立性を完全に放棄することを意味します』
神座が、冷静に、俺を案ずるような声で警告する。
「……わかってるよ」
俺は、力なく呟いた。
「でも、見殺しには、できないだろ」
俺は踵を返し、東京神祇局へと、再び足を向けた。それは、自ら鳥籠の中へと戻っていくような行為だった。
†
局長室の、重厚な扉を開ける。
そこにいた橘は、まるで俺が来ることを、寸分たがわず予測していたかのように、にこやかな笑みを浮かべて葉巻を燻らせていた。
「やあ、よく来たね、天野宗佑君。君が、正しい選択をすると信じていたよ」
「……黒鉄は、無事なんだろうな」
「ああ、もちろんだ。今のところはね」
橘は、悠然と椅子に座ったまま、俺を見上げる。
その目は、獲物を捕らえた蛇のように、冷たく、そしてねっとりとした光を宿していた。
「さて、取引の話をしようか。君が私の『駒』として働く。その見返りに、私は黒鉄ハヤト君の命を保証してやろう。悪い話ではないだろう?」
「……あんたの、駒……」
「そうさ。君には、私の指示に従い様々な任務をこなしてもらう。荒神の討伐、未契約の神々の調査、そして……時には、私の意に沿わない他の神契者たちの排除もね」
その言葉に、俺はカッと頭に血が上るのを感じた。
「ふざけるな! そんなこと、できるわけ……!」
「おっと、早まるなよ」
橘は、俺の怒りを軽く手のひらでいなした。
「君に拒否権はないはずだ。君が『ノー』と言った瞬間、黒鉄君の独房の警備システムに偶発的なエラーが発生し、哀れな彼は侵入してきた『何者か』によって、バラバラにされてしまうかもしれないからな」
卑劣だ。
だが俺にはもう、彼の言う通りにするしか選択肢は残されていなかった。
俺は唇を強く噛み締め、震える声で答えた。
「……わかった。あんたの駒になってやる」
「ははは、それでいい。それでいいのだよ、宗佑君」
橘は満足そうに笑うと、一枚の書類を俺の前に差し出した。
それは「東京神祇局 特別協力員」としての契約書だった。俺は、その書類に屈辱に震える手でサインをした。
魂を、悪魔に売り渡したような気分だった。
「では早速、君への最初の任務を与えよう」
橘が、楽しそうに言う。
「任務、だと……?」
「ああ。実に君にふさわしい簡単な任務だ。――修学旅行に、行ってきてもらいたい」
「……は?」
予想外の言葉に、俺は思わず間抜けな声を上げた。修学旅行? 何を言っているんだ、こいつは。
「ちょうど、君の高校の二年生は、来週から京都への修学旅行だろう? 君には、表向きは一人の生徒として、それを存分に楽しんでもらいたい」
「……裏では、何をさせたいんだ」
「話が早くて助かる」
橘の目が、再びあの蛇のような光を宿した。
「京都には、東京とはまた違った独自の信仰と、歴史を持つ、強力な神々が数多く眠っている。そして、その神々の力を狙う不穏な輩もね。……国津神の連中さ」
――やはり、京都にも!
「君の任務は、修学旅行を楽しみつつ、京都の神々の動向と、国津神勢力の活動を調査することだ。もし、接触してきたら? ……まあ、君ならうまくやれるだろう」
それは、あまりにも無責任で、危険な任務だった。
俺を、京都という敵地かもしれない場所に、たった一人で放り込み、国津神勢力とぶつけようというのだ。
そしてその結果、何が起きるかを高みの見物を決め込むつもりなのだろう。
「……断る、と言ったら?」
「君は賢い子だ。もうわかるだろう?」
橘の笑みが、俺の最後の抵抗を完全に封じ込めた。
俺はもう、彼の盤上から逃れることはできないのだ。
こうして俺の、人生で最も憂鬱で、そして最も危険な修学旅行が幕を開けることになった。




