第7話:新学期と奇妙な日常
龍神『淵凪』との出会いという、嵐のような一夜が明けた。
俺と詩織は、ずぶ濡れになった体をなんとか乾かし、何事もなかったかのようにそれぞれの家路についた。
淵凪の本体である池の底の岩は、そのまま公園に残してある。だが、彼の魂は他の仲間たちと同じように、神座の神域へと迎え入れられた。
神座の内部は少しだけ変化していた。
今まであった、御神木の根元の池が、淵凪の力によって、どこまでも深く、そして澄んだ巨大な湖へと姿を変えていたのだ。
淵凪は、その湖の底で、気持ちよさそうにとぐろを巻いている。からかさ様や万象工房たちは、初めて見る本物の龍に、興奮と畏怖が入り混じった様子で遠巻きに彼を眺めていた。
――また、賑やかになったな。
仲間が増える。居場所が豊かになっていく。
その事実が、俺の心を温かく満たしていった。
そして、長かったようで短かった夏休みが、終わりを告げた。
九月一日。二学期の始まりだ。
久しぶりに袖を通す、高校の制服。
教室の扉を開けると、夏休みを経て少しだけ大人びたような、あるいは、変わらないままの友人たちの顔があった。
「おー、宗佑! 宿題、終わったか?」
「……聞くな」
そんな、他愛のない会話。
数々の死線を乗り越えてきたことが嘘だったかのような、あまりにも平和な日常。
だがその日常も、以前とは少しだけ違って見えた。
俺の席から斜め後ろの窓の外。廊下を歩いていく、見慣れた後ろ姿が見える。
詩織だ。
今までは「成績優秀な、高嶺の花」でしかなかった、別のクラスの同級生。
だが、今の俺にとって彼女は、誰よりも信頼できる唯一無二の「戦友」だ。
休み時間。
俺が、購買でパンを買って教室に戻ろうとすると、廊下の隅で、詩織がまるで偶然を装うように立っていた。
「……宗佑」
「よお、詩織。奇遇だな」
「……別に、奇遇でもなんでもないわ。あなたを待っていたのだから」
彼女は、ツンと澄ました顔で言う。
その手には、一冊のノートが握られていた。
「これ。神祇庁内の、最近の動向をまとめたものよ。例の特務部隊の動きや、橘局長の不審な金の流れ。私がアクセスできる範囲で調べてみたわ」
「……マジかよ。いいのか、そんなことして」
「局員としての義務よ。組織の不正を見過ごすわけにはいかないから」
彼女はそう言って、ノートを俺に手渡した。
そこには、びっしりと細かい文字で、神祇庁の内部情報が書き込まれていた。
彼女が相当なリスクを冒して、俺のために用意してくれたものだ。
そのことが、胸に熱く響く。
「……サンキュ。助かる」
「……礼には及ばないわ。その代わり、と言ってはなんだけど」
彼女は、少しだけ、言いにくそうに、視線を逸らした。
「……古典のこの部分が、よくわからなくて……」
彼女が指さしたのは、古事記に関する難解な一節だった。
神祇庁のエリートである彼女は、神話に関する知識は豊富だが、純粋な国語の読解問題は少し苦手なのかもしれない。
俺は、思わず笑ってしまった。
「なんだよ、そんなことか。任せとけって。俺、文系科目は、意外と得意なんだぜ」
「……な、何がおかしいのよ!」
顔を赤くして、抗議する詩織。
その姿は、戦場で見せる凛とした巫女のものではなく、年相応の普通の女子高生のものだった。
俺たちは顔を見合わせて、また笑った。
学校では、ただの同級生。
放課後になれば、世界の裏側で戦う戦友。
そんな、奇妙でちぐはぐで、でも、どこか心地よい二重生活。
俺は、この日常がずっと続けばいいと、心の底から願っていた。
だが、そんな束の間の平和を脅かす影は、すぐそこまで迫っていた。
詩織がまとめてくれたノートの、最後のページ。そこには、走り書きのような文字で、こう記されていた。
『――黒鉄ハヤトの処遇について、橘局長が何かを画策中。彼の独房の警備レベルが、不自然に引き下げられている。要注意』
橘が動く。
その予感が、俺たちの穏やかな日常に再び、戦いの匂いをもたらそうとしていた。




