第2話:水底に眠る声
詩織との間に、奇妙な「共闘関係」が結ばれてから一週間が過ぎた。
俺と詩織は、無事に東京神祇局の医療施設を退院し、それぞれの日常へと戻っていた。
今日は夏休み最終日。
手つかずだった宿題の山が、現実の重みとなって俺にのしかかっている。
「……はぁ。全然、やる気が出ねぇな」
俺は、自室の机で参考書を広げながら、大きくため息をついた。
あんな世界の存亡をかけたような戦いの後だ、無理もないだろう。と自分に言い訳をする。
肩の傷は完治したが、魂が削られたような、根本的な疲労感はまだ残っていた。橘や国津神勢力の不穏な動きも気になる。何より、独房にいるという黒鉄ハヤトのことが頭から離れない。
『――我が主。思考の停止は、非生産的です。精神的負荷の軽減のため、環境の転換を推奨します』
机の上で充電中だった神座が、冷静な分析を告げてくる。充電は必要無いのだが、神座が少し元気になる気がする。
神座の神域では、仲間たちが俺を心配して、静かに気配を潜めているのがわかった。彼らにまで、心配をかけてしまっている。
「……わかってるよ。気分転換、か」
神座の言う通りかもしれない。
俺は、放り出すように参考書を閉じると、着替えもそこそこにアパートを飛び出した。
あてもなく、自転車を走らせる。
夏の終わりの、少しだけ寂しさを帯びた日差しが、アスファルトの上で揺らめいていた。
そうして俺が辿り着いたのは、都心にありながら豊かな自然を残す、大きな公園だった。
その中心には、広大な池が広がっている。貸しボートに乗るカップルや、水辺で遊ぶ子供たちの楽しげな声が聞こえてきた。
平和な光景。
高尾山での戦いが、まるで嘘だったかのような穏やかな時間。俺は、池のほとりにあるベンチに腰を下ろし、ぼんやりと水面を眺めた。
――俺が守りたいのは、結局こういう景色なのかもしれないな。
そう思った、その時だった。
『……さむい』
不意に、声が聞こえた。
からかさ様と出会った時と同じ、魂に直接響いてくる声。
だが、その声質は全く違っていた。
それは、どこまでも冷たく、深く、そして、孤独に凍てついたかのような、途方もない悲しみに満ちていた。
俺は、はっとして周囲を見回す。
声は、この池の一番深い、光の届かない底の方から聞こえてくるようだった。
『くるしい……。みずが、おもい……』
声は、途切れ途切れに助けを求めている。
忘れられた神様だ。
こんな大勢の人が集まる、賑やかな公園のすぐ足元で、誰にも気づかれず独りぼっちで苦しんでいる神様がいる。
俺は居ても立ってもいられなくなった。
――放っておけるかよ。
だが、どうする?
相手は池の底だ。俺は泳ぎが得意なわけじゃない。それに、うかつに飛び込めば、周りの人たちに、ただの不審者だと思われるのがオチだ。
『――我が主。対象の神気パターンを分析。極めて高位の、水神の系譜と推測されます。しかし、その力は著しく減衰しており、このままでは、自我を保てず、水質の悪化や異常気象を引き起こす、強力な荒神へと変貌する可能性があります』
神座からの、冷静だが緊急性を要する報告。
迷っている暇はなかった。
俺は公園の管理事務所へと走り、事情を話した。
「池に、大事な物を落としてしまったんです! どうしても、今日中に見つけないと……!」
もちろん嘘だ。
だが、俺の必死の形相に管理人の老人は、呆れながらも「まあ、自己責任でなら……」と、立ち入り禁止の立て札を一時的にどけてくれた。
日が傾き始め、公園から徐々に人がいなくなっていく。
俺は、池のほとりの一番水深が深そうな場所へと向かった。
意を決して、靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾をまくり上げる。
八月の終わりとはいえ、夕暮れ前の池の水は、心臓が止まるかと思うほど冷たかった。
「……待ってろよ。今、助けに行くからな」
俺は水面に呟くと、その冷たい闇の中へと、一歩、また一歩と、足を踏み入れていった。
水面下では、人間たちの喧騒とは無縁の、静かで冷たい世界が広がっている。
その光の届かない底で、忘れられた神様が眠りの中で、救いを求めるようにか細い声を上げ続けていた。




