第3話:龍神との対話
池の水は想像以上に冷たく、そして重かった。
水面に反射していた、夏の終わりの光は、水中に潜るとすぐに届かなくなり、あたりは深い緑色の闇に包まれた。
泥の匂いと、水草の生臭い匂いが混じり合う。
俺は、息が続く限り、池の底へと向かってひたすらに手足を動かした。
――どこだ……?
視界は、ほとんど効かない。
頼りになるのは、魂で感じるあの悲しい声の響きだけ。
声は、池の中央、一番深い場所にある巨大な岩のあたりから聞こえてくるようだった。
『……くるな』
俺が近づいていることに気づいたのか、声の主が明確な拒絶の意思を示してきた。
その声と同時に周囲の水が、まるで意思を持ったかのように、俺の体を押し返そうとする。
強い水流。
だが、その力には敵意や殺意は感じられなかった。
ただ、ひたすらに「自分の縄張りに入ってこないでくれ」という怯えと、頑なな拒絶だけ。
『ニンゲン……。ニンゲンは、もう、信じぬ』
その声には、深い絶望が滲んでいた。
俺は、水中で口を開くことはできない。だから、心の中で必死に語りかけた。
――俺は、あんたの敵じゃない!
『黙れ! お前たちニンゲンは、いつもそうだ! 都合のいい時だけ我らを神と崇め、祈りを捧げる。だが、一度、我らの力が及ばなくなれば、あるいは、我らの力が邪魔になれば、容赦なく忘れ、捨て、土砂の底に生き埋めにする!』
激しい怒りと共に、彼の記憶が俺の脳内に流れ込んできた。
それは、はるか昔の、この土地の光景だった。
まだ、この公園がただの湿地帯だった頃。大雨が降るたびに川が氾濫し、人々は水害に苦しんでいた。
彼は、この地に住まう気高き龍神だった。彼は自らの力で荒れ狂う水を鎮め、人々を、その土地をずっと守ってきた。
人々は、彼を「水神様」と呼び、小さな祠を建てて感謝の祈りを捧げた。
それは、彼にとって誇りであり、生きる意味そのものだった。
だが、時代は変わる。
人間の治水技術が進歩したのだ。巨大な堤防が作られ、川の流れは完全にコントロールされた。
もう、彼の力は必要なくなった。
人々は次第に彼のことを忘れ、祠は朽ち果て、そして、大規模な公園開発の際に彼の住処であったこの池は、ただの「景観」として、その形を変えられてしまった。
彼は、信仰を失い、力を失い、そして、ただ忘れ去られた。
裏切られたのだ。彼が命を懸けて守ってきた人間たちに。
『もう、たくさんだ……。我はこのまま、この冷たい水の底で、誰にも知られず静かに消えていく……。それが我の運命だ。だから、もう関わるな!』
――違う!
俺は、彼の悲痛な叫びに、心の中で叫び返した。
彼の記憶を見て分かった。
彼は、人間を憎んでいるんじゃない。本当は、もう一度誰かの役に立ちたいんだ。もう一度、誰かに必要とされたいんだ。
ただ、その想いをどう表現していいかわからず、心を閉ざしてしまっているだけだ。
俺は最後の力を振り絞り、彼の本体が眠る、巨大な岩へと手を伸ばした。
岩に指先が触れる。
その瞬間、俺の魂と龍神の魂が、直接繋がった。俺は、俺自身のありったけの想いを彼に伝える。
――あんたの力は、まだ終わっちゃいない!
――あんたは、まだ誰かを守れる!
――俺が、あんたを必要としてる!
俺の、真っ直ぐな想い。
それは、孤独に凍てついていた龍神の心を、ほんの少しだけ溶かした。
俺を押し返していた水流が、ふっと弱まる。
『……お前は……一体、何者だ……?』
彼の声から、拒絶の色が少しだけ薄れていた。
その隙を、俺は見逃さなかった。
俺は、彼の魂に新しい「役割」を授ける。
――あんたは、もう、この小さな池に縛られる、水神様じゃない!




